セレナ8








 学校が終わり、アルバイトへ向かう道のり。

 千春とセレナの二人は並んで歩いていた。


「セレナさんどうかした?」


「何が?」


「機嫌悪そうじゃん」


「そうね、とても機嫌が悪いわ。あなたのせいで」


「なんで?!」


 理不尽な怒りをぶつけ、ツンと澄ました態度で千春を置き去りにしようと早歩きになるセレナ。


 学校で千春が蔑ろにするから、セレナは怒っていた。

 ソフィアにばかり構って、セレナのことは見向きもしない。

 千春が無関心に過ごしている傍らで、どうでも良い男ばかり寄ってくる。


 ずっと不満に思っていたことだけれど、今日は分かりやすく態度に現れていた。


 なぜ怒らせたのか、せいぜい一生懸命考えて過ごせばいい。

 答えに辿り着くのは不可能だと思うけれど。


 『あなたのしたことで怒っている』と伝えたのだ、一日か、三日か、一週間か、千春も少しはセレナに振り回されればよかった。

 出来るだけ長いこと、セレナについて脳のリソースを使えばいい。


 これで多少は千春も自分を気にかけるだろうと、セレナは僅かに気を良くして足取りを軽くする。


 一方千春は、『セレナさん、生理重いのかな』とか見当違いの思考に飛んでいて、セレナの怒りの原因が本当に自分にあるなんて考えもしていない。


 姉たちの中で一番まともな千冬はともかく、千夏と千秋は生理が来ると露骨に機嫌が悪くなって千春や給仕の人たちに八つ当たりをして来たりするので、千春はそういった理不尽な怒りに慣れっ子だった。


 相手が自分のことを考えてくれていると思い込んでいる少女と、実際は何も考えていない青年。


 悲しいまでのすれ違いだった。


 気を取り直して、セレナはバイト中は普段通りに過ごす。

 大量の客が夕ご飯を食べにやって来る忙しい時間帯も、千春と蜜姫と共に息を合わせて捌いていく。


 セクハラやナンパが横行する職場だけど、千春と一緒に共同作業するホールスタッフの仕事は好きだった。


 与えられてばかりのソフィアとは違い、千春とセレナは協力しているから。

 

「ご注文の品は全てお揃いでしょうか?」


「はい」


「ごゆっくりどうぞ」


 家族連れの客に商品を提供し終えたセレナは、バックヤードに下がる際に、一人の客と目が合った。

 やや身長が低めで、小太りの男だった。だぼっとしたよれよれのTシャツとくたびれたズボン。第一印象は不衛生の一言に尽きる。

 じっと見つめてくる男を、セレナは今までも何度か目撃していた。

 彼はホールを動き回るセレナをよく観察しているのか、セレナは男と目が合うことが度々あった。

 そのたびに、言いようの知れぬ不安感に襲われる。


 セレナは男の気配から嫌なものを感じ、すぐさま視線を切ってバックヤードに戻った。


 戻った瞬間に、来店を知らせるベルが鳴る。

 セレナが客の案内に向かおうとすると、既に千春が向かっているところだった。

 

 新しく来店した客のために、お冷を用意する。

 その際に、先ほどの男が再び視界に入る。


 男はまだ、セレナを見ていた。

 背筋をぞっとさせ、逃げるように休憩室へ向かう。


 あの男の視線はおぞましかったけれども、その日は一日、面倒な客に絡まれることも、スタッフからのセクハラも無かった。


 やはり、千春の存在が大きいのだと改めて実感する。


「そういえば、昨日は寂しかった?」


「は? 意味が分からないのだけど」


「俺がいなかったから」


「別に」


 千春と一緒の帰り道、ちょうど彼の方から話題に出してきてくれたので、それに乗じてセレナは無茶な要求を突きつける。


「寂しくはないけど、もう二度とシフト交代に応じないで」


「なんで?」


「あなたのような半グレがいないと、私が面倒な客に絡まれるから」


「誰が半グレか」


 犯罪したことないんですけどと言って、千春は心外だと笑う。


「いいよいいよ。美しいセレナ姫のこと、悪漢共から護ってみせよう」


「…………」


 茶化したような物言いだが、護ると言われて悪い気はしなかった。

 ほんのり赤く染まった頬は、街灯の下であっても夜の暗さでは気づかれはしない。


「美人過ぎるのも大変だね」


「大変だったわよ……今まで、たくさん」


「でしょうね」


 学校ではスナコと並んで何人もの生徒から気を持たれているし、上級生からも大人気である。本人は告白されても断り続けているが、それでも玉砕しに来る男たちは後を絶たない。

 店ではセレナと話したいがためにクレーム入れてくるような奴から、遠巻きにひっそりと盗撮する男まで、様々な種類のいかれた野郎どもに目をつけられていた。


 今までの彼女との会話の内容から、小学校、中学校でも散々男関連での揉め事があったのだと推察される。

 

「悩みがあったら、真っ先に相談してくれていいよ」


「え、嫌。あなた口軽そうだし」


「同じクラスにソフィアしか友達いないから大丈夫だって」


「中々悲惨ね」


「悲惨言うな」


 千春が、眉を八の字にして笑う。

 言われずとも、セレナは千春に友人がいないことは知っていた。少なくとも、同じクラスにはいないだろう。

 千春が他の男子と話している姿は滅多に見ない。体育の授業中くらいだろうか。


「それに、相談聞くといいながら性欲見せて来そうだし……」


「それはしょうがないじゃん! 性欲ありませんって面しながら美人の相談に乗る奴いたら逆に怖いでしょ」


「最低ね、あなた」


 既に何回か聞いているセリフ。

 下がっていく好感度をなんとか抑えるために、千春は釈明する。

 

「ソフィアには性欲見せられないから、セレナに見せるしかない」


「私にも見せないで欲しいのだけれど」


 性的な目で見られる。

 それは生物学上避けては通れない道なのに、セレナは生理的嫌悪感を感じずにはいられない。

 今まで出会ってきた男たちの、セレナを見つめる濁った瞳は思い出すだけでも背筋が凍る。


 しかし、千春に性的に見られていると知っても、悪い気はせず、彼に対して嫌悪感を抱くことはなかった。


 それどころか、『ソフィアに性欲は見せられない』と言われて、女として勝ったとさえ思った。

 

 セレナは自身の心に起きている変化を自覚して、更に頬を赤く染める。


「まぁ、でも、気軽に相談してよ。なにかあればだけど」


「ふふっ……そうね……そうするわ」


 会話が一段落した所で、セレナの自宅に辿り着いた。


「じゃあ、また明日」


「送ってくれてありがとう……また明日」


 千春に見送られて、セレナは自宅へと向かう。

 いつもより、足取りが重い。


 玄関の扉を開けて、鍵を閉め、チェーンを掛ける。


 扉に背中を預けて、セレナは暫く呆けていた。


 千春と離れるのが、少し苦しい。


 一人の部屋が、少し寂しい。


 自分が弱くなったような感覚に陥る。


 今まで、全ての悪意を自分一人で跳ね除けてきたのに。


 ポケットからスタンガンと催涙スプレー、防犯ブザーを取り出し、棚に置く。


 千春がずっと傍にいてくれれば、こんなものも必要ないのに。


 まかないで夕飯を済ませていたセレナはお風呂に入った後、予習復習に時間を割いて一日を終えた。


 その日の夜、セレナは珍しく深夜に目を覚ました。


 時計は一時半を示している。


 寝ぼけた眼を擦りながら起き上がると、ふらふらした動きでテーブルの上にある水の入ったペットボトルを開けて喉に流し込んだ。


 このままもう一度寝ようと、再びベッドに横になったセレナの耳に小さな金属の音が届く。

 思わず息を止め、耳を澄ました。


 玄関の外に人の気配があった。気のせいではなく、間違いなくセレナの自宅のすぐ外に人がいる。

 外の人間は鍵を解錠しようとしているのか、金属が擦れる音がドアノブの辺りから断続的に響いていた。


 静かに素早く、暗闇の中からスマートフォンとスタンガンを探し出し、胸元に抱き寄せる。


『今すぐ家に来て 助けて』


 震える手でスマートフォンを操作し、千春にメッセージを送った。


 動悸が激しくなり、呼吸が徐々に荒くなる。


 吐き気を堪えながら、セレナはじっとこの悪夢が去るのを黙って待っていた。

 

 カチャリと、鍵の開く音が聞こえる。

 はっとして、口元を押さえた。

 スタンガンを構え、起動するかどうかを確認する。

 スタンガンは問題なく機能した。後は、これを相手に当てることが出来るかどうか。


 ゆっくりとドアノブが回り、静かに扉が開く。

 必死に呼吸を押さえ、部屋の入口の傍、廊下からは死角の位置で侵入者を待った。


 侵入者の思惑に反して、扉は開かない。


 扉に掛かっているチェーンが、悪意の侵入を防いでいた。


 だが、安心は出来ない。

 あの犯罪者が、チェーンを切断する手段を持っていたらどうにもならないからだ。


「ちっ」


 舌打ちが暗闇を通して聞こえてくる。


 ガシャンガシャンと、犯罪者が忌々し気に何回か扉を引いてチェーンを鳴らした。


 チェーンを突破する手段は無かったのか、扉は閉まり、人の気配が遠ざかっていく。


「はぁ……」


 一気に緊張が解け、セレナはその場にへたり込む。


 まさか家に侵入してこようとする人間がいるなんて信じられず、震える手を必死に押さえた。


 天井を眺めて放心状態になっていると、不意に家のチャイムがなった。


 ビクッと肩を揺らして、恐る恐る玄関の方へと向かう。

 チェーンは掛かったままだが、家の鍵は開いてしまっている。

 恐ろしかった。


『セレナさん、大丈夫?』


 扉越しに聞こえる、千春の声。


 セレナは安堵して、チェーンを外して勢いよく扉を開けた。


「セレナさん?」


 外にいたのは、宮火 千春だった。

 メッセージを受けて、深夜にも関わらず駆けつけてきてくれたらしい。


「良かった……」


 来訪者が千春だと分かった途端、セレナの足から力が抜けた。

 玄関にへたり込み、セレナは静かに涙を零す。

 今までどんな悪意に晒されても泣かなかったセレナが、この日は大きく声を上げて泣いてしまった。


 とりあえず扉を閉めて、千春はしゃがみ込んだセレナに寄り添い、抱きしめた。


 千春に抱きしめられて、セレナは泣きながら安心したように身を預ける。


 彼女が泣き止むまで十数分、千春は無言で抱きしめ続けた。


「何があったか話せる?」


 セレナを落ち着かせるように背中を擦ってあやしながら、千春はゆっくり問いかける。


「……誰かが、私の家に侵入しようと……鍵をピッキングして……」


「ストーカー?」


「分からないけど……多分、そうだと思う」


 ずっと見てくる怪しい男、履歴書から住所を知れる店長、しつこいナンパ男たち、あるいは、中学時代のストーカーか……あまりにも心当たりがありすぎた。


「警察遅いね」


「え? あっ……」


「ん?」


「警察、呼んでない……」


 動揺していたとはいえ、警察を呼んでいない事実にセレナは取り乱す。


 警察の存在すらも思い浮かぶことなく千春を頼ったという事実に、全身が一瞬で火照る。


「あのね、セレナさん」


「な、なに……?」


「……そういうことされると、抑えられないから、普通」


「え? んっ……♡」


 間近に迫ったストーカーの影に怯えていたセレナに、千春はキスをしてしまう。


 最低最悪の行為だけど、抑えられなかった。


 セレナは目を見開いて驚いたものの、じきに安心しきった表情になり、千春のキスを受け入れる。


 たっぷり数十秒、初めてのキスを味わってから、セレナは頬を赤らめながら文句を言う。


「あ、あなた……いきなり……さいてい……」


「多分、俺悪くないと思う」


 いきなりキスをしてきたことに可愛らしく怒りを示すセレナだが、無抵抗のまま千春の腕の中にすっぽりと収まり続けた。


 そのうち精神的に疲弊した彼女は、無防備な姿を晒して千春の腕の中で眠りこけてしまった。 


 部屋の明かりを点けて、彼女をベッドに寝かせる。

 玄関の扉にチェーンを掛け直してリビングに戻った。

 千春は少しの間、セレナの寝顔を眺めて過ごす。


「無事で良かった」


 部屋の電気を消すと、千春はカーペットに横になり、目を瞑る。


 その後は何事も無く、二人は無事に朝を迎えることが出来た。




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