ソフィア4
家庭科の調理実習による教室移動。
流石に金持ちが集まる大人気私立高校なだけあって家庭科室も豪華だった。
「あの子は迷子か」
千春が教室を見渡して、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
家庭科は座学と実習が週ごとに変わる。
前回の授業で次の週は家庭科室で調理実習と予告されていた。
ソフィアはそれを理解できていなかったらしく、後二分で授業が始まるのにあの目立つ銀髪はどこにも見当たらない。
やれやれと立ち上がり、千春は教室を出る。
クラスの人間がいきなりいなくなっていたら、ソフィアは流石に不安がるだろう。
なんだかんだで体育には参加していたから、移動教室は理解しているのかと思っていたがダメだったようだ。
予鈴が鳴り、廊下は静かになった。
教室から零れる教師の言葉、生徒たちの話し声。
壁一枚隔てた向こうに大勢の人がいるのに、孤独になったかのような感覚があった。
自分の教室を見つけ、中を覗く。
窓の外に広がる青空を見つめて、黄昏れている少女の後ろ姿があった。
カラカラと、静かに扉を開くと、少女は驚いて振り返った。
「ソフィア」
ニコニコしながら手を振る千春を見て、ソフィアはほっとしたような表情をした。
ただ、現在の状況に使える適切な葦原語を記憶していないのか、話したくても話せないと言った、もどかしそうな感情を見せている。
「ちはる」
ただ一言、千春の名前を呼ぶに留める。
傍にやってきた千春に、ソフィアは座ったまま上目遣いに告げる。
「場所 分からない」
「でしょうね」
千春は溜息を吐いて、肩を竦める。
立ち上がろうと身体を動かしたソフィアの横で、千春は自分の席の椅子を引いて腰を降ろした。
「?!?!」
てっきり次の授業の場所を教えてくれるのだろうと勝手に考えていたソフィアは、いきなり座りだした千春の行動に動揺して、立ち上がろうとしていた動きを止める。
ソフィアはゆっくりと、少しだけ浮いていた腰を椅子に下ろす。
「学校は楽しい?」
「?」
千春の言葉が聞き取れず、ソフィアは首を傾げるしかない。
無表情で押し黙っているソフィアが面白くて、ついつい無遠慮に彼女の顔を見つめてしまう。
ソフィアの前に、自身のスマートフォンを突き出した。
『学校は楽しい?』
先ほどの千春の言葉は、スマートフォンの画面の中でルテニア語に翻訳されていた。
ソフィアは首を横に振り、身振りで楽しくないこと伝える。
「でしょうね」
学校生活つまんなそーって思いながら見てたから。
再び文字を入力して、翻訳した文章を見せる。
『あなたはなぜこの学校に来た?』
「あー……■■■■ ■■■」
ソフィアは何かを喋りかけ、止める。
千春に向かって、手を差し出した。
彼女の様子から、スマートフォンを貸せという雰囲気は伝わってきたものの、敢えて無視して手を握ってみる。
「…………?!」
数秒硬直し、ソフィアの手にいきなり強い静電気でも発生したかのように、結ばれた手は勢いよく離れた。
「ち、ちがう! あれ!」
すぐ目の前にあるスマートフォンを指差して”あれ”と呼ぶ。
「これ?」
「うん」
顔を真っ赤にして必死に頷いているソフィアを見て、千春は笑いを堪えるので必死だった。
ソフィアは間違いなく学校生活を楽しめていないだろうが、千春はそこそこ楽しんでいた。
千春と同じくらいに背が高くて、顔つきも雰囲気も大人びているのに、からかうとすぐに顔を真っ赤にして動揺する所が最高に愛らしかったから。
スマートフォンを受け取ったソフィアは、葦原語のインターフェイスに戸惑いながらも「■■■■■ ■ ■■■■■■ ■ ■■■■■■■■ ■■ ■■■■■■ ■ ■■■■■■■■ ■■■■ ■■ ■■■■■■■■」と長めの呪文を唱える。
確実に翻訳されているかどうか不安になりながらも、画面を千春の方に向けた。
『政治家の父と、その家族である私たちに危険が迫っていた。
「え~、物騒……つーか、おもっ……」
想像していたより重いんだけど――千春は困惑する。
というかそれだと学校に来る意味がなさそうだが。ネイティブだらけの空間なら言語習得も早いという考えだろうか。
ヴェスタ連合王国は連合とは名ばかりの独裁政権で、昔からまぁまぁ政府と国民が衝突しているのは知っていたが、政治家が亡命しなければならないほど環境が不安定なのは想像を超えていた。
どうせ亡命するなら
秋津国は冬が寒すぎると思ったけど、ヴェスタ連合王国も雪国だったのを思い出す。
というか秋津国より寒いので、恐らく寒いのには慣れているのだろう。
「そういう事情であれば、学ぶしかないね」
「? わからない」
故郷を思い出してか、少しだけ憂愁な気分になっているソフィアに向かって、千春は明るく笑った。
卒業できるのかどうかだけ気になるけど。
未だ手に持ったままの、千春のスマートフォンに再度話しかけるソフィア。
『あなたはなぜ私に構うの?』
差し出された画面にはそう表示されていた。
『あなたがとても美しいから』
間を置かずに、覚えていたルテニア語の口説き文句で返す。
彼女は呆れたように、半目でじっと千春を見つめる。
すぐさまスマートフォンに向かってルテニア語で何かを告げた。
『私が美人じゃなかったら?』
『他の女子に話しかけてた』
『残酷で最低な男』
『私の見た目がもっと醜悪であれば、あなたはいつまでも私を警戒し、遠ざけていましたよね?』
静かな教室で、翻訳アプリを介したテンポの悪いやり取りが行われる。
千春の言葉を見たソフィアは、『もしも、千春の見た目が醜悪であった場合』を想像したらしく、ばつが悪そうな顔をしていた。
つまり、図星であったということ。
「少しは楽しかった?」
「……ん」
千春の言葉が分からなかったソフィアは、スマートフォンを差し出して翻訳アプリの使用を促す。
スマートフォンを持つ彼女の手を両手で握り、千春はまっすぐにソフィアの目を見つめた。
手から伝わる千春の体温と、正面からじっと見つめられてソフィアは慌てふためき、挙動不審になるも、腕から先は感電したかのように硬直していた。
ソフィアの目の奥を覗き込み、彼女の感情を探る。
嫌悪感や怒りを見つけたらすぐに放そうと思っていたが、ソフィアの中には困惑と羞恥が広がっているだけだった。
これワンチャン国際恋愛あるかな、なんて思いながら彼女の様子を観察し続ける。
「……なに?」
「なんでもない」
結局、千春に手を握られていても、ネガティブな感情を抱いている様子は見られなかった。
湯気が出そうなほど真っ赤になっているソフィアを見て満足し、千春は握っていた手を解放してスマートフォンを受け取る。
『少しは楽しかった?』
翻訳した文章を見せると、ソフィアは画面と千春の顔を何度も行ったり来たりさせた。
最後には恥ずかしそうにしながら、目を逸らして小さく頷く。
「良かった」
千春は人懐っこい笑顔を浮かべ、ソフィアは会話は終わりと言わんばかりに席に顔を伏せた。
長いことアプリを使って会話をしていたので、少し疲れさせてしまったかもしれない。
今日はもうそっとしておいてあげよう。
千春は頬杖をついて、机に突っ伏すソフィアを黙って見つめていた。
ソフィアがちらりと、伏せていた顔を少し傾けて隣の席を盗み見る。
恥ずかしがっているソフィアを見続けていた千春とばっちり目が合ってしまい、彼女は慌てて顔を隠す。
耳まで真っ赤になってるソフィアを見て、『随分と恥ずかしがり屋だな』と、千春はくすりと微笑んだ。
結局、ソフィアは千春に付き合わされて家庭科の授業に参加できなかった。
しかし、静かな教室で、千春と二人で過ごした時間は不思議と心地よかった。
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