第27話 リー・タオロンの温室②
「やあ、ジオ。いらっしゃい。待っていたよ」
透き通るように優しい声音は、前回ここを訪れたときとちっとも変わっていなかった。
そのことに意表を突かれ、ジオはわずかにたじろぐ。
リー・タオロンが生きている――つまり、ジオの計画が失敗したということだ。
単身温室へ足を踏み入れたジオはそのまま、その場で立ち止まった。
すっかり夜の帳が落ちた温室の中、リー・タオロンが車椅子に乗ったまま、ジオを迎え入れる。
その斜め後ろに、Qがいつものように控える。
SPを連れてこなかったことを、ジオは悔やんだ。
さすがにジオでも、Qを相手に互角の戦いをすることは少々難しい。
硬い口調で、口を開く。
「……危篤状態になられたと、知らせが届きましたが」
リー・タオロンはにこにこと笑いながら、ジオを見上げた。
「ジオがそれを聞くの?」
そう言って、Qに指示を送る。
Qが木陰から、男たちの遺体を軽々と担ぎ上げた。
ジオの足もとに、造作もなく亡骸を投げ落としていく。
ひとり、またひとり。
ジオはそれを、無表情に見ていることしかできない。
「これは、返してあげる。僕は要らないから」
全員、リー・タオロンを始末するよう差し向けた男たちだ。
この屋敷に仕えるアンドロイドたちが内蔵している銃弾によって、眉間を貫かれて絶命している。
ジオは表面上平静を保ちながら、心の中で計算していた。
どうやってこの場を取り繕うべきか。
保身のために、今、自分は何を成すべきか。
裏切り者には制裁が鉄則とはいえ、ジオは今ここで殺されるわけにはいかないのだ。
リー・タオロンの始末など赤子の手をひねるよりも容易いことだと思っていたので、失敗するのは想定外だった。
そんなジオを見透かしたように、リー・タオロンが鼻を鳴らす。
「大丈夫だよジオ。僕は怒っていない。きみを処罰するつもりは今のところないんだから」
「…………?」
少年の様子に、ジオはふと違和感を覚えた。
天使のようなリー・タオロンは、こんなふうに、挑発的な物言いはしたことがない。
「まず、お礼を言わなくちゃ」
脆弱な美少年のための楽園に、天使の声が水紋のように反響する。
「ありがとう、ジオ。きみが僕を殺そうとしたおかげでびっくりして、心臓発作を起こしてしまった……だから、リー・タオロンが眠りに入った」
「リー・タオロンが眠りに入った……?」
ジオは、その不思議な言葉を鸚鵡返しに口の中で転がした。
その言い方ではまるで、目の前の少年がリー・タオロンと別人だとでも言っているかのような。
――馬鹿な。
秀麗な顔立ちにかすかに戸惑いの色を浮かべるジオをおもしろそうに見つめて、少年はにっこり微笑む。
「はじめまして、ジオ。僕はルザル。リー・タオロンの第二人格と言えばわかってもらえるかな?」
「――リー・タオロンは多重人格などではありません」
ジオは、きっぱりと否定した。
リー・タオロンのことは日常のバイタルからやがて現れるであろう症状のひとつひとつにいたるまで、すべて把握している。
リー・タオロンのことでジオが知らないことなど、何もないはずだった。
「医療チェックのたびにメンタルチェックもしているはずですが、そんな報告は受けた覚えがありません」
「そうだろうね」
リー・タオロン――ルザルが、事もなげに肯定する。
「僕らがふたりでひとつの身体を共有していることは、僕らだけの秘密にしていた。ずっとずっと……子供のころからね」
ルザルがそこで、一呼吸置く。
「僕たちは、とてもうまくやってきた。ジオさえ騙されていたくらいに」
ジオが、青い双眸を見開く。
ひ弱で頼りないこの子供が、今まで、自分をうまく出し抜いてきたというのか。
まさか。
「リーは泣き虫でね。怖がりだし死の恐怖に常に怯えて、現実から逃避したいときに僕が目覚める。小さいころからそうだった。痛みを伴う検査や手術に、リーの神経では耐えられなかったんだ」
リー・タオロンの陰の部分を引き受ける人格――それがルザルだ。
だから性格は闇深く、リー・タオロンとはかけ離れている。
「僕らは多重人格者じゃない。二重人格だよ。ふたりでひとり、ただそれだけ」
白く細い、わずかな風にもそよぐ髪。
血の色の瞳。
彼専用に作られた車椅子。
以前と何も変わっていないのに、口調が違う、表情が違う。
ジオが驚きをもってその事実を受け止めるには、しばらくかかった。
「……このことは、メインミーはご存じだったのですか?」
さあね、とルザルが首を傾げた。
車椅子が、動きに合わせてわずかに軋む。
リー・タオロンと丸きり同じしぐさなのに、受ける印象が全然異なる。
リー・タオロンは愛くるしく、ルザルはどこまでも禍々しい。
「知らなかったんじゃないかな? それとも、気づいていたかな? 父さまは勘の良い人だったから」
膝にかけていたブランケットがずり落ちそうになり、Qが黙って近づいてそれを丁寧に直す。
彼の身体は、むやみに冷やしてはならない。
「他に、この事実を知っているのは? 十三人の大幹部たちは」
「知らないさ。僕は彼らにほとんど会ったこともないし。知っていたのは子供のころに世話をしていた女たちや、医者なんかだね」
返事を予測しつつ、ジオは尋ねた。
「その者たちは今、どこにいるのでしょう?」
恐らくルザルは、秘密を知る者をすべて片付けてあるだろう。
けれど返ってきた答えは、ジオの予想のはるか斜め上を行っていた。
「ここさ」
「ここ、とは」
温室の中さ、とルザルが膝のうえでわずかに手を広げてみせる。
「死体は全部、この地下に埋めた。彼らは皆、この温室の木々が育つための栄養分になっているんだ」
温室の天井を埋め尽くすくらいに茂った葉や色鮮やかな鳥たち、香しい花々が一気に表情を変えたように見えて、ジオはめまいを覚えて額に片手をあてがった。
「なんということだ……!」
ぞくぞくと、背筋に興奮が走る。
それと同時に湧き上がってきたのは、体の底から震えるような喜びだった。
だって――彼はなんて、刺激的なんだろう。
彼はなんて、メインミーに似ているのだろう。
ルザルの中に、崇拝すべき人の面影を確かに感じる。
ジオは恍惚とした微笑を浮かべ、ルザルに向き直った。
「貴方は……メインミーにそっくりです。彼も若い頃、よく、そんな顔をして笑っていた……!」
メインミーと、メインミーを思わせるものに対して、ジオは膝を折らずにはいられない。
リー・タオロンは腑抜けでふさわしくなかったのに比べて、ルザルのこの異質ぶりはどうだ。
メインミーに生き写しではないか。
「貴方こそ、メインミーの息子にふさわしい」
「ジオはずっと、リーのことを嫌っていたもんね。リーは気づいていなかったけど」
リー・タオロンの意識が目覚めている間は、ルザルは眠り続けることしかできない。
ルザルは浅い夢の中にたゆたいながら、ずっと願い続けてきた。
自分だって、リー・タオロンのように表の世界に行きたい。
自分の人生を、思うように生きたい。
ひとつの身体にふたつの人格は、少々窮屈だ。
「暗殺されかかったことで、リーはひどいショックを受けてね。深く深く眠ってしまって、もう目覚めないかもしれない」
ルザルにとっては、このうえないチャンスだった。
魂の半身であるリー・タオロンを、ルザルは愛しながら、同じくらい憎んでいる。
「リーの意志のほうが強く作用するから、僕がこんなふうに出てこられたのはきみのおかげなんだ。だから怒らないし、処罰するつもりもない」
ルザルが少し苦しそうに息を乱す。
ほんの少し喋っただけで喉が疲れ、ぜいぜいと呼吸が引き攣る。
Qが車椅子に繋いでいた点滴を操作した。
効力の強い薬剤が、ルザルの身体に流れこんでいく。
ルザルは、眠たそうに瞼を落としながら続けた。
「僕はQの中に記録を残して、リーの記憶を共有している」
ジオが、Qに視線を走らせる。
忠実なアンドロイドは、その視線を目を伏せるだけで受け止めた。
「だから僕はリーの記憶も持っているけど、リーは僕の記憶は知らない。僕が目覚めている間、眠りっぱなしだからね。興味もないみたいだし」
記録はデータ化されて、Qの内蔵記録装置の中に厳重に管理されているのだという。
「ロックキーは僕らの生体反応だけ。Qから無理に記録を引き出そうとしたら、Qごと暴発する」
そろそろ体力が限界なのだろう。
ルザルの声は目に見えて元気がなくなり、上半身もゆらゆらと揺れ始めていた。
ジオが腰を屈めて腕を伸ばし、ルザルの身体を抱き上げる。
生まれてこの方、一度も地面を踏んだことのない足。
細すぎる骨格。
か細い身体は冷え切っていて、悲しいくらいに軽い。
「ジオ? 何をするの」
「どうぞ横になってお休みください。無理をなさってはいけません」
「やめろ!」
自由に動くことができないルザルは、こういうときろくに抵抗できない。
「僕は赤ん坊じゃないんだ、こんなふうに、無能みたいに扱われるのは大嫌いだっ!」
九歳という年相応に――否、それよりもっと幼い口調でルザルが叫んだ。
「離せっ、ジオ!」
「ああ、ルザル。落ち着いてください」
ジオはすたすたと歩いて、ふかふかとしたベッドにルザルの身体を丁寧に横たえた。
温室の中の、一番大きな木の陰が彼の寝所だ。
大きなブランケットで、少年の身体をくるむ。
叫んだせいで咳がとまらないルザルの背中を優しく摩り、あやすように、優しい子守歌を口ずさむ。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくして、ようやく咳がとまったルザルが、涙の混じる声を振り絞った。
「ジオも、あの医者たちと同じなの? 僕が弱くて、なにもできないと思っているの?」
生まれたときから死に瀕していた身体だ。
暗殺大群を継ぐ度量がないどころか、成人することも不可能だろうと言われ、メインミーはしばらくの間、息子の存在をひた隠しに隠して公表しなかった。
そのことが、ルザルの矜持を傷つける。
与えられたのは安穏とした暮らし。
平和で静かで無為。
リー・タオロンはその中でふわふわと生きてきたけれど、ルザルは退屈で退屈で、綺麗な空気にじわじわと絞め殺されていく気分だった。
「僕は……僕を馬鹿にすることなんて許さない。そんなやつは全員、皆殺しにしてやる。僕は、何だってできる。何もできなくなんかないんだ…………っ」
「ルザル」
この世のすべての男女の心を蕩かせてしまいそうに魅力的な笑みを浮かべて、ジオが囁く。
「あなたを馬鹿にするなんて、するはずがありません。僕は今夜から、あなたの忠実な僕です、ルザル……何なりとお申し付けください」
ベッドから降りたジオは、ルザルの手を取り、その甲に唇を恭しく押し当てた。
「命をかけての忠誠を、メインミーと、その息子であるあなたに」
※
それから半日後。
眠りから目覚めたルザルは熱を出し、Qに看病をさせていた。
「――最悪」
体調は、まったくもって芳しくない。
心臓発作を起こして死にかけたうえにジオ相手に癇癪を起こしたりしたものだから、疲労がかなり蓄積していた。
数週間は、ろくに起きていることも難しいだろう。眠り続けて、少しでも体力を回復させなければならない。
「全身に重しをつけられたみたいな気分だ……Q、回復剤をもっと強いのにして」
ルザルの服用する薬剤は、すでに処方薬の限度を超えている。
彼の要求を満たすために、薬剤濃度はほぼ麻薬に近い域にまで達していた。
普通の医者なら止めるだろうそれを、Qは、命じられるままに投与する。
Qにとって、主の命令こそが絶対だ。
汗に濡れる額を拭くことも身体の向きを変えることも、ルザルは自分ではできない。
何から何まで、主の好みを知り尽くしたQが心得て先回りする。
アンドロイドは疲れないし、文句を言わない。
睡眠時間が必要ないから常に侍らせておけるし、ルザルが離れるなと言えばずっとそばにいる。
それでいて、余計な口出しはしない。
「ねえ、Q。ジオの、本当の目的を知ってる?」
主が眠りにつくまで話し相手をすることも、Qにとっての大事な役目だ。
ルザルはQに心を許し、屈託のない表情で喋る。
「イイエ」
対するQは、アンドロイドなので性別はないが――まるで、母親のよう。
「あんなことを言っていたけどジオはね、本心では僕を利用するつもりなんだよ、きっと。父さまを復活させたがっていろいろと手を打っているみたいだからね。ふん、
その言葉を拾い上げて、Qの人工頭脳が反応した。
メインミーが冷凍睡眠装置に入っていることは、Qも知っている。
ルザルとリー・タオロンが知っていることの大抵は、Qも知っている。
Qにとっては、ルザルもリー・タオロンも大切な、護るべき主人である。
「冷凍睡眠ハ失敗デスカ? デハ、ナンノタメニ、冷凍睡眠ヲ?」
ベッドから頭すら上げられないルザルは、哀れむようにQを見やった。
こんなに近くにいても、アンドロイドには人間の気持ちは未来永劫わからないだろう。
ジオが焦がれるほどメインミーの復活を願っていることも。
自分を見捨てたに等しいメインミーを、ルザルがどれほど嫌っているかも。
「アンドロイドには、人間の気持ちはわからないだろうね。お前たちは死なないんだから」
「…………?」
Qが正確な返事を導こうとして、思考回路のスピードを上げる。
でも、どう答えればいいのか、飛び抜けた頭脳を持つQでも正解はわからないままだった。
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