アカリ0.12β
白い兎の耳をぴょこぴょこ揺らして、少女は浮足立つようにマンションの最上階の廊下を歩いていた。
千春と同じ麗名千歳の制服に身を包んだ少女は、遠目からでも目立つ薄いピンク色の派手な髪を背中に流していた。
ゆるゆるでふわふわにウェーブが掛かったピンク色の髪の毛が、少女の歩きに合わせてゆらゆら揺れている。
少女は右手で杖をついていた。
杖をついて、目を閉じて歩いている。
視界が無いのにも関わらず、彼女に怯えの色は見えず、堂々と通路を歩いていた。
少女は杖をついた時の音の反響で、地形を把握して歩いている。
ちなみに、彼女は盲目ではない。
盲目の人間がしている空間把握を、晴眼者でありながらやっているのである。
仲の良い友人からは危ないからやめろとよく言われるが、なんとなく音に頼って歩くのが癖になっていた。
彼女は盲目ではないが、右足が悪かった。
小学生の時の事故が原因だ。
ゆえに杖をついている。
現在に至るまで多くの人たちに哀れまれてきたが、杖無しでも短時間なら歩けるし、一歩間違えれば死んでいたレベルの事故だったので、むしろこの程度で済んでよかったと前向きだ。
車椅子も必要としないし、障害が残ったとはいえ誰にも頼らず自分一人で生きていけるのだ。全然マシな方だろう。
カン。
杖を壁につけて、感覚を確かめる。
兎耳の少女は、そのまま杖で軽く壁を叩きながら歩く。
杖をついていなくても、健常者となんら変わらない軽快な歩みを見せる。
足の障害は、長時間歩くと足が痺れて重くなるというもの。短い距離であれば健常者のように歩くことができる。
全力疾走は流石に無理だが小走り程度なら全然可能で、日常生活にはほとんど支障がない。
マンションの廊下の壁を、叩いていく。
叩くと言っても、傷つけない、うるさくしない。
怒られない程度に、軽く。
壁、壁、壁、壁、壁、壁、金属。
もう一度軽く叩く。
金属の音。
扉だ。
少女はポケットからカードキーを取り出して、扉のロックを解錠する。
扉を開けて、まるで我が家に入るかのような態度で中にお邪魔した。
「千春くん」
家主の名前を呼ぶ。
反応は無かった。
目を閉じたまま、靴を脱いで部屋へと上がる。
耳を澄ます。
千春の生体反応が感じられない。
そもそも、今の時間帯に千春がいないことを少女は知っていた。
バイトのシフトは完全に把握しているのだから。
少女は千春のベッドにダイブして、彼の布団に包まった。
千春の匂いに包まれて、少女は頬を染める。
兎耳の少女――
最近は休日以外は千春の家で過ごすことが多い。
その休日でさえ、千春の家に遊びに行くことが殆どだ。
千春と一緒に過ごして、千春と一緒に起きて、並んで学校に登校する。
本当は学校でも一緒になりたかったけれど、千春は一組で、アカリは四組。
クラスは別になってしまって悲しかったが、それでも充実していた。
アカリはベッドから起き上がると、ずっと閉じていた瞼をようやく開いてアメジストのような瞳を晒す。
千春はきっとまかないを食べてくるだろうから、料理はせずに掃除と洗濯を執り行う。
一通り家事を終えたアカリは再び千春のベッドに潜り込むと、スマートフォンを取り出して動画を流して時間を潰す。
千春が帰って来るのを待つのが、毎日の楽しみの一つだった。
ベッドで寝転がっていると、徐々に眠気がやって来る。
ほんの少しだけ寝よう。
目覚ましも掛けずに、アカリは瞼を閉じて眠気に身を委ねる。
浅い眠りであったけど夢を見ることもなく、アカリはぱちりと目を覚ます。
時刻は22時を回っていた。
千春がバイトを終えて帰宅する時間帯である。
杖を両手で握り、アカリは彼が帰って来るのをそわそわしながら待った。待ちわびた。
されど、千春は23時になっても帰ってこない。
24時になっても帰ってこなかった。
メッセージアプリを開いても、彼からのメッセージはなにも来ていない。
「千春くん……どこ……?」
もう長いことアカリは目を閉じている。
兎耳で常人よりも聴覚に優れたアカリは、ずっと千春の足音を求めて耳を澄ませていた。
だが、いつまで経っても千春の足音が聞こえてこない。
寂しさに耐え切れず、アカリは電話を掛ける。
あて先はもちろん宮火 千春。
呼出音が鳴り響く。
何度も、何度も。
『おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません』
呼出音の先に待っていたのは、冷たさすら感じる機械音声が流れるのみ。
兎の耳がしなしなと力無く前に垂れる。
その時、遠くから駆けてくる足音を耳が拾った。
兎耳が垂れた状態から天を衝くように跳ね上がる。
足音は千春宅の玄関の前で停まり、鍵が開けられた。
「千春くん!」
アカリはぱぁっと花が咲いたような笑顔を浮かべて、杖をついて玄関まで迎えに行く。
ところが、扉を開けて玄関にやって来たのは千春ではなかった。
来訪したのは千春の一つ上の姉、
赤い縁の丸眼鏡と長い黒髪をうなじの位置で一つに纏めた装いは、ぱっと見では地味な印象を受ける。
地味な見た目ではあるが、眼鏡の奥に見える切れ長の目、大きなブラウンの瞳、綺麗な鼻筋、艶やかな赤い唇と、神懸かりに思えるほど美しい顔の造りをしていた。
はっきり言って美しさを隠しきれていない。
女に飢えたナンパ男たちがすれ違った場合、慌てて二度見するだろうし、人によっては追いかけるだろう。
「アカリ……」
「お義姉さん、どうしたんですか?」
千冬は荒い息を必死に落ち着かせながら、上目遣いにアカリを見つめる。
「千春が刺されたらしい」
「……え?」
刺されたってなにに?
私だけでは足りなくて他の男の恋人に手を出して恨まれて刺されたとか?
千春ならあり得る。
千春はアカリの一世一代の愛の告白を「色んな女の子と遊びたいから当分の間は友達以上恋人未満でいい?」とか言って断った男だ。
千春は顔が良くてモテる。
例え彼氏がいたとしても、千春に靡いてしまう女の子は星の数ほどいるだろう。
そういった男女のトラブルも容易に想像できた。
「千春くんは、無事なんですか?」
「命に別状は無いらしいが……まだ意識が戻っていない」
目の前が真っ白になるとはこのことか。
千春の意識が戻っていないという事実に、アカリは激しいショックを受ける。
それからの記憶は定かではない。
ショックによる心因性記憶障害が起きたらしく、アカリは気が付くと病室にいた。
ついでに、いつの間にか朝になっていた。
朝になっているどころか、時刻を確認するともはや昼と言っても差し支えの無い時間である。
アカリは千春の病室で眠っていた。
彼を見守っている内に眠ってしまったたらしい。
ベッドの中心で静かに眠っている千春は綺麗だった。
大怪我をしたらしいが、顔色は良い。
千春の両腕は包帯でぐるぐるに巻かれ、左手首には点滴の管がついていた。
「千春くん……早く目を覚ましてくださいね……」
アカリはそっと顔を近づけて、千春の耳に優しくキスをする。
暫くの間アカリは、包帯でゴテゴテになった千春の手を握りながら、彼の顔を眺めて過ごした。
ただひたむきに、千春が意識を取り戻すように祈りながら、じっと岩のように静かに、彼の寝息に耳を傾けて過ごす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます