ソフィア5
最初は一言二言だった二人の会話量は、一週間、二週間と時間が経つごとに増えていった。
今では、ソフィアの方から「ちはる」と呼びかけて会話が始まることも多い。
世捨て人のように葦原語だけを勉強していることもあり、ソフィアの言語習得はかなりの速度で進んでいた。
長文で自然な会話は無理でも、教科書の例文のような簡単な会話は出来るようになっていた。
「おはよー、ソフィア」
「おはようございます」
まだまだ覚えていない単語も多く、スムーズな日常会話には程遠いとはいえ、目覚ましい成長であることは間違いない。
千春の方も、主語述語だけの簡潔な内容で話すように配慮しているのもあって、ソフィアとは割と意思の疎通が図れるようになっていた。
時には翻訳アプリを用いて長文で話し、時には千春が学んだルテニア語を試したりして、二人はクラスでもかなり特別な関係を築いていた。
今日も朝早くから、まだ授業も始まっていないのにソフィアはノートを開いて熱心に勉強をしているようだった。
鞄を机に置きながら隣の席を覗き込むと、ソフィアがノートに”ひらがな”を書いて練習しているのが見えた。
千春が、彼女の耳元に顔を近づけて囁く。
「俺の名前 書ける?」
別に顔を近づける必要も、囁く必要もないのだが、ただ悪戯心でそうした。
「ひゃん♡」
そんなに至近距離で囁いたわけでもないのに、ソフィアは背中に氷でも入れられたかのように、過剰な反応をして耳を抑えた。
耳が弱点らしい。少々弱すぎるような気もするが……。
ソフィアは顔を真っ赤にしてほんの少し椅子を引き、半笑いを浮かべる千春を上目遣いに睨みつけた。
「ごめんごめん」
笑いながら誠意の欠片もない謝罪の言葉を口にし、千春は自分の席に座る。
次の授業の準備をするわけでもなく、ホームルームが始まるまでの暇潰しにスマートフォンを取り出し、無料のゲームを起動した。
構ってあげたら睨みつけてきたくせに、構わないなら構わないでソフィアは無表情でずっと千春を見つめ続ける。
そのうち我慢できずに、千春に構って欲しくてソフィアの方から話しかけに行っててしまう。
「ちはる」
「んー?」
「ゲーム?」
「そう」
千春が机に突っ伏しながら無言でスマートフォンのゲームをしていると、ソフィアは椅子ごと身を寄せて画面を覗き込んだ。
今は好きなパズルゲームではなく、画面いっぱいにいるデフォルメ調の可愛い動物の群れから、指名手配された動物を探すゲームをしていた。
すぐ隣にやって来たソフィアの、細い腰に手を回して抱き寄せる。
「ぴゃ」
変な鳴き声を上げて腕の中で硬直するソフィア。
千春はなんか行けそうな空気だからと、軽々しくソフィアの体に触れ、あまりに馴れ馴れしいスキンシップを試みていた。
拒絶されたらどうしよう、嫌がっていたらどうしよう――なんてことを、千春は”一切考えていなかった”
この千春という男は、ソフィアが拒絶する態度を見せるまで、とりあえず行ける所まで行こうと、アクセルを踏み込み続ける軽薄な人間だった。
千春に抱かれてあわあわしながらも、やはりソフィアは抵抗らしい抵抗はしないし、少なくとも表面上では恥ずかしがるだけで嫌そうな素振りは見せない。
どこまでエスカレートさせられるのだろうかと、千春の好奇心がうずく。どこかのタイミングで嫌がったり、抵抗してくれないと、行くところまで行ってしまいそうだけど。
「探して」
耳元で囁く……までは行かないものの、ソフィアに顔を近づけて千春はゲームのルールを人差し指で説明する。
千春の吐息が耳に掛かり、ソフィアはくすぐったそうに身を捩った。
画面いっぱいにいる可愛くて小さい動物たちの中から、右下に表示されている動物と同じものを探すという単純なゲーム。
言葉が分からなくてもすぐに理解できるだろう。というより、画面には文字が表示されていない。直感で理解できるようなインターフェイスになっていた。
スマートフォンをソフィアの前に持ってきて、よく画面を見せてあげる。
腰に回された千春の腕に気を取られながらも、ソフィアは画面を眺めて目的の動物を探し始めた。
「ちはる は」
「んー?」
「家 で ゲーム を しますか?」
「少しだけ」
ソフィアが目的の猫を見つけ、タップする。
ステージクリアの文字が現れて、次のステージが始まった。
「エタガ は プレイしますか?」
「エタガ? VRの?」
「はい」
ソフィアが話題に出したエタガというゲームは、世界でもっとも遊ばれているVRMMOだ。
Virtual Reality Massively Multiplayer Online Role Playing Game。
仮想空間で不特定多数のプレイヤーと遊ぶゲーム。
その話題がソフィアの口から出てくるとは、少しばかり意外だった。
「俺はプレイしていない。姉はプレイしてるけど」
一つ上の姉である千冬はエタガをプレイしているし、なんなら千春によく勧めてくる。
現実の1秒がゲーム内では4秒になるため、タイムパフォーマンスに優れていると力説していたのをよく覚えていた。
生徒会や運動部に務めて夜遅くまで残業している千冬は、家に帰って来てもあまり自由に過ごせる時間が無い。
しかし、エタガであれば寝るまでの二時間で八時間もゲームが出来る。四時間もあれば十六時間だ。
「ちはる は プレイしませんか?」
「俺? 興味はあるかな」
大して興味は無いけど、ある振りをしておく。
千春は根っからのアウトドア派だったので、あまりVRに興味は持っていなかった。
ただ肝心の”興味”という言葉が通じなかったらしく、ソフィアは首を傾げてしまう。
「エタガ 話せるようになります」
「?」
今度は千春が首を傾げる番だった。
ソフィアは自身のスマートフォンを取り出すと、千春が扱っていたのと同じ翻訳アプリを起動する。
千春のものとは違い、無料版ではあるが、その機能は十分に役に立つ。
文章を入力し終えたソフィアが、葦原語に翻訳済みの文章を千春へと見せた。
『エタガの世界であれば、私たちは会話ができるようになります』
「マジ?」
ソフィアの告げた内容は、まさに青天の霹靂とも呼べる、思いがけないものだった。
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