第23話 暗殺大群本部・ジオの居室②
ジオが、昏々と眠るウイの顔を覗きこむ――ウイにそっくりな、美しい横顔で。
翡翠をくり抜いて作った香炉をチェストの上に置き、室内に濃厚な香を燻らせる。
あまい、身体に重くまとわりつくような酩酊感のある香りに、眠るウイの顔が少しだけ歪んだ。
「ジ、オ……?」
睡眠導入剤の影響で相当だるいだろうに、必死になって瞼を開けようとしている。
ふっと吐息だけで
「大丈夫……いつもの幻覚香ですよ」
そう言って、枕もとに腰かけたジオが、ウイの顔の輪郭をそっと指の背で撫でる。
「この薬も、少し効き目が弱くなってきたようですね……身体が、慣れてきたのかもしれません。今後は、もっと強い薬を用意させることにしましょうか」
ジオは酒に強い体質なうえに幻覚香に耐性があるので、平然としているが――この幻覚香は、人間の心に強く作用する。
効力が大きいものは、依存性も高いので危険だ。
そのことをジオはよく知っていたけれど、気にしなかった。
ジオはウイの頬を撫で、魅力的な声で、恋人に接するようにゆっくりと語りかける。
ウイはベッドに横たわったまま、指先ひとつ動かすことができない。
強い睡眠導入剤――に見せかけた、精神をコントロールする薬剤と幻覚香の相乗効果で、今ウイは、催眠術が非常にかかりやすい状況にある。
暗示をかけて人の心を支配し、思いどおりに操るこの術は、ジオの特技だった。
とはいえ、彼がこの術を使用するのはウイに限られている。
ジオの催眠術は強引なほどに強力で、そのぶん副作用も多いのだ。
心身ともに強いウイでなければ、到底耐えられる負荷ではなかった。
「術が緩んでしまっては困りますからね。今日は、術を強めにかけ直すことにします。つらいだろうけど辛抱しなさい。わかりましたね?」
視界を塞がれ半分以上意識を操られながら、ウイが応える。
「――は、い……ジオ」
ウイが完全な催眠状態に陥ったことに満足し、ジオが声を低めた。
薄いカーテン越しに月明かりが差しこむ薄闇の中、香がたなびく。
静寂の合間に紛れるジオの声は、恋人に囁く睦言のようにあまく淫靡だ。
「おさらいをしましょう。きみは三年前、とある仕事でしくじって大怪我を負った……覚えていますね?」
ジオの問いかけに、ウイが小さな声で応える。
「――はい」
初仕事に失敗し瀕死の状態にあったウイをジオが連れ戻し、命を救ったのだ、と――。
ジオは偽りの記憶を埋めこんでいる。
だからウイは、自分がヒガン地区に潜入していたことも、珊泉と呼ばれていたことも覚えていない。
それどころかそれ以前、生まれてからヒガンに潜入するまでの間の記憶も、ジオは封じこめてしまっていた。
ウイは自分がジオとほとんど面識のないまま育ったことも、濫枒の暗殺に失敗したことに怒り、ジオが一度は自分を殺そうとしたことも知らない。
ウイの中には、ここ三年の間に積み重ねた記憶しかない。
他は空っぽだ。
なにもかもまっさらな赤ん坊のようにして、ジオはウイの中を自分で埋め尽くすつもりでいた。
「続きを言えますか?」
「怪我の後遺症で、記憶がない……」
「そう。きみはなにも覚えていないんです。そう――なにもね」
「はい……なにも」
「先日……リー・タオロンの誕生パーティーの夜に金龍ホテルで会った男のことを、何か思い出しましたか?」
答えは、迷う暇もなく戻ってきた。
「いいえ」
ジオは満足そうに、掘りの深い面立ちに笑みを浮かべる。
「いい子だ……きちんと術がかかったままですね」
そして指を鳴らし、術を締めくくった。
「命を救われたきみは、僕に忠誠を誓った。きみは僕の指示どおりに動いていればいい。わかりましたね」
「――はい。私の命はジオのもの。すべて貴男に従う」
ジオはすっかり満足して主寝室へ戻り、着ているものをすべて脱ぎ捨てて、絹のシーツを敷いたベッドに横たわる。
こうして頻繁に催眠術をかけ直して確認しないと、安心できない。
催眠術は強力だけれども、絶対ではないのだ。
いや、とジオは強く念じる。
「僕に、不可能などない」
幻覚香を使った術は暗殺大群の中でも眉を顰める者が多い手段であるが、構うものか。
ウイを自分に縛りつけるためなら、ジオは何でもするつもりだった。
人はそれを、呪縛と呼ぶ。
※
三年前、暗殺者育成部門で育てられていたウイは、初めて単身で仕事を与えられることになった。
当時、まだ暗殺大群のナンバー2になる前のジオの采配だった。
ウイは命令どおり、ヒガン地区へ潜入した。
密命は、ヒガン地区を束ねるメ組の濫枒を消すこと。
目的は、暗殺大群にとっていずれ邪魔な存在になるであろうメ組の頭を、早めに排除しておく必要があるため。
ジオ直々の命令で、ウイを中心に数人のチームが組まれた。
メンバーはウイがヒガンに潜りこむために怪我を負わせることのほか、ヒガンに潜伏して様子を探り、濫枒殺害のあとウイを救出する役割も受け持っていた。
暗殺大群は常に、数年から数十年を見越した計画を立てて動く。
あらゆる情報から鑑みるに、ヒガン地区を落とすには、まずメ組を潰しておきたい。
彼らの結束は固く、少しずつひびを入れるような小細工では到底通用しないことは目に見えている。
数年前にも、暗殺大群はヒガンを壊そうと目論んだことがある。
標的は濫枒の父親であり、当時、メ組の先代の頭だった男だ。
その当時はメインミーが計画を立てて、ジオはまだ幹部見習いの候補生だった。
数人の男たちを送りこみ、単なる事故に見せかけて殺そうとしたのに――最後の最後の段階で邪魔が入り、メ組の先代でも若頭の濫枒でもなく、子供がひとり死んだだけに終わってしまった。
続けざまに手を打って怪しまれては元も子もないし、第一、メ組だけに関わってもいられない。
それにメインミーの病状が悪化して、暗殺大群自体内部が一気に混乱してしまった。
数年経って、ジオが暗殺大群の実質的なナンバー2となったころには。
ヒガンのメ組は頭が代替わりし、濫枒があとを継いでいた。
濫枒の弱点は弟だ。
弟が死んだとき濫枒はとても落ちこんで、一時はヒガンを離れようとしたほどだと、ジオはヒガン地区に潜りこませたスパイから報告を受けている。
だから、二度め――今度は、弟に一番近い年格好のウイに白羽の矢を立てた。
もともとウイは中性的な姿形をしていたので、メインミーがわざと男装させて育てていた。
男のほうが、暗殺者としては何かと有利だからだ。
それに、いざというときに女性の姿に戻れば、正体をごまかして逃げることもできる。
一筋縄ではいかないメインミーは、そういう用意周到さも持った男だった。
ジオは、幻覚香を使って暗示をかける。
『いいですね、ウイ。きみはひどい怪我を負って倒れる。そうすれば、きっとあの男がきみを助けるでしょう。目が覚めたとき、目の前にいる男を殺しなさい。自分の命より、任務を優先なさい』
クンシの本部を離れられないジオが手を下したのはそこまでで、そこからは、末端の戦闘要員たちが手はずを整えた。
幻覚香の影響で脱力して、いっさい抵抗しないウイに暴行を加え、ひどい状態にして濫枒のテリトリーに放置した。
ただ迷いこんだだけのよそ者など、ヒガンでも警戒してまともには受け入れないだろう。
ただし重傷を負っていたら――さらにそれが、死んだ弟を思い起こさせる年格好の少年だったら――根がお人好しの濫枒はきっと保護する。
そのために、ウイが怪我をする必要があった。
当時のことを思い返して、ジオは唇を噛む。
「ウイが記憶喪失になるなんて、予想外でした」
その当時はウイに特別な感情など抱いていなかったから、使い捨てる感覚だった。
派手な傷を負わせて放り出しておけばいい――そう言ったはずなのに、配下たちは命令を違えた。
どこをどう痛めつけてもいいが、手だけは使えるようにしておけと厳命したというのに。
実際に手を下すのは、足がつかないよう、ヒガンのごろつきを金で雇ったのも良くなかった。
ウイは加減を知らない男たちに足の骨を折られ、肩の骨を外され、腹部や頬をひどく撲たれ、そして恐らく気絶した拍子に、後頭部を強打した。
それがきっかけで記憶障害を起こしたのだ。
ジオはウイに暗示をかけたけれど、記憶部分に手は出していなかったのに。
怪我の痛み、大量に流れた血でウイの意識は混濁し、ジオの暗示だけが一部、強く残った。
目が覚めたとき、目の前にいる男を殺せ。
それだけは覚えていたから、ウイは忠実に命令に従った。
命令には従うものだ、と――。
暗殺者として専門教育を受けてきたウイは、そう叩きこまれていたからだ。
けれども怪我の程度がひどく、仕留め損ねた。
記憶が戻らないままウイは濫枒に保護され、任務を遂行できなかったのに生き長らえた。
配下からの報告書に目を通し、ジオは心底怒りを感じたものだ。
記憶障害などという想定外の事態を引き起こした配下たちも、任務を遂行できなかったウイも、全員処罰するべきだと思った。
このときジオは、ウイが自身の妹だということは知っていた。
「そう――僕たちは、双子なんです」
けれど、彼とウイは育ちが違う。
暗殺大群に引き取られたのがいつかは知らないが、気がついたときには離ればなれになっていたから、自分に身内がいるなんて知らなかった。
ジオは幹部候補生としてメインミーの手もとで育てられていたし、ウイは暗殺機関で他の子供たちと一緒に育てられた。
「彼らの失態は許せないし、きみのこともね。焼き尽くしてしまおうと思っていたんですよ」
練絹のシーツのうえに横になっても眠れずに、ジオは長い黒髪を指でかきあげて独りごちる。
続き部屋の周囲は、私的SPたちが交代制で固めている。
広い寝室の中には誰もいない。
ジオは一度起き上がって、ベッド脇のチェストに備えつけてある呼び鈴を鳴らした。
こんな時間帯にも関わらず、すぐさま、勤勉な執事が入室してくる。
「お呼びでございますか」
ジオが彫刻のような裸体を無防備に晒していても、優秀な執事は息ひとつ乱さず平静を保っていた。
完璧な正装に身を包み、髪も一筋たりとも乱れていない。
「眠れない」
「かしこまりました」
主の意を汲んで、すぐさま寝酒を用意する。
強い酒を一息に流しこんで、ジオはベッドから立ち上がった。
執事が、彼の美しい身体に寝間着を羽織らせる。
ジオは、そっけなく言い放った。
「下がっていい」
「は」
ジオはそのまま、ウイの寝室へ歩いていった。
幻覚香の残るセカンドルームでは、ウイが静かに眠り続けている。
「……ウイ。眠れない」
呟いて、ウイひとりには大きすぎるベッドに上がる。
ジオの胸に抱き寄せられても、ウイは呼吸ひとつ乱れない。
さらさらとした黒髪に鼻先を埋めて深く息を吸いこみ、ジオはため息をついた。
「綺麗な骸のようですね、きみは」
手加減なしの鍛錬のせいで打ち身切り傷だらけの肢体は、よく鍛えられて筋肉が引き締まっているのに、余計な脂肪はいっさい身についていない。
しなやかで力強いのに、骨格自体は華奢なので奇跡のようなバランスを保っている。
やわらかい肌の感触を寝間着の上から楽しんで、ジオはようやく眠気を覚えることができた。
「ふふ……幻覚香の匂いも素敵だけれど。きみはやっぱり、血と火薬の匂いがよく似合いますよ。あの夜僕に刃向かってきたきみは、たまらなく魅力的でしたからね」
甘ったるい媚態を晒すことしかできないだけの女に、興味は持てない。
刺激だ。
ジオの興味をかき立てる希有な存在だけが、ジオの隣に立つにふさわしい。
その点、ウイは完璧だった。
男の格好をしている妹。
双子だということを知らないままの、無知な妹。
暗殺大群の一員として手を血に染めながら、どこか無垢なまま。
抱きしめていると安心するのは、同じ血が流れているせいだろうか。
「けれど時々、この手で絞め殺してしまいそうになる……我ながら、おかしなものですね」
尖っていた神経が綻んでいくのを感じ取りながら、ジオはなお、囁き続ける。
枕に頭を預け、うっとりと、ヒガンの大火災の夜のことを思い出す。
「醜いもの、汚いものは焼却するのが一番です。燃やしてしまえば、すべてが浄化される」
ウイルスも、人も。
「きみはたったひとりの血の繋がった妹。とどめは僕が刺してあげようと思って、あの夜、わざわざヒガンへ出向いたんですよ。まだ僕も、身軽に動けましたしね」
それが当時、妹に出来るジオなりの精一杯のことだった。
「きみが覚えていないのは本当に残念です。あの炎の中、必死になって僕に挑みかかってきたきみは、とても美しかったんですよ。炎に照らされて、神々しいくらいに綺麗でした」
作戦決行には、風の強い、乾燥した夜を選んだ。
火薬や薬品を計画的に持ちこんで仕込んだから、ヒガン地区が灰になることはわかりきったことだった。
ウイが火傷を負いながらメ組の本部に駆けこんできたとき。
ジオは精鋭の暗殺要員たちと乗りこみ、本部にいた女たちをあらかた始末していたところだった。
彼女たちはウイの関係者だ。
ウイの存在を知る者は、できる限り処分しなくてはならない。
煙に巻かれる前に避難しようとしていた女たちを壁際に追いこみ、斬って捨てるのは造作もないことだった。
「詠子、ここはもうじき火が移る! 早く避難を……っ!」
ウイがやってきたとき、本部はまだ焼けてはおらず、その代わり血の海という惨状だった。
お互いを庇い合うように、折り重なって倒れている死骸。
恐怖に引き攣った死に顔。
流れ続ける真紅。
「詠子!? 知里っ!?」
物言わぬ女たちの前に、返り血を浴びたジオが佇んでいる。
ウイはそれを見るや、獣のような眼をしてまっすぐにジオに飛びかかってきた。
近くで火柱が上がり、鼓膜を轟かせる中。
今もジオの背筋をぞくぞくとさせるほど、刺激的な光景だった。
「小さな獣のように僕に襲いかかってきたあの目は、今でも忘れられません。壮絶に美しくて、その瞬間――きみのことが愛おしくてたまらないんだと気づいたんです」
家族というものがわからなかったから、妹がいてもただ、見ていることしかできなかった。
愛というものを知らなかったから、どう接したらいいのかわからなかった。
だがジオはその夜、理解したのだ。
「僕は、きみを愛しています。だから殺さない――愛しい、僕の半身」
あのあとジオはウイの鳩尾を打って気絶させ、彼女だけを連れて帰った。
「女たちの死体には、火をつけて始末しておきなさい。あとで刀傷が判明したら厄介です。証拠は残さないように」
「かしこまりました、麗狂気」
「それと、ウイに似た体格の死体をひとつ用意なさい。ウイがここで焼け死んだように偽装する必要があります」
「は」
そのために、何の罪もない黒髪の少女がひとり殺され、ウイの衣服を身につけさせられ、耳飾りを着けられたうえで火を放たれた。
そのことに対して、ジオはなんの良心の呵責も感じない。
ジオにとって必要なことだったからだ。
「僕たちは双子――このことは、メインミー以外誰も知らない。大幹部たちでさえ、血が繋がっていることは知らないんです」
暗殺大群に、家族など不要だ。
でも、ジオは。
メインミーに引き取られたときから、幹部候補生だった。
ありとあらゆる情報が武器となり、弱みともなりうる立場だった。
『ジオとウイが双子だということは、しばらくの間は隠しておこうか。ジオ、きみの身を守るために必要なことだよ。僕たちにとっては、家族は時として足手まといになる』
メインミーの命令であれば、ジオに否やはない。
禁じられていたから話しかけることもできなかったし、時々、訓練を受けている姿を遠くから見かける程度だったけれど。
お互い育つ環境はきっぱり分かれていて接点もなかったから、容姿がよく似ていることも誰も気にしないくらいだった。
「でも僕たちはもう大人になって、自分の身は自分で守れます。それに僕は」
ここ数年不眠症に悩まされているジオにとって、ウイはかけがえのない存在となっていた。
「きみをこうして抱きしめていないと、眠れないんです」
ジオには、夢がある。
見果てぬ夢。
「あの人が復活したら、僕たちは三人で家族になりましょう。あの人がいて僕がいてきみがいれば、誰よりも完璧な家族になれるはずです……そうなったら、素晴らしいと思いませんか?」
リー・タオロンは要らない。
自分の大切な存在だけで、この世界を埋め尽くしてしまいたい。
ジオの腕の中で、ぴくりとも動かないウイは人形のよう。
ジオは、自分が奇妙な性格だと認めている。
けれど、気にはしていない。
「どうせこの世界に、まともな人間なんていやしないんですから。だったら、僕は」
それがジオ。
二つ名は麗狂気、まさにそのとおり。
「僕のための世界を、作るのみです」
自分とそっくりな乙女を胸に抱きすくめ、ジオはようやく、浅い眠りに就いた。
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