アカリ4






 アカリの人生を大きく変える転機が訪れたのは、パパ活捏造事件から数日経った時のこと。

 二週間後には夏休みに入るという時期。


「熱いから冷やしたげる」


 扉越しに聞こえる女の声。

 トイレの個室にいたアカリの頭上から大量の水が降り注いだ。

 女たちが下品な笑い声を上げながらトイレから離れていく。


 個室は二つしかないのにこんなにびしょびしょにしてなにを考えているんだこいつらはと思いながら、アカリは両手で杖を支えにしばらく座ったままじっとしていた。

 

 授業の開始を知らせるチャイムが鳴っても、アカリは動かなかった。

 外はとても熱いが、ずぶ濡れになった制服はすぐには乾かない。


 水を滴らせながら、アカリはトイレを出る。


「最悪」


 もうどうなってもいい。

 あいつらを抹殺したい。


 不屈の意思でいじめに抗い続けていたアカリは、いつしか心を病んで尋常ではない殺意を覚えていた。

 先月は散弾銃を使わずに己の拳と杖を使っていじめ加害者共をぶん殴って暴行事件を起こしたが、いじめの証拠がないせいでアカリが一方的に悪いことにされた。

 

 多くの人間はいじめられれば心に深い傷を追って適応障害になったりする。

 アカリはそういった心の病には陥っていない。理不尽を片っ端から怒りに変えていた。

 いじめによるダメージを殺意に変換できるのはアカリの長所だが、もうじき限界を迎えそうだった。


 いじめには確かに屈していないと言える。だが、もうアカリの精神状態がまともじゃない。

 本来なら学校を休ませなければならない状況だが、彼女の家族は努めていつも通りに振る舞うアカリの異変に気付いていなかった。

 アカリもいじめのことを誰にも相談していないので、鈴鹿家も今の彼女を取り巻く状況を知ることができていない。


 冗談ではなく、学校で死人が出るのも時間の問題だと思われた。


「鈴鹿さん、プールにでも落ちたの?」


「……宮火くん」


 授業中でひと気がない廊下で、ばったりと千春に出会う。

 溢れる憎悪で足音を拾えていなかったアカリはたいそう驚いて目を見開く。濁ったアメジストの瞳が、千春の笑顔を捉えた。

 異常なアカリの姿を見ても態度を変えない千春の姿を見て、ほんの少し心が軽くなったような感覚があった。


「暇なら生徒会室来なよ」


 ずぶ濡れの姿で教室から遠ざかるアカリを見て、なにかを感じ取った千春は生徒会室へ誘った。


 脳みそを支配していた殺意が霧散し、毒気を抜かれた表情をしてアカリは千春の背中を追いかける。


 三階の端の方にある生徒会室に、千春に連れられて濡れた身体のままアカリはやって来た。


 扉を開けて中に入ると、一人の女子生徒が長机の上を広々と使って自習していた。

 見知らぬ来訪者であるアカリに目を向けながら、千春に問いかける。


「千春、誰だそいつは」


 赤い縁の丸眼鏡に、長い黒髪をうなじの位置で纏めた美しい娘が、感情の無い声で問いかける。


「違うクラスの鈴鹿 アカリさん」


「同じクラスじゃないのかよ」


 千春の紹介に突っ込む千冬がなんだかおかしくて、強く記憶に残った。


鈴鹿すずか 灯命あかりのみことです」


「知っていると思うけどこっちは俺の姉貴の宮火みやび 千冬ちふゆね」


「よろしく……まぁ、私は君の名前は知っていたけどな」


 真っ白な髪と兎の耳はよく目立つと、千冬は補足した。


「それで、なにか用か?」


「いじめられてたから相談に乗ろうと思って」


「……知っていたんですか?」


「あの位置でプールに落ちたなんて思うわけないじゃん」


「…………」


 千春の言う通りだが、それだけで虐めだと断定できるわけではない。


「最近になってよく噂を聞くようになったから」


 噂というのは、パパ活の件や日常的に行われているいじめのことだろう。


「結局、いじめ止まらなかったんだ。気付かなくてごめんね」


 特に申し訳なく思ってもいなさそうな千春の言葉にアカリはむっとするも、そもそも他クラスの人間がアカリを助けるなんて無理難題もいい所なのだ。千春に当たるのは筋違いだろう。


「遠慮なく相談してくれてよかったのに」


「それができれば苦労しません」


 誰かに相談する。

 簡単なことなのに、難しい。

 少なくとも、アカリには誰かに相談するという選択肢が無かった。

 ずっと一人で戦い抜いて見せると、覚悟していた。


「保健室登校に切り替えろ」


 参考書に目を落として、ノートに数式を書き込みながら千冬が告げる。


「あの卑劣な者どもに屈しろと?」


 アカリは敵意を持って千冬を睨みつける。

 そうすると、真っ向から千冬が睨み返してきた。

 地味で野暮ったい丸眼鏡の奥にある、千冬の鋭い眼差しにたじろぐ。


「加害者を全員転校させるのも骨が折れる。お前が別室に移った方が早い」


「姉貴、それは俺も納得できないんだけど」


「別に理解は求めていない」


 有無を言わせない口調。


「千春、どうせならお前も一緒に保健室登校してやれ」


「え、なんで?」


「友達いないんだからいいだろ」


「宮火くん、友達いないんですか?」


「ちがっ……あいつらが勝手に宮火にビビってるから……!」


 いじめとは違うベクトルで千春も苦労していることが伺える言葉だった。

 豊葦原秋津国とよあしはらあきつこくに置いて、財閥は分国と比喩されるぐらいに力を持つ。

 財閥解体の際に何人もの政治家と軍人が死に、結局財閥は解体されずに残り続けたのだから人々が恐れるのも無理はない。


 千春は必要以上に恐れられて、クラスでは満足に友人関係を築けていなかった。

 お陰で生徒会室で姉と一緒に過ごすシスコンと化していた。


「こちらで調査をして、いじめ加害者の内申は下げておいてやる。それで満足しろ」


 千冬の発言を咀嚼して吞み込んで、アカリは背筋をゾッとさせる。

 なんてことはないどこにでもある普通の公立中学校で、生徒会長という肩書きだけで生徒の内申点を下げるなんて不可能だ。

 アカリのために宮火の権力を振るうつもりだというのか。


 アカリのために動いてくれているのは感謝するべきことだが、同時に恐れも抱く。

 宮火姉弟が恐れられるのも無理はない話だった。


 千春はどうにも避けられているようだが、そんなに絶大な権力を持つのであれば、取り入ろうとする人間も多いのではないだろうか。

 

「私の方で話は通しておく。保健室登校であれば出席日数、内申は問題が無い。テストだけは贔屓することができないから、実力でなんとかしろ」


 本来なら教師と家族と三者で何度も話し合って慎重に決める話を、千冬は独断で簡単に決めていく。


 そして千冬の宣言通り、アカリは次の日から保健室登校になった。







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