第9話 忍び寄る影
男は自らランプを手に、地下への階段を降りる。使用人の類いは先導しておらず、この男の他に人はいない。ひんやりとした冷たい空気が足を掬い、男は一度身震いした。地下へと降りた先にある正面の扉へと、男は真っ直ぐに足を向ける。扉の鍵を胸ポケットから出した男は、慣れた手つきで鍵を回した。重い扉をゆっくりと押せば、扉が低い声で鳴く。
男を迎え入れたのは白髪の初老の男。狭い部屋には所狭しと本や薬品が置かれていた。中央に置かれた作業台にも、厚い本が積み重なり今にも崩れ落ちそうな程である。
「旦那様。実験は成功です」
初老の男は元々細い目をこれでもかという程に細め、男を迎えた。その言葉に、男は顔を綻ばす。
「おお! とうとうか。待ちわびたぞ。十年も待った」
初老の男は一つ頷き、部屋の奥にある本棚に手を掛けた。そして、一冊の本を引き抜く。その本の奥にある取っ手を引き抜けば、本棚の一部は奇妙な音をたてて奥へと消えていった。本棚に人一人分の穴がぽっかり空くと、初老の男は躊躇(ためら)わずに穴を潜る。その後ろに男は嬉々として続いた。
奥の部屋は、元居た部屋よりも広く、今以上にひんやりとしている。冷えた空気が二人の身体を撫で迎え入れた。
何個も並ぶ人一人分の石で出来た寝台。その上には少年や少女が両手両足を拘束され、並べられていた。色を失い冷たくなった者、小さな呻き声をあげている者。そして、己の運命に絶望し、言葉を無くしている者。
鼻を衝(つ)く異臭に、男は僅(わず)かに眉根を寄せた。しかし、初老の男は気にする様子も無く部屋の奥へと向かう。苦し気に呻く少年の前に立つ。玉のような汗を流し、身体中には斑点が浮き上がっていた。
「高熱、身体中の斑点」
「まるで――死病だな」
男がニヤリと笑う。ランプの光が影を作り、その笑顔は不気味な程に歪んでいた。部屋中に男の笑い声が木霊する。しかし、その笑い声は決して外には漏れ出ない。寝台に拘束されている少年達がその声にガタガタと震えた。
「ええ、ガルタの村での実験も成功でございました。村の井戸に一滴」
初老の男が蓋の付いた瓶を傾ける。赤に染まる中の液体が、不気味に揺れた。
「十年前の失敗には肝が冷えたからな」
男は肩を揺らしてクツクツと笑う。男の笑いに初老の男が肩を震わせた。
「十年前のことは思い出したくありませんな」
「なあに、村が一つ無くなった所で、大した問題はない」
男はニヤリと笑うと、初老の男の手から瓶を取った。ランプの光に照らすと、瓶の中で赤が不気味な程に赤く揺らめく。血よりも薄く、透き通っている。
「これで、積年(せきねん)の計画が実行に移せる」
「とうとうこの国も旦那様の手の内となりますな」
男が瓶の蓋を開ける。部屋中にふわりと薫る薔薇。その香りに、寝台に横たわる少年はガタガタと震えた。
「この赤き薔薇が死に誘うとは誰も思うまい」
「旦那様、ご注意下さい。この薬の効き目は死後三日。死んでも残る死病とは違い、三日たてば斑点は幻の様に消えてしまいましょう」
「分かっている。三日あれば死体など土の下だ。誰もこの計画は分かるまい。皆、死病の恐怖に思考力も失うだろう」
男は未来を想像し、クツクツと笑った。肩が楽しげに揺れる。近くに横たわる少年の嗚咽が漏れ聞こえたが、男は全く気にすることはない。
「私があと十若ければ、あの女を妻にすることも可能だったんだが」
男は心底残念そうに呟いた。初老の男はその呟きに小さく笑う。
「旦那様もお人が悪い」
「なあに、権利すらない女を女王にしてやるんだ。感謝こそされ、恨まれるようなことでもあるまい?」
男は我慢しきれずに笑いを漏らす。彼の手にある赤い液体も、共に笑うように揺れた。
「春乞の宴が楽しみだ」
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