第28話 ヒガン地区①

 ウイは夜の闇に紛れて、ヒガン地区へ足を踏み入れていた。

 ヒガン地区の大通りの裏手、そこはメ組が三年前まで本部を構えていた廃墟ビルの焼け跡に近い。

 焼け残ったままの形で放置されているような廃墟のあちらこちらから、強い夜間ライトがウイの姿を照らし出す。


「よう、迷わず来たか。もう少し遅かったら、迎えに行こうかと思っていた所だぜ」

 昼間よりも強い光に目を眇め、ウイは声の主を探した。

「……あそこか」

 ビル脇の錆だらけの非常階段の踊り場に寄りかかり、口もとだけで笑っている男が濫枒だ。

 先ほども、少しばかり手合わせした相手。

 ウイはこの男を殺すために、ここへきた。

 ジオが、この男を仕留めてから戻ってくるようにと言ったのだ。

「お前を殺さない限り、私はあの人のところへ戻れない」

 暗器を両手に装着して構える。

 ビルの周辺には多数の男たちがひそんでいて、続々と姿を現す。

 一方、ウイはひとりきり。

 濫枒が、愛用の太刀を鞘から抜いた。

「おいお前ら。こいつは俺の獲物だ。手ぇ出すんじゃねえぞ?」

 濫枒が、強力ライトを背に、非常階段からひらりと身を躍らせる。

 強すぎる光にまともに目を射られて、ウイの反応がわずかに遅れた。

 濫枒の刀が空を切り裂き、まっすぐにウイに向けられる。

 はっと息を飲んだウイが素早く鉤爪を一閃させる。

 ウイの頬、濫枒の手の甲。

 お互いに負わせた傷から血が飛び散り、相手の血が唇に触れる。




「一言で言うなら、因縁でしょうか」

 いつのことだっただろう。

 まだ治りきらない火傷を手当しながら、ジオがウイに語って聞かせてくれたことがある。

「出会ってしまった以上、殺し合わずにはいられない宿命の相手のことを、運命の相手ファタールと呼ぶんだそうですよ。運命すら歪めて、なにがあってもお互いを殺す運命をたどることになるんだとか。このスラムシティらしい話だと思いませんか」

「ジオは、そのファタールに会ったことがあるのか?」

 いいえ、と、美しい瞳が笑みを含む。

「ただ、もしそんなものがいるとしたら……ぜひとも、巡り会ってみたいものですね」

 相手の血を体内に取りこんだときにだけ、お互いの宿命がわかるそうですよ、とジオが続ける。ジオはこの話をメインミーから教わった。

「なんとも――刺激的な伝説だと思いませんか?」




 璃泉りせんがまだ小さいころ、濫枒は添い寝をしてやりながら、スラムシティにまことしやかに伝わる話を、寝物語代わりに聞かせたことがある。

 出会った以上殺しあわなくてはならない、そのために周囲の運命すら巻き込んで、悲劇に突き進んでいく宿命の相手の伝説を。

 幼い璃泉が、肩をすくめて泣き出しそうな顔をする。

「うわあ……絶対に殺し合わなきゃいけない相手なんて、ぼく、出会いたくないなあ。せっかくなら仲良くしたいよ」

「璃泉らしいな。まあ、お伽噺みたいなもんだ。気にしなくていい」

「ねえ。じゃあ、もし兄さんがそのファタールに出会ったら、どうする?」


                  ※


 まさに因縁。

 雷に打たれたような衝撃を受けて、ふたりは、一瞬にして強烈な欲求に支配される。

 相手を仕留めたい。


 殺したい。


 相手の命を奪って、骨の髄まで自分のものにしてしまいたい。


 訳がわからないくらい目まぐるしい欲望が吹き上げて、全身が一気に滾る。

 血が、細胞が、魂が叫ぶ。

 獲物を仕留めたい。

 お前は私のものだ、と。

 それがファタール。



 濫枒のほうが、我に返るのが早かった。

「なんだ、これは…………!?」

 初めて知る感覚だった。

 喧嘩の際の殺意とは桁違いの、自分の意志さえ乗っ取られてしまいそうな強烈な感覚だ。

 ――俺は今は、珊泉を捕まえたいだけだ。殺そうと思っているわけじゃない。

 それなのに、身体の奥底から欲望がこみ上げてきてとまらない。

 生まれてこの方、戦いに挑んだことはあっても、殺戮に喜びなんて覚えたことはなかった。それだけは濫枒は、胸を張って言える。

 ――俺は、そんなろくでなしじゃねえ。

 あまやかな誘惑を無理に断ち切って、濫枒は己を取り戻す。

 けれどウイは未だ、身じろぎひとつ、瞬きひとつせずに立ち尽くしている。

 その首筋を、異様なくらいの汗が滴り落ちていた。

「珊泉?」

 眉根を寄せた濫枒が呼びかける。

 その声がきっかけになったように、ウイはその場に昏倒した。



                 ※


 ウイがメ組に身柄を拘束されたという知らせを、ジオはすぐには信じることができなかった。

「信じられません。ウイは見た目こそああですが、とても強い。負けを喫するときは命尽きるときです。それ以外、あの子が敗北するなんてあり得ない」

 ウイがクンシ地区から姿を消して数日後。

 いつまでも戻ってくるどころか連絡ひとつ寄越さないことを案じて、ジオは手先を方々に放って情報を集めさせていた。

「でも、事実ウイは捕まった。きみの毒華ともあろう者が、とんだ失態だね」

 温室の鳥たちの囀りの中に、未だベッドに横たわったままのルザルの、皮肉な声が混じる。

「勝てなかったのなら、その場で舌を噛みきればいいのに。僕たちの顔に泥を塗るような真似は慎んでほしかったな」

「ウイは私の配下です。連れ戻す算段をつけなくては」

 ふたりの様子は、対照的だった。

「どうして? あんな失敗作、捨ててしまえばいいよ」

 ぴり、とジオを包む空気が強ばる。

「捨てる…………?」

「いらないよ、毒華なんて」

 Qが、ルザルの上半身を壊れ物でも扱うような手つきでそっと抱き起こす。

 ルザルはぐったりとQの腕にもたれたままベッドの上に座り、ジオを見つめた。

 いつもの場所で眠っているのは飽きたと主張して、ルザルはベッドごと、大きな人工池のほとりに移動している。

 ほかの場所より水に近いぶん温度が低く、湿度が高い。

 依然として熱が引かない身体には、ここのほうが気持ちよかった。

「護衛なら、アンドロイドのほうがずっといいよ。アンドロイドは決して裏切らない。ジオもそうしなよ。そばに置いて安心できるのは、アンドロイドのほうだよ。ね? Qもそう思うだろ?」

 忠実なアンドロイドは、黙って低頭する。

「そうだ。適格な一体を、僕がプレゼントしてあげる」

「ですが」

「ジオ」

 

 ルザルの声から、それまでの無邪気でさえある機嫌の良さが霧散した。

 冷酷に、冷徹に。

 メインミーの息子は、人情などという生ぬるいものに関心を持たない。

 そんなものは、足枷になるだけだ。

「ジオの一番はなに?」

 忠誠を誓った身のジオは、恭しく、こう答えるしかない。

「もちろん、メインミーとその息子の貴方さまでございます、ルザル」

「そうでしょう? 父さまが大切で、その血を引く僕のことも大事なんでしょう?」

「当然です。僕は暗殺大群にすべてを捧げると盟約を交わしておりますから」

「だったら、毒華のことは切り捨てて。選ぶのはひとつ。一番を、いくつも欲張っちゃいけない」

 いつのまにか、ジオは追い詰められていた。

 今ここでルザルを選ばなくては、ルザルは二度とジオを信用しなくなるだろう。 

 今ルザルは暗殺大群の中で、誰が使えるかを見極めている最中だ。

 有力候補はジオだけれど、大幹部の何人かは、今でもメインミーの息子にコンタクトを試みている。

 その中の誰かと手を組まれたりすれば、ようやく築き上げてきたナンバー2という地位は脆く崩れ去ってしまう。

 ジオとしては今は、しっかりとルザルの信頼を得ておきたいところだった。

 そうでないと、あとあと色々と利用できない。

 理性でそうわかっていても、ウイを見捨てろというのは地雷だった。


 ジオが、ゆっくりと間合いを計る。

 ――Qさえ押さえておけば、ルザルはいつでも息の根を止められますが……アンドロイドは厄介ですね。急所というものがないんですから。

 アンドロイドを停止させるためにもっとも有効な方法のひとつは、主が命令することだ。

 主が永遠に活動を停止しろと命令すれば、そしてそれが正常にインプットされれば、アンドロイドは死んだと同じような状態を迎える。

 充電を切って錆だらけになるのを待つより、ずっと手っ取り早い。

 けれどQは戦闘能力もフル装備されていて、武器もふんだんに内蔵されている。

 隠し持っている武器以外ほぼ丸腰のジオがこの場でやりあって、楽に勝てる相手ではなかった。

 ――いずれ、ルザルからアンドロイドたちを遠ざける必要がありますね。

 身から迸る殺気に、Qが敏感に反応する。

 造り物の目の奥が赤く点滅し、主に危険を知らせる。

 じり、と湿気の多い空気がまとわりつく静寂の数秒後、ルザルが不意に顔を歪めた。

 薄い胸が、苦しげに波打つ。

「なん、で、今…………っ?」

「ルザル? どうかしましたか?」

 細い首を仰け反らせ、ルザルが悔しそうな、苦しそうな表情を浮かべて唇を噛んだ。

「僕の邪魔をするな、リー…………っ」

 子供っぽさの残る双眸が虚ろになり、手足が弛緩する。

「ルザル!?」


 かくりと力なく項垂れた少年が、しばらくして意識を取り戻したときには。

 リー・タオロンが目覚め、ルザルの意識は深い眠りの隅へと追いやられてしまっていた。

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