セレナ0.1β






 教室の入り口付近のセレナの席を見つめながら、千春は物思いに耽る。


 今日もセレナは休みだ。

 流石にあの様子では、一日休んだくらいでは完治しないだろう。

 彼女の性格から察するに、他者に迷惑を掛けることを良しとしないのだろうが、セレナには十分休息を取って貰いたいところだ。

 あと一日くらい休んだって罰は当たらないだろう。

 普段あれだけお店に貢献しているのだから。なにか物申す人がいたらむしろ千春がぶっ飛ばして大人しくさせる所である。


「ちーはーるー」


 セレナの席を眺めてぼんやりしていると、隣の席のソフィアがしな垂れかかってきて、名前を呼びながら甘えてくる。

 ほっぺをぷにぷにすると、ソフィアはくすぐったそうにしながらも嬉しそうにする。


 いつも通りの日常――というよりかは、少し前からいつも通りになった日常。


 どちらかというと、セレナと一緒で無感情に過ごしていることの方が多かったソフィアだが、いつの間にか千春に対してだけは笑顔を見せることが多くなっていた。


 入学当初から片言ながらも一生懸命コミュニケーションを取り、エタガを導入してからは存分に意思の疎通が図れるようになって、ソフィアは心の底から千春を信頼していた。

 

 信頼は嬉しいが、千春は逆に苦しんでいた。

 性欲を見せ辛いのである。

 きらきらした純真無垢な笑顔を浮かべるソフィアがあんまりに眩しくて、なにもできなかった。

 

 もし千春が迫ったとして、ソフィアが受け入れてくれればなにも問題はない。

 しかし、千春の性欲に対して嫌悪感を抱いた場合、ソフィアは多大な苦痛を覚えることになる。


 千春を拒絶したら、ぎくしゃくして友人関係も終わるかもしれない。

 そうなれば当然、再び独りで学校生活を送ることになる。


 独りになるという不安感、恐怖感から、無理をして千春を嫌々受け入れるなんて状況にもなりかねないのだ。


 流石の千春も、ソフィアが悲しむ可能性がある行動は安易には取れなかった。


 そこまで性欲に支配されてはいない。


 だから千春は、ソフィアの代わりにセレナにたくさんの恋愛感情を注いでいた。

 学校にいる間は、他の人と関わるとソフィアが捨てられた子犬のような表情で千春を見つめてくるので、中々セレナに話しかけることはできない。

 その埋め合わせをするかのように、通勤時、仕事中、退勤時は目いっぱいセレナとコミュニケーションを取った。

 それでも彼女は不服そうだったけど、こればかりは仕方がない。


 セレナが復帰したら、もう少し踏み込んでみようかなんて考えながら、今日も一日をソフィアと過ごす。


 千春が他の女のことを考えているなんて知る由もなく、ソフィアは今日も彼に甘えまくっていた。


 もし千春から求められれば、ソフィアは恥ずかしがって多少の抵抗感は見せるものの、喜んで応じるだろう。


 だけどそれは伝わらない。


 伝わらないから、千春はソフィアとより深い仲になろうとするのに二の足を踏んでいるし、ソフィアは恥ずかしがって深い関係を結びたくても自分からは踏み出せなかった。


 悲しいすれ違いが解消されるのは、もう少し後の話。


 ★


 セレナのいない学校生活二日目。


 大きな問題が起きたのは、昼休みに入った時のことだった。


 サンドイッチを頬張るソフィアを横目に、千春も自分の弁当を机に広げる。

 千春もソフィアも、食事中はあまり喋らない。

 二人で黙々と弁当を片づけていく。


 静かに食事をしていたから、右隣前の席で話す女子たちの会話がよく聞こえてくる。

 話していたのは、スナコを筆頭とする恋歌と燈子から成るセレナ不在の女子グループである。

 彼女たちは、一つの机を囲って仲良く食事をしていた。

 セレナがいないからか、恋歌と燈子はいつもよりテンションが高めで、スナコは逆に低めだった。


「そういえばさぁ、昨日偶然セレナと同中の女の子と知り合ったんだよね」


「えーまじ? つーか、あいつってどこ中つってたっけ?」


羽多御うたみ中」


 声を大きくして話すのは、表向きはセレナの友人っぽく振舞っている恋歌と燈子である。

 スナコも興味があるのか、燈子が話す内容に聞く姿勢を見せていた。


「知り合ったって、どこで?」


「エタガ」


 スナコの疑問に、燈子はあっさり答える。

 全然ゲームなんかやらなそうな派手女子ですらプレイしているエタガは、やはり大人気らしい。


「その子とはタメで、どこの高校に通ってる?って話になったのね? それで、レナ高なんだぁ~って言ったら、うちの中学の同級生もそこに言ってるって言うから、だれだれ~?ってなったわけ」


 まずエタガ内で在籍している高校を明かすとかなに考えてんだと思わなくもないが、ゲーム内で性別は偽れないし、同性なら問題ないとの判断なのかもしれない。


「それがセレナだったと」


「そ」


 そこでいったん話を区切って、燈子は弁当をつつく。


「セレナの中学の話を聞いてたらさ、あいつマジでやばくて」


「え、え? やばいの……?」


 敏感に嫌な空気を感じ取ったスナコが戸惑いながら問いかける。


「うん、やばい。うちもびっくりして心停止しかけたかんね」


「燈子大げさすぎ」


 恋歌が下品に笑いながら、燈子の冗談に突っ込む。

 二人とも声が大きく、少々耳障りだった。

 しかしまぁ、セレナの中学時代の話に興味があるのは千春も同じで、弁当を食べる手を進めながら聞き耳を立てる。


「あいつの母親って、夜職らしいんね」


「マジ?」


 ぴくりと、千春が食事を止める。

 まるで空間ごと固まったように、千春をまとう空気は硬直した。


「本当本当、それで、同級生の父親も客として相手してたのがバレて大騒ぎになったんだって」


「えー、やばすぎでしょ」


「どっから漏れたのか分かんないけど、セレナの母親使ってたエロ親父が結構多かったらしくて、色んな所で離婚騒動」


「えっぐ」


「その子が知ってるだけでも三組の夫婦が離婚してるってさ。やばくない?」


「ウケる」


 話の内容が壮絶すぎて、相槌を打つ恋歌から語彙力が消失していた。


「でも、それって噂でしょ……?」


 いまいち信用できないって怪訝な表情で、スナコが問う。


「これ見てみ」


 燈子がスマートフォンを取り出し、スナコと恋歌が見やすいように机に置いた。

 予め見せるために用意していたのか、既に二人の視線は画面に釘付けになっていた。


「え、これセレナだよね? 誰にビンタされてんの?」


「同級生の母親だって」


「えー、かわいそ~」


 微塵も可哀想に思っていない声で、恋歌が同情を示す。

 動画の内容は、中学校の校門で、セレナが同級生の母親に思いっきりビンタされる瞬間を捉えたものだった。

 同級生の母親が甲高い叫び声でセレナを罵り、駆けつけた教師に羽交い絞めにされるまでずっとセレナにきつく詰め寄るといったあまりにも凄惨な内容なのに、恋歌と燈子はゲラゲラ笑っていた。


 暗い表情になっているのはスナコだけだ。


「でもさぁ、セレナもクラスメイトの彼氏寝取ったり、パパ活してたらしいし、あんま同情できんかも」


「バッグとか時計とかクソ高いハイブラだったのってそういうこと?」


「あいつの家ってシングルマザーらしいし、そういうことでしょ」


「まじかー。見る目変わるわ」


「あの、二人とも……その子が嘘ついてるだけかもしれないし……」


 大声でセンシティブな内容を話す二人を、おろおろしながらスナコが止めようとする。

 燈子の話はクラスメイトたちの興味を大いに引いており、皆が聞き耳を立てていた。


 このまま放置するのはセレナにとって大変良くない。



「お前らさぁ、顔と知能と運動センス全部負けてて試合終了してんだから、今更セレナの評判下げても意味無いよ」


 なんとか空気を変えるしかないと感じた千春が、三人に向かって普段より声量を上げて語り掛けた。


「…………は?」


「なに? いきなり」


 虚を突かれたような表情をした燈子と恋歌。戸惑いに溢れた表情のスナコ。

 少し間をおいて、千春に罵倒されたのだと理解した燈子と恋歌の二人は、すぐさま険悪な顔つきになる。


「なにもかもセレナに負けてて悔しいからって、親の肩書で勝負に出るのはダサすぎるって言ってんの」


「いきなりなんなの? うちらお前に話してないんだけど」


「聞き耳立ててんじゃねーよ、気持ち悪い」


 だったらもっと静かに話せよと思わないでもないが、言ったところで意味がない。

 彼女たちは明確な悪意を持って、セレナの名誉を貶めるために大きな声で中学時代の話をしていたのだから。


「聞かれたくなかったら、そのドブみたいな気色悪い声を抑えろよ。嫌でも耳に入って来るくらいでかい声で喋っててそれはおかしいって思わない?」


 千春が半笑いで小馬鹿にすると、煽り耐性がない彼女たちはすぐさま顔を真っ赤にして憤る。


「きっしょ死ね。話しかけてくんじゃねーよゴミ! 気持ち悪い!」


「気持ち悪い不細工面のやつがなんか言ってんのウケんだけど。金持ちなんだから早く整形しろよ。整形すれば多少はコンプレックスもマシになるだろ。セレナくらい美人になればさぁ」


 嘲笑しつつ適当に暴言を吐いていると、遂に燈子が激怒した。

 勢いよく椅子を蹴って立ち上がり、ドスドスと怒りを滲ませて速足で千春に詰め寄る。

 仕方ない相手してやるかと、千春が立ち上がった。


 燈子は、人を殺せそうなほど殺意の籠った瞳で千春を見上げ、躊躇なくその頬を打った。

 寸でのところで顔を逸らし、威力を大きく下げたものの、痛いものは痛い。

 お返しに足を前に上げて思いっきり燈子の腹部を蹴り飛ばす。


「きゃあああっ!」


 燈子が吹き飛び、机を巻き込んで倒れる。

 慌てて避難してスナコや恋歌が持ってきた弁当箱を全身に被り、悲惨な有様となった。


「なにその顔? 女の子でも殴れますけど」


 千春がゆらゆら近づくと、恐怖と痛みに堪えきれずに燈子が大声で泣き出す。


「死ねっ!!」


 恋歌が近くにあった椅子を手に取ると、思いっきり千春目掛けて投げる。

 恋歌に重い物を投げた経験が無かったためかコントロールが非常に悪く、椅子は千春とソフィアの間を通って窓ガラスを突き破る。

 教室がどよめき、廊下には野次馬が溢れかえった。


 恋歌は近くにあった誰かの筆箱を手に取り、投げる意思を見せるも、その前に千春が素早く接近して彼女の顔面を殴りつけた。

 思いっきり吹き飛び、地べたに伏せた彼女は、自身の赤く腫れた頬を押さえて大きな声で泣き喚いた。


「あ”あ”あ”あああああああああっ!!」


 聞くに堪えない金切り声。


「宮火くん、もうやめて!」


 スナコが千春の腕を掴んで必死に止めようとする。

 流石に泣いてる相手に追撃するつもりはなかったが、スナコは全力だった。


「なにやってんだ宮火! もう止めろ!」


 バスケ部の関川がスナコに良い所を見せたいためか、千春の前に立ちはだかる。

 いや、もう攻撃する意思無いんだけど、なぜ伝わらないのか。肩を竦めて呆れるしかない。


「おいお前ら、なにをやってる!!」


 ちょうど近くにいたのか、体躯の良い現国の教師が野次馬を割ってクラスにやって来た。

 その男性教諭の背後から、千春たちの担任である理神りがみ リティアも姿を表す。


 いつもタイトなレディーススーツをばっちり着こなして、セレナに似たクールな雰囲気を纏っているリティアも、この時ばかりは不安そうな表情をしていた。


 千春も少なからず冷静ではなかったので気付かなかったが、クラスどころか廊下も、どこもかしこも騒がしかった。


「原因はお前か、話を聞くからついてこい」


「あなたたちは、とりあえず保健室に」


 男性教諭に連れられて、千春は教室を出る。

 皆に連行される姿を見送られ、囚人になった気分だった。


 未だに鼻水を垂れ流して泣きじゃくる燈子と恋歌は、リティアに連れられて保健室へと向かっていった。


 千春は生徒指導室に押し込められ、そこで囚人のごとく尋問された。。

 とりあえず当事者である千春からことのあらましを聞き取り、次に当事者以外の近くにいたクラスメイトやスナコ、別室の燈子、恋歌、全員から事情を聴取していく。


 全員の聴取を元に数名の教師たちが話し合い、最終的に千春に出された処分は、一週間の謹慎と反省文だった。

 納得いかねーと思いつつも、停学じゃなかったことに安堵する。

 まぁ、停学と謹慎の違いがいまいち分かってないけれど。


 ちなみに燈子もセレナの名誉棄損罪で一週間謹慎のようだった。


 ざまぁみろ。


 お騒がせしましたと形だけの謝罪を教師に向かって告げて、千春は生徒指導室を出る。

 閉めたばかりの扉がすぐさま開き、ガタイの良い男性教師が顔を覗かせた。


「騒がしくなるから、今日は教室に戻らずこのまま帰れ。君の姉に荷物を取りに来させるから」


「分かりました」


「やっぱ不安だから昇降口まで送る」


「大丈夫ですって……」


 教師が千春の隣に並んで歩く。

 大人しく指示に従うつもりだったのに、信じてもらえなかった。


 騒ぎのさなか、視界の端に映っていたソフィアがとても怯えていたのが強く印象に残っていて、申し訳ない気持ちになる。


 とりあえずスマートフォンで彼女を安心させるべくメッセージを送りたいところだったが、スマートフォンは生憎教室だ。


 千冬が荷物を持ってきてくれるという話なので、スマートフォンが届き次第、メッセージを送るしかない。


 憂鬱な気分になりながら、放課後まで自宅で時間を潰し、千春はバイト先に向かった。














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