第30話 ヒガン地区③

 重い、重たい眠気に浸食される。

 肺から脳髄までじっとりと溶かしたがっているかのような、あまったるい不愉快な香り。

 この匂いは嫌いだ。

 嫌いだけれど、毎晩のように嗅ぎ続けてきた。

 だから覚えている。

 だからわかる。

 ――ジオだ。

 ベッドの上で丸くなったウイは肩を喘がせながら、口と鼻に袖口を押し当て、息苦しさに懸命に耐えていた。

 いつもより数倍濃い幻覚香が、風上からこの建物全体を包み込んで襲いかかっている。

 唇を噛み、なるべく呼吸を細くして、ひたすら眠気をこらえ続ける。

 頭がくらくらして、吐き気がするけれど。

 ――ジオが来る。しっかりしなくては。


 見張り役の久我はすでにこの香にやられ、壁にもたれて座りこみ気を失ってしまっていた。

 耐性のない人間に、この濃さはきついだろう。

 薬に弱い体質の人間がまともに食らったら、命に関わるかもしれない。

 それくらい強い香りで、慣れているウイでさえ苦しくて苦しくてたまらない。

 

 この建物にいる人間はすべて、意識を失ってしまった頃。

 ひどく静まり返った中、被っていた上掛けを剥がされ、そっと肩を揺すられて、はっと目を見開く。

 いつのまにか、気絶してしまっていたようだ。

 ウイが全身全霊を捧げる人が、そこにいた。

 暗がりに溶けこんでいてもその姿はどこまでも優雅で、まるで夜の闇を従える貴公子のように見える。

 月夜に浮かぶ水面のような瞳が、ウイを見つめている。

「――ウイ」

 ジオ、と呼びたいのに、声が出ない。

「僕がわかりますか」

 目だけで頷くと、ジオが少しほっとしたように微笑んだ。

「香がきつすぎたようですね、かわいそうに。量を調整している余裕がなかったものですから」

 美しい唇が近づいてきて、何かひんやりとした液体を口移しに流しこむ。

 ウイはそれを、何なのかと考えもせずに飲み下した。

 呼吸が重なるくらい唇同士が触れ合っても、それが口づけだとは思わない。

 言うなればこれは、親鳥に餌を与えられる雛のようなもの。

 ジオのすることに対して、ウイに拒否権などないのだ。

 ウイはジオのものなのだから、いつでも、どこでも好きに触れていい。

 液体は、気つけ薬の効能があるものだったのだろう。痺れていた喉に空気が通って、呼吸が楽になる。

 ジオが窓を開けたので冷たい夜風が吹き抜け、室内にわだかまる幻覚香を洗い流していく。

 ウイの頭が、少しずつ、霧が晴れるようにすっきりしていく。

 でもまだ、身体は動かせない。

 ウイは眼差しだけを動かして、部屋の中を確認した。

 部屋にはジオとウイ、そして眠っている久我の姿だけ。

 朦朧としながらも、ウイはそのことに気づいて目を瞠った。

 暗殺大群のナンバー2ともなると、気軽に単独行動を取ることはできない。

 慎重に慎重を期し、どんなに煩わしくてもSPを連れて歩かなくてはならない。

 常々自制心を持ってそう言っている彼を間近に見てきたのに――ジオは今、ひとりきりだった。

 誰も、連れてきていない。

 お気に入りのフェイフオさえも。


「――こんな無粋なものは、きみには似合いませんね」

 冷静にして冷酷な麗狂気の二つ名を持つ美青年が、ウイを繋ぐ鎖を見て短く吐き捨てた。

 ウイの右手と右足に皮製の枷を嵌めて、それを鎖でベッドの脚に繋いである。

 半分錆びて鉄の臭いが漂うような鎖は、ジオの美意識には合わない。

「鍵は? どこですか?」

 枷を外すためには、小さな鍵が必要だった。

 わからない、とウイが首を振ると、ジオは正体もなく眠りこけている久我に近づき、てきぱきと衣服の中を探った。

「持っていないようですね」

 久我の上半身が、壁から離れて床に倒れる。

「仕方ありませんね。今は鎖だけ切りましょう。クンシに戻ってから枷ごと壊しますから、それまでは我慢なさい」


 懐から小さなやすりを取り出したジオが床に片膝をつき、鎖を断ち切り始める。

 ウイはまだ萎えている手足に懸命に力をこめ、起き上がった。

 やすりを丁寧に動かしながら、ジオが小さく囁く。

「もう少し薬が効いて、ウイが歩けるようになったら帰りましょう」

「ひとりで、来たのか……? SPたち、は……?」

 まだ思うように出ない声を振り絞って尋ねると、ジオが目を細めた。

「連れてくると足手まといになりそうでしたからね。バリケード付近に待機させていますよ」

 幻覚香が有効なのはこの建物の周辺だけだ。

 ヒガン地区のこの辺りまで潜りこむのは、目立つ容姿をしているジオには難しく、そしてとても危ないことのはず。

 苦労した証拠なのか、端正な美貌にはわずかに疲労が滲んで見える。他人なら気づかないような些細なものでも、ウイにはわかる。

 ウイはこの三年間、ずっと、片時も離れずにジオのことだけを見つめてきたのだ。

 普段の無口を返上して、言わずにはいられない。

「どうしてジオが来る必要があったんだ……! 私のことなど、捨てておけばいいのに……っ」

 対するジオも真剣だった。

 断ち切った鎖の残骸を払い落とし、ウイを抱き締める。

「僕は――きみがいなくては、眠れないんです」

 寝つきが悪いことは、ウイも薄々悟っていた。

 けれどそのぶんジオは朝が弱い。

 ウイを腕に閉じこめたまま、執事が起こしに来るまで、すうすうと寝息を立てていることも多かった。

「僕を眠らせてください、ウイ――」

 強く縋るような力が、訳もなく悲しくて愛しい。

 ウイはうまく動かせない腕を震わせながら、ジオの背中に手を回した。


「――気づいていますか、ウイ」

 ジオの声が、ウイの耳の一番奥深くに潜りこむ。

「いつもきみは命令に従順に従うだけで、自分から僕に触れてくることはなかった」

「そうだったか……?」

「きみが自分から抱擁を返してくれたのは、これが初めてですよ」

 ジオが感極まったようにそう囁いて、ウイの肩に額を埋める。

 ウイは指を伸ばして、ジオの黒髪をそっと撫でた。

 わずかに手を動かすだけで、枷の金具が金属質な音を立てる。

 ジオの抱擁はどんどん深く強くなり、だんだんと、お互いの肌の感覚が混じり合ってわからなくなる。


 ウイはジオの黒髪に頬を寄せながら、静かに問いかけた。

「ジオ、教えてくれ。私は三年前、このヒガンに来たことがあるか」

 わからないことはジオに訊く。

 この三年間、ウイはずっとそうしてきた。

「いいえ、ありませんよ。誰がそんな世迷い言を吹きこんだんです?」

「三年前、ヒガンに大火災があったことは」

「知っていますよ。スラムシティでもその話題で持ちきりになりましたからね」

「そのとき、耳飾りが」

 生来喋ることが下手なウイが、話す順番を探り探り、言葉を選ぶ。

「……メ組の頭がつけている耳飾りを、知っているか?」

「いいえ。それがどうかしましたか」

「サファイアの耳飾りだ。ジオの目の色とよく似た……あれは、その火事のときに拾ったものだと聞いた」

 ウイと睫毛が絡み合いそうなほど顔を近づけて話を聞いていたジオが、つまらなさそうに、ばっさりと切って捨てる。

「それだけでは、きみの耳飾りだという証拠にはなりませんよ」

 サファイアと同じ色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「そう、か――――」

 ジオの腕の中で、ウイは、ひどく悲しそうに顔を歪めた。

 ルビーの耳飾りが、ジオの目のすぐ前で揺れる。

「ウイ?」

 ジオ、と、ウイは軽く呻く。

 ジオは、濫枒の耳飾りがウイのものだったと知っていた。

 ウイは。

 蒼い瞳を縋るように見上げて、ウイは唇を震わせた。

「私は、あの耳飾りが私のものだったなんて、一言も言っていない」

 沈黙の一瞬が、永遠のように感じられる。

 ウイはジオの胸に抱かれたまま、もう一度、唇を開いた。

「ジオ。貴男は一体、何を隠しているんだ……?」




 ジオは答えなかった。

 答えの代わりに、人差し指で、唇をそっと封じられる。

「少し黙っていなさい。今は幻覚香のせいで、意識が混濁しているんです。クンシに帰ったあとで、なんでも話してあげますよ」

 それは、嘘だ。

 直感で、ウイはそう思う。

 けれどジオが黙れと言った以上、何も言ってはならない。

 ジオはウイの唇をしばらくの間弄ぶように撫でていたが、やがて指を離した。

「そろそろ行きましょう。爆薬を仕掛けた刻限が近いですから」

 細長い廊下をつたって、階段を足音を忍ばせて降りる。

 先に歩くジオの背後に、香のかなり抜けたウイがしなやかに付き従う。

 一階に降り、裏口に回れば、出口はもうすぐそこだ。

「爆薬はどこに?」

「ここから離れたところに数カ所。我々がここにいることを隠すために。そのあと、ここにも火を放ちます」

 久我はウイが監禁部屋から脱出しても、微動だにせず眠っていた。

 この建物の住民たちはそれぞれ昏倒しているからか、とんと姿を見かけない。

 それでも警戒を怠りなく続けながら、ウイはずっと考えごとをしていた。

 先ほどわかったとおり、ジオは、なにかを隠している。

 でも、一体なにを――――?

 三年間、心の奥底で芽生えては大きく膨らみ続けるその疑問を、ウイはずっと封じこめてきた。

 ジオは命の恩人だ。

 ジオが許し、保護したから、ウイは生き長らえることができたのだ。

 その恩人に感謝こそすれ、疑うなんてとんでもないことだ。

 そんな恥知らずなことはできない。

「ウイ? 何をぼうっとしているのです。集中なさい」

 ぴしりと叱責されて、はっと我に返る。

「すまない。ここに火をつけるのは一体誰が? ジオが手を汚すくらいなら、私がやる」

 いいえ、とジオがゆったり否定する。

 裏口の扉を細く開け、身体を滑りこませるようにして外に出る。

 クラブ・シャングリラの裏口は広い通りに面しているけれど街灯はない。

「ここにだって、暗殺大群の息がかかった人間のひとりやふたりはいるんですよ」


「へえ。そいつが誰だか、聞いてみてえもんだな」

 いきなり割って入ってきた声に、ウイが神経質なくらい俊敏に反応した。

 夜空に浮かぶ大きな満月が、街灯など必要ないくらい周囲を明るく照らしていた。

 周囲は、メ組の組員たちにすっかり取り囲まれている。

 ――読まれていたのか。

 ウイは反射的に武器を取り出そうとして舌打ちした。

 今彼女は、何ひとつとして武器となりそうなものを携帯していない。すべて、メ組に取りあげられていたのを失念していた。

 そのことを、今更ながらに後悔する。

「待ち伏せとはまた、ずいぶんと古典的な方法ですね」

 ジオは片腕を伸ばしてウイを背後に庇い、さすがに驚きを禁じ得ない様子で目を瞠った。

 ジオもその身にいくつかの武器を隠し持っているはずだけれど、この人数を前にしては、圧倒的に足りない。

「……何故、香を焚いたことがわかったんですか?」

 濫枒は腕組みをして仁王立ちしたまま、にやにやと表面だけで笑う。

 その背後には、メ組の面々やクラブ・シャングリラの人間たちが揃っていた。

「てめえが妙なもんを使うってことは、学習済みだったからなあ」

 金龍ホテルに潜りこむために、クンシ地区へ向かったとき。

「酩酊成分の強い香を撒き散らして、クンシ地区丸ごと支配下に置いていたみたいじゃねえか」

 濫枒は、周囲に漂う違和感に気づいていたのだ。

「絶対、今回も同じ手を使うと踏んでたんだ。勘が当たって助かったぜ」

 ウイがメ組に身柄を拘束されている間だけは、火付けはしないだろうという予測も的中したようだ。

 先ほど、いち早く香に気づいた濫枒は口と鼻を布で覆って防御し、一度はそのまま様子を見ていた。

「てめえらが部屋でのんびりしている間に、他のやつらを全員起こして避難させたってわけさ」

 久我は、ジオを油断させるためにあえて放置していたらしい。

 今頃になって、他の組員に担がれて出てくる。

「まあ、それはともかく。何度も何度もやられっぱなしでいるのは性に合わねえんだ。だから、たまにはこっちから行くぜ」

 濫枒がそう言うなり、愛用の太刀を振りかざして合図を送る。

 同時に爆発音が響き、クラブ・シャングリラの建物から紅蓮の炎が吹き上げた。


 ウイは混乱する。

 驚愕のあまり、ファタールの衝動すらわずかに和らいで遠のいたのは、せめてもの幸いだった。

「お前が、ヒガンに火を放つのか……!?」

 何故だかわからないけれど、信じられなかった。

 ウイの動揺など、どこ吹く風。

「周辺の人間は全員避難させてあるし、貴重品も持ち出してある。こんなボロ、燃えたところで今更痛くも痒くもねえよ。ただし」

 そこで濫枒は、意味ありげに一度言葉を句切った。

「てめえらは、袋のネズミだ」

「……っ!?」


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