第8話 カインの素顔3
カインは外に出ると深く息を吐く。安酒が混じった熱い息に眉根を寄せた。まだ陽は高く、行き交う人々の中に酔っ払いなど殆ど居ない。酒の匂いのせいか、カインの横を通り過ぎる人の眉根が僅(わず)かに寄る。昼から酒を煽(あお)る類の人間は、飲み屋の中に入っているのだから尚更だ。
服の匂いを嗅いで確かめた後、カインは大通りを真っ直ぐ歩いた。
ジェイの店からカインの師、ゼスタの店までは少し歩く。元々はすぐ近くに有ったのだが、カインがリンリエッタのドレスを作るようになって二年目の春、広い店を新しく建てた。
元々の店は下町の繁華街にあり、雑多な中に建てられていたのだが、今は比較的落ち着いた場所に建っている。貴族が訪れやすいようにと配慮した為だ。
カインのお陰か、店の客層はガラリと変わった。元々の客といえば、懐が豊かではない伯爵の家が良い方で、公爵家のドレスなど手掛けた経験はなかった。男爵や準男爵が客の殆どだ。下級貴族のドレスどころか、流れの踊り子のドレスや、舞台用の衣装を請け負うことの方が多かった。
腕ばかりは良かったが、このゼスタ、人が良すぎるのだ。安値で引き受けては己の首を絞める。酷い時はツケで作った。そのツケも大抵半分ばかりで踏み倒される。カインを雇ったのだって、人の良さ故だ。
あの日、公爵家がそんなゼスタの店に訪れたのは奇跡であった。たまたまクライット公爵夫人に仕えていた男爵家の娘が、ゼスタのドレスを着ていたのだ。
生地は良くないが、ドレスとしての作りは良い。クライット公爵夫人は金さえ与えれば良いものを作れるのでは無いかと踏んだ。ゼスタは彼女の思惑通り素晴らしいドレスを作る。そして、カインとリンリエッタの出会いがなされたのであった。
「先生、お久しぶりです」
「……ああ」
店の奥、作業台の前でゼスタは生地を睨んでいた。眉間の皺は何本もできている。決して機嫌が悪いわけでは無い。元からそういう顔なのだ。眉根を寄せる癖が積もりに積もって形を成した。
カイン以上に無口なゼスタは、ちらりと彼を見上げると、すぐに視線を手元に戻す。
「どうした。もう要らんと捨てられたか?」
「いえ、まだ仕事は貰えそうです」
「そうか」
カインは、飾られているドレスを舐めるように見つめる。その繊細な作りに、彼は小さなため息を漏らした。
クライット公爵夫人からドレスを依頼されるようになると、ゼスタの収入は格段に増えた。今まででは考えられないような高級な生地を扱えるようになり、彼の持つ能力を遺憾無く発揮している。
クライット公爵夫人は落ち着いた、余り目立たないデザインのドレスを好んで着た。その為、彼の店が流行るのはリンリエッタが社交界で華々しく活躍するまで待たねばならない。
ゼスタがヒクヒクと鼻を何度か動かしながら、眉を寄せる。
「お前、ジェイに絡まれたのか」
「……なぜ?」
「臭う」
カインはもう一度服の匂いを嗅いだ。鼻に付くような匂いは無いはずだと、首を傾げた。
「服じゃない。息だ」
ゼスタの言葉に、カインは片手で口を塞いだ。手で塞いだところで、安酒の匂いは漏れてゼスタの元へと漂う。
ゼスタは大きなため息を吐いた。
「構わん。だが、屋敷に戻る時には気をつけろ」
「はい」
カインはジェイに付き合ったことをほとほと後悔したが、後悔先に立たず。酒の抜けるまで、この匂いと付き合わねばならない。カインは、ため息を吐こうとしてぐっと堪えた。
カインは今日特段ここに用事があった訳ではなかった。ただ、もののついでに寄っただけ。特別伝える事もない。ゼスタの技を盗むように、ジッと師の手元を見つめた。
ゼスタがカインに教えた事など殆どない。職人気質のゼスタは、殊の外教えるのが下手だった。見て覚えろ、真似して掴め。と、カインが入りたての頃は良く言ったものだ。
暫くの間、静かな時が流れた。それを打ち破るように、ゼスタがポツリと呟く。
「店を離れて何年になる?」
「五年です」
「そうか……お前そろそろ戻って来る気はないか?」
「先生?」
「お前ならこの店を守れるだろう」
「何を。この店は先生の物です」
「ああ、その店をお前にやっても良いと言っているんだ」
今日のゼスタは酒でも飲んでいるかのように饒舌(じょうぜつ)だ。ゼスタは顔に似合わず下戸である。酒は一滴だって飲めない。匂いのせいかと、カインは息を止める。
「どうも最近目の調子が悪い。そろそろ針仕事は終わりだと神が言っているのだろう」
「引退を考えているのですか?」
「ああ、だから全部お前にやろうと思ってな」
ゼスタが普段上げることのない口角を存分に上げた。人は良いが、弟子に厳しいゼスタはあまり笑わない。歪な並びをした歯が、開いた口から顔を覗かせる。カインは、その不器用な笑みに眉を寄せた。
「俺よりもっと上手く経営していける奴がいるでしょう?」
「なーに言ってんだ。この店を大きくしたのは他ならないお前だ。一番の貢献者が継がなくてどうする」
カインの兄弟子は二人いる。ゼスタとカイン含め四人で店がボロボロの頃から食いつないできた。その内の一人に金勘定が上手い者がいる。
大雑把でお人好しのゼスタが店を畳まずに済んだのは、彼の力が有ってこそと言っても過言ではない。
「あいつらも同意している。三人でやっていけば良い。面倒な事は全部二人に任せて、お前はドレスを作ることだってできる」
「でしたら、彼等のどちらかに譲って下さい。俺はただドレスが作れればそれで良いので」
ゼスタがカインの瞳(め)を覗き込むと、カインは居心地が悪そうに目を逸らす。ゼスタの皺の寄った目が細められた。
「人生で自分の店が持てる奴ってえのは、ほんの一握りだ。お前はそれになりたくはないのか?」
「店を持たなくても、ドレスは作れます」
「お前は欲がないな」
「いえ、私は世界で一番欲張りな男です」
大きなため息が部屋を埋める中、カインは自嘲気味に笑った。
カインが店を後にしたのは、それから少し経ってから。まだ陽が沈まない時間であった。夕餉(ゆうげ)の匂いを嗅ぎながら帰路に着く。腹は空腹を主張していたが、カインは寄り道もせずに屋敷の門をくぐった。
「あら、カイン。おかえりなさい」
「お嬢様……ただ今戻りました」
カインは匂いを気にし、正面の広間ではなく裏の出入り口を使おうとした。しかし、幸か不幸かリンリエッタは裏の入り口に通ずる庭園で花を眺めていた。
小さく息を止めながら、カインは腰を折る。何も知らないリンリエッタは、気安くカインの側まで歩いた。
彼女の見えない場所では、カインが眉根を寄せる。
「そんなに腰を曲げていたら、すぐにお爺様になってしまうわ。顔を上げて」
カインはいつものように、折った腰を元に戻すと、リンリエッタを見下(みお)ろす間もなく片膝を地につける。そして、彼女を見上げた。その姿にリンリエッタが肩を竦める。
「今日はお店に行ってきたのでしょう? ゼスタ先生はお元気だった?」
「はい」
カインがゼスタを「先生」と呼んでいたせいか、リンリエッタもゼスタを「先生」と呼ぶようになった。ゼスタは始め、居心地が悪そうにしていたが、最近はすっかりと慣れてしまっている。それどころか、ゼスタがリンリエッタに娘を見るような眼差しを向けていることを、カインは知っていた。
「今度は何かお土産を用意するから、事前に教えてね」
「はい」
「ねえ、カイン」
リンリエッタはカインに一歩近づいた。カインは無意識に息を止める。そして、返事をする代わりに首を傾げた。
「私ともお酒を一緒に飲みましょう?」
「……臭いますか?」
「ええ、とっても」
カインはばつの悪そうに顔を背け、大きな手で口を覆う。しかし、不幸なことに、リンリエッタに向かって風が吹いた。隠しきれない酒の匂いは、風に乗って彼女の元へと運ぶ。
「申し訳ございません」
「良いのよ。お酒を飲みたい時は誰にだってあるもの。今度、美味しいお酒を用意して貰うわ」
日付の決まっていない約束に、リンリエッタは頬を緩ませた。
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