第29話 ヒガン地区②
ウイは、クラブ・シャングリラの三階の一隅にずっと監禁されていた。
粗末なベッドが一台あるきりの狭い部屋で、衝立で四方を遮られているだけの簡素な拵えだ。
暗殺大群の地下監獄と違って、ごく普通の空き部屋を間に合わせで使っている感じが強い。
ドアに鍵はかろうじてかけてあるものの、窓は鎧戸で閉ざされていないし、柵もない。
ただ、手足が、細く丈夫な鎖でベッドに繋がれていた。
そのため、手の届くような狭苦しい範囲しか自由に動けない。
もとよりウイは、今更逃げる気はなかった。
ベッドの上に背筋をぴんと伸ばして座り、抵抗することもなくおとなしくしている。
用意された食事も取らず、ほとんどろくに眠りもしない。
メ組としてはウイが逃走することよりも、暗殺大群は奪還しに来ることのほうを警戒して、24時間体制で見張りを欠かさない。
濫枒は、昏倒したウイをこの部屋に運びこんで以降、一度も姿を見せない。
「すげえ量の武器を持ち歩いていたもんだなあ、あんた」
見張り役を交代しに来た久我が、そう言って屈託なく笑う。
ウイが隠しポケットや、素肌にベルトを巻いて隠し持っていた武器類は、没収されてしまっていた。
きっとそのことを言っているのだろう。
「短銃二丁にナイフ三本、鉤爪に火薬玉と毒針? 一体どうやれば、あれだけの量を隠せるんだよ」
久我が、今まで見張っていた組員から、部屋の鍵を受け取る。
久我は、食事の乗った盆も持ってきていた。
木製の四角い盆を、ウイの傍らに置く。
「食事も持ってきた。ここ数日、まともに食ってないんだってね」
消化の良さそうな挽肉と野菜入りの中華粥が、ほかほかと湯気を立てている。ほかに、小ぶりの林檎も添えてあった。
数時間前に与えられた食事は固いぱさぱさのパンに干し肉を挟んだものだったのに対し、食べやすく喉に通りやすそうなメニューに変更されている。
ウイはそれをちらっと見ただけで、ふいっと顔をそらした。
「要らない」
この部屋で目を覚ましてからというもの体調が悪く、なんとも言えない不快感があった。
ファタールに出会ってしまった衝撃が大きすぎて、今もその衝撃が去らない。
――これが、ファタールの宿命というものか。
そんなものは単なる言い伝えに過ぎないとみくびっていたウイは、宿縁のすさまじさを身をもって痛感していた。
鎖に繋がれていなければ、今すぐ、這ってでも濫枒を殺しに行っていただろう。
それは、嵐のようなもの。
――私はいったい、どうしてしまったんだ……?
眠るより息をするより、相手の息の根を止めたい。そのことしか考えられない。
ウイは、濫枒を殺すことだけを考える。
濫枒のことだけを、息が詰まるような物狂おしさの中、ひたすらに考える。
考え続ける。
ウイが普段標的を害するのは仕事であって、私的に誰かを殺めたことはない。殺したいと思ったこともない。
それなのに今は濫枒を仕留めたい誘惑が身体の中いっぱいに広がっていて、苦しいくらいにじりじりする。
思うように制御できない焦燥感で、精神的にひどく消耗していく。
この乾きは、濫枒を手にかけることでしか癒やせないのだと、本能的に理解していた。
同時に、ぞっとする。
相手を殺すことしか考えられなくなるなど、まるで獣同然ではないか。
考えれば考えるほど、気が狂いそうになる。
ファタールだというのなら、濫枒も今頃、この複雑でしかない焦燥を味わっているのだろうか。
この激情は、当人同士にしかわからない。
「なあ、ちょっとくらい食えったら~」
久我が、冷めていくばかりの中華粥に視線を落とし、困り切ったようにウイの目の前にしゃがみこむ。
ウイはベッドに腰かけたままなので、大柄な久我から見上げられる形になる。
「なあって。助けが来るまで食わねえ気? 願掛けでもしてんの?」
それきり動こうとしない久我に、ウイはかすかにため息をついた。
ただでさえ狭い部屋だ。
大柄な久我に居座られると、圧迫感があって仕方ない。
「ほしくないだけだ。第一、助けなど来ない」
「助けに来るだろ、仲間なら」
久我に不思議そうに言われて、ウイは短く応じた。
「それなら私は、仲間ではないんだろう」
あっさりと返された言葉に、久我が絶句する。
「ありえね~……麗狂気の毒華だろ、あんた」
「失敗は死を意味する。私は、しくじった」
「やっぱり、クンシの連中の考えていることはよくわからねえや」
ふーっとため息をついて、久我はゆっくり立ち上がった。
あからさまに不機嫌そうに顔を歪めている。
「生きてんだから、それでいいじゃん。世の中には、生きたくても死んじまった人間もたくさんいるっていうのに」
気持ちを切り替えるように首を振り、久我は脇に挟んで持ってきていた紙の束に目を落とした。
「幹部会議じゃ拷問にかけてクンシのことを洗いざらい吐かせろって意見も出たけど、あんた、どうせ記憶ないんだろうし。聞いても無駄だろうな」
ウイ――珊泉の性格が変わっていないなら、彼女は秘密を守り通すだろう、と久我は踏んでいた。
彼も濫枒のそばで、三年前、短期間ではあったけれどずっとウイのことを見てきたのだ。
たとえ何を知っていようが、何をされようが、口を噤むと決めたら死んでも黙り通す――珊泉がそういう人間だということくらい知っている。
それに、基本的なことなら大体は把握できていた。
久我が、紙の束をひらりとめくりながら言った。
「まあ、一応確認はしたいから。答えられるもんには答えて」
ウイが、ちらりと紙に視線を向け、それから拒否するようにつんと顔を背ける。
「名前はウイ。暗殺大群のナンバー2、麗狂気ジオの護衛。通称、毒華――間違いないね?」
ウイは、一切反応しない。
久我は気にすることなく続ける。
「ヒガンへ乗りこんできたのは、うちのボス……濫枒を襲撃するためなんだろ?」
この質問だけは、ウイも黙ってやり過ごすことはできなかった。
「――ジオが、あの男を仕留めろと言った」
低く、平淡につぶやく。
ジオの命令は絶対だ。
命にかえても、守り通さねばならない。
「変に物騒なところ、全然変わってねえのな。懐かしいわ」
「?」
「まあ、少しは何か腹に入れなよ。飢え死にでもされたら、こっちの寝覚めが悪くなっちまう」
持ってきた林檎をぽんと投げ渡されて、ウイは反射的に受け取った。
両手で受け止めた林檎に目を落とし、少し経ってから首を振る。
「要らない」
濫枒の血以外、なにもほしくない。
率直にそう思ったことに、ウイ自身戦慄する。
ファタールに巡り会ったということは、殺戮を喜ぶ化け物に成り果ててしまうということか。
「なんで? 好物じゃん?」
「――どうして知っている」
ウイが渋々久我に視線を向けると、久我は熊に似た風貌に、不思議なほど優しい苦笑を滲ませていた。
「あんた、本当に覚えてないんだね。二回連続で記憶喪失になるなんて嘘だと疑ってたけど……そうか。本当なのか」
うんうんと頷いて、久我が続ける。
監禁部屋の廊下には濫枒が気配を殺して立ち、このやり取りにずっと耳を澄ませ続けていることを、ウイは知らない。
「もう気づいてるとは思うけど、あんた、三年前はヒガンにいたんだよ。メ組の本部にね」
「あり得ない」
光の速さで否定されたものの、久我は動じなかった。
懐かしむように続ける。
「大怪我をして倒れてたあんたを、ボスが拾ってきたのが始まりだったんだ。詳しいことは省くけど、結果として、ヒガンは黒焦げの有様さ。今も全然復興が進まない」
「火事か」
久我の言葉から、ウイはヒガンがやたら廃墟だらけである理由をようやく悟った。
何もかもが新しく生まれ変わっているクンシ地区と対極的に、ウイの眼から見ても、ヒガンは荒れ果てて無残なありさまだ。
火災は、スラムシティでは一年に一度か二度、小規模のものが必ず発生する。
けれど現在もこの状況だというのなら、相当な大火災だったはずだ。
「ボスがつけているサファイアの耳飾りはね、もともとあんたの物だった」
あまりに想定外のことを言われて、さすがのウイもびっくりして顔を上げる。
「私の…………?」
その小さな顔を、久我は真っ正面から眺める。
もはや、完全に久我のペースだ。
拷問ではなく尋問――久我が、己の人当たりの良さを最大限に利用した、もっとも得意とするジャンルである。
ジオが幻覚香を用いて作り上げたウイの氷の鎧は今、少しずつ少しずつ、ひびが入り始めていた。
いつもは鉄壁の精神状態が、今は大きな衝撃を受けたことによって揺らいでいる。
本人に自覚はなかったけれど、タイミングとしては、これ以上の時はないくらいに条件が揃っていた。
「熱のせいで歪んじゃったけどね。見覚えない?」
「――ない」
今もウイの耳たぶには、煌めく耳飾りが着けられている。
ウイの桃色珊瑚色の双眸の美しさをさらに引き立てるような、大粒のルビーの耳飾りだ。
これは、ジオから贈られたもの。
中に劇薬が仕込んであって、敵を殺すか、自害するかの瀬戸際に追い詰められたときだけに使用するウイの切り札だ。
暗殺大群の主立ったメンバーは皆、こんなふうに、どこかに毒を隠し持っている。
鎖で自由を奪われていなければ、ウイはとっくに毒をあおいで命を絶っていただろう。
ウイが再び心を閉ざそうとする気配を察して、久我はころっと話題を変えた。
「それはそうと、あんた何か持病とかない? 免疫力が著しく低下してるって、ドクターが気にしてたんだよね」
「ドクター……?」
この部屋に運びこんだ直後だよ、と久我が補足した。
あのときウイは気を失ったままだったから、急遽ドクターが往診にやってきたことも知らないのだ。
「だって、ばったり倒れてそのままだったからさ。どっか悪いんじゃないかってことで、一応医者に診せたんだ」
そうしたらね、と久我が紙の束をめくる。
「ええと……そうそう、なんかの依存症かってくらい、一部の薬物成分の数値が高かったんだってさ。それでドクターが、今度本格的な検査をしたほうがいいって言ってて。あのドクターがそう言うってことはあんた、相当やばいんじゃない?」
「――敵の人間が生きようが死のうが、関係ないだろう。親切なことだ」
ウイが、嘲笑めいた口調で吐き捨てる。
こういうとき、ウイはジオとそっくりになる。
「俺らは別に、殺したいわけじゃないからね。メ組の存在意義は守ることだから」
「相手を殺すか、自分が殺されるか――だ。私はそれしか知らない」
とりつく島もないウイの言い方に、久我はしみじみと首を振る。
「極端だね~……」
久我が、大股で窓辺に近づく。
「柵もあることだし、少し窓開けるか。風通したほうがすっきりするだろ?」
淀んでいた室内の空気を、外気が心地よく流していく。
その風に、ふと、嗅ぎ慣れた香りが混じる。それは、ウイにだけわかる合図のようなもの。
大気中にほのかに混ぜて、それは段々と濃度を増していったけれど――。
ウイは、何も言わなかった。
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