セレナ9




 ストーカー騒動が起きた日の次の朝。


 午前六時ちょうどに、朝の温かい日差しを受けてセレナは目を覚ました。


 寝起きでぽやぽやしていたセレナは、自身の寝顔を見つめていた千春を見つけると、急にいつもの鋭い目付きになる。


「おはよう」


「おはよう、宮火くん」


 セレナは怠そうに上体を起こすと、眠気で重たい瞼を擦る。

 今更ながら、淡いピンクのパジャマと寝起きの姿を千春に見られていることに恥ずかしさを感じ、薄い布団で身体を隠した。


「へんたい」


「やれやれ」


 千春は肩を竦めて、小さく首を横に振る。

 気を取り直して、朝食の準備をしていいか尋ねた。


「朝ご飯作りたいから台所借りていい?」


「ダメ」


 ダメだった。

 しかしこれは、セレナが朝食を作るという意味に他ならない。


「つまりセレナさんの手料理食えるってこと? ラッキー」


「自分の分しか作らないけど」


「ひっでぇ」


 仮にも深夜に駆けつけてきたというのにこの仕打ち。やはりセレナはサディストであることは疑いようがない。


「はぁ……すぐ作るから待ってて」


 諦めたように溜息をついて、セレナは洗面所へと向かう。

 軽く洗顔して、化粧水と保湿液で肌のケアだけ軽く済ませてから、台所へと戻ってきた。


 質素な黒いエプロンを身に着け、ピンクのパジャマ姿のまま朝ご飯の調理に取り掛かる。

 冷蔵庫から卵をいくつか取り出すと、小さなボウルに黄身と白身を何個も落として溶いていった。


 料理に励むセレナの後ろ姿を、千春はリビングの壁に寄りかかりながら眺めていた。

 千春の視線を感じて居心地悪そうにしながらも、セレナは料理に集中する。


 セレナは卵焼きを作る途中で電気ケトルのスイッチを入れ、中の水を沸騰させた。


 あっという間に卵焼きを完成させ、朝食の準備に取り掛かる。


 タイマーで既に炊けていたご飯をお茶碗によそって、卵焼きを皿に乗せて、湧いたお湯でインスタントあさり汁を作ってと、全てを手際よくこなしていくセレナ。


「運んでくれる?」


「了解」


 頼まれて、千春は両手に皿を持ってリビングの小さなテーブルに運んでいく。

 セレナが残りの品を持ってきて、朝食は全て揃った。

 千春の分の箸が無かったので、割り箸を渡される。


「朝ご飯の手際良いね」


「当然でしょ」


 二人は小さなテーブルを囲んで、手を合わせた。


「「いただきます」」


 食材に感謝をして、二人はそれぞれ卵焼きに手を付ける。

 学校では勉強も運動も完璧にこなすセレナだが、料理も凄かった。

 そんな凝った味付けをしていたわけではないのに、醤油味の卵焼きはとても美味しい。


 ここで飯がまずいとかいう欠点があればそれはそれで可愛かったけれど、完璧だった。お手上げ。


「このあさり汁超上手いね、毎日作ってよ」


「それインスタントだから、買えば?」


 インスタントスープだと知っていながらもからかってみたが、反応は冷たい。


「あと、私にだけ料理作らせるとかありえないから」


「当番制で俺が作る日があってもいいし、分担にしてセレナさんが料理、俺が掃除とか洗濯でもいいよ」


「そう、ならそれで――ってバカじゃないの?」


「そのノリツッコミおもろくて好き」


 千春のバカみたいな提案を、一瞬でも真面目に考えてしまったセレナは、必死に顔に集まる熱を散らそうとする。


「それと、昨日のことで何か言うことないの?」


 話を変えようと、セレナは昨夜のことを切り出す。厳密に言えば今日の深夜。


「え? あぁ、ストーカーにあって大変だったね」


「違う! キスしたことよ!」


 自分で話題にしておきながら、すぐに失敗だったと悟る。

 どれだけ努力しても千春にキスされた時の感触を思い出してしまい、顔が赤くなってしまう。


「弱っているところにつけこんで人のファーストキスを奪うとか、本当に最低ね、あなた」


 真っ赤になった顔のまま、自棄になりながら詰る。


「警察より先に俺を頼ってくるセレナさんが可愛くてつい」


「あれは冷静ではなかっただけだから、調子に乗らないで」


 本当にそれ以外あり得ない。

 警察を呼ぶのも忘れて、千春だけを頼りにするなんて。

 この男に抱きしめられて安心しきって寝落ちまでしてしまうなんて、人生の汚点としか言いようがない。

 昨日の出来事を思い出して、羞恥と自分への怒りで箸を持つ手を止めていると、先に千春が朝食を食べ終える。


「ごちそうさまでした。美味しかった」


「…………」


 セレナの怒りを涼しい顔をして避け、千春は手を合わせて料理への感謝を告げる。


 食事の作法で欠点でも見つけてやろうと、密かに千春の食事姿を見ていたセレナだが、彼の食べ方は綺麗だった。

 チンピラそのものの風貌の癖して、文句の付け所がない。

 箸の持ち方とか、口に食べ物がある時は喋らない所とか、ゆっくり静かによく噛んで食べる所とか、米粒一つ残さず食べる所とか、ちゃんと「いただきます」と「ごちそうさま」を言う所とか。


「歯ブラシの予備とかある? あれば欲しいんだけど」


「あるけど、お金払って」


「今は財布ないから後でいい?」


「仕方ないわね……」


 『仮にも助けて貰ったんだから無料で上げろよ』と、セレナの中の良心が訴えかけて来るも、これ以上甘く見られるわけにはいかない。

 歯ブラシ代を徴収することが果たして甘く見られないことに繋がるのかどうかは不明だが、強気でいたかった。


 洗面所の棚から、予備の歯ブラシと歯磨き粉を渡す。


「ありがとう」


 千春はお礼を言って、洗面所を借りた。


 歯磨きを終えた千春は、一度家に帰るとセレナに告げた。

 一時的に彼が傍から離れるという事実に、セレナは不安な気持ちに襲われる。


「ジャージだから、制服に着替えないと」


「今からでは遅刻は確実ね……」


「まぁね」


「……ごめんなさい」


「別に遅刻とかどうだっていいし」


 たかが遅刻一回で何をそんなに思い詰めるのかというくらい、セレナは暗い表情をしていた。

 真面目過ぎる。


「それより、気を付けてよ。明るくたって、何があるか分かんないから」


「……そうね」


 千春が自宅に戻り、セレナ一人で登校する。

 少しだけ、気が重くなった。

 外は明るくて、きっと安全なはずなのに、小さくない不安があった。


「じゃあ、また後で」


 千春はそう言ってセレナを抱き寄せると、その唇を何の躊躇いもなく奪った。


「なっ?!」


 口元を手で隠して後ずさるセレナに、千春は笑顔で手を振った。


「ばいばーい」


「ちょっと!!」


 セレナの追及から逃れるべく、千春は素早く外に逃げた。

 玄関の扉が閉まり、セレナが一人残される。


「なんなのよ、もう……!」


 耳まで真っ赤にしながら、ヤリ逃げした千春への怒りを滾らせる。


 どれだけ嫌がって見せても本心では彼を受け入れていて、同意もなくキスをされたのに本気で怒っていない自分が嫌すぎて、セレナは悔しがった。




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