第22話 暗殺大群本部・ジオの居室

 ウイは硝煙の匂いをまといつかせながら、射撃鍛錬場を引き上げた。

 もう日付も変わる時刻で、彼女のほかに、射撃練習を繰り返している構成員は誰もいなかった。

 汗を散らすように首を振りながらイヤーウィスパーをむしり取り、さっさと片付けにかかる。

 彼女は日夜、暇さえあれば鍛錬を欠かさない。

 命令があればターゲットの元へ赴いてをするが、普段の役目はジオの護衛だ。

 それには、常に神経を研ぎ澄ませ、身体を鍛えておかなくてはならない。

 基礎となる体力のほか、剣、銃、体術、ありとあらゆる戦い方をこの暗殺大群では基本から叩きこまれる。

 鍛錬場は、ウイがジオのそばの次に長い時間を過ごす場所だった。



 射撃場を出て、極彩色で過度な装飾の施された本部から、別棟にある住居用の建物へ向かう。

 こちらも本部とたいして変わらず、天井には昇り龍の絵が描かれ、階段の手すりや回廊の窓枠などは蓮の花の彫刻で飾られている。

 至るところに縁起の良いモチーフを盛りこんであるのは、メインミーの趣味だ。  

 彼は案外、縁起を担ぐところがあった。

 ジオがメインミーの趣味を受け継いで、美術品のような内装は塵ひとつなく、綺麗に保たれている。

 とはいえ、暗殺大群の本部の造りは複雑怪奇だ。

 通路が曲がりくねっていて、はじめは誰でも迷う。

 廊下はすべて突き当たりになっていて、隠し扉や隠し通路を使わない限り、住居棟へ入ることはできないのだ。

 そんな迷宮としか思えない場所でも、ウイは一切迷わない。

 底を補強した戦闘靴を履いていても、足音ひとつ立てず、しなやかに歩んでいく。

「令嬢」

 住居棟専属の中年の執事が、慇懃な態度でウイを呼び止めた。

 彼ら使用人たちはウイのことをそう呼ぶ。

 ウイがいくら言っても、ジオに命令されているのか、その呼び方をいっこうにやめようとしない。

「ジオさまが今夜は遅くなるから、先にお休みになるように、との伝言でございます」

「わかった」

 それだけ答えて、ウイは愛想笑いを浮かべることもなく、無表情にジオ専用の続き部屋へと入っていった。

 執事が、わずかに不愉快そうな表情でそれを見送る。

 ジオの部屋には、誰も勝手に入ることを許されていない。

 使用人たちは――執事である彼を除いて――どんなに手間でもいちいちセキュリティチェックを受け、パスワードを入力しなくては入室できない。

 けれどもウイに限っては、好きなときに自由に出入りする許可が与えられていた。

 それもそのはず。

 彼女のベッドは、ジオの続き部屋のセカンドルームに置かれているのだから。

 夜間もジオの傍らに控えて、いざというときのために備えるのが仕事なのだ。

 一応ウイ専用の部屋も別にあることはあるのだけれど、ほとんど使用したことがない。

 使用した痕跡のないベッドがぽつんと置いてあるだけで、そちらも毎日メイドたちが掃除して、一応風を通してくれてはいる。


 ここ三年はこの部屋を生活の拠点としているにも関わらず、ウイは、執事をはじめとする使用人たちと打ち解けていなかった。

 たぶん彼らも、ウイのことをどう扱うべきなのか、少々迷っているのだろう――それもそうだろう、とウイは思う。

 彼女の立場は、彼女自身でさえよくわからない。

 考えごとに耽りながらウイはすっかり慣れた足取りでセカンドルームのシャワーブースへ向かい、汗を流す。

 銃撃の稽古をすると、どうしても火薬特有の匂いが染みつく。

 それを洗い流したかった――銃は得意なほうだと自負しているのだけれど、ウイはなぜか、火薬の匂いは少し苦手だった。

 主寝室のほかに居間や書斎、専用バスルームなどを備えたジオの絢爛な部屋ほどではないけれど、セカンドルームもそこそこ広く、ウイのためにいろいろと整えられている。

 特にシャワールームは、ウイが使いやすいようにジオがあれこれと気を回しているので、広く清潔だった。

 香りの良いお湯がふんだんに出るシャワー、たくさんの種類が揃えられた海外製の石鹸。

 髪のための香油も肌の傷を治す軟膏も、大きな鏡も、肌触りの良い寝間着も。

 ジオはウイをあまやかすことに際限がない。


 ウイは濡れた髪のまま、鏡に映る自分の裸体をじっと見つめる。

 白い全身のいたるところに、傷跡が走っている。

 鍛錬のときについた小さな傷や打ち身は今もあちこちにあるけれど、程度のひどいものはくっきりとした痕になり、肌に刻みこまれていた。

 肩にも腕にも胸にも、足にも背中にも腰にも。

「――これだけ残るということは、相当深手だったんだろうけど……全然覚えていないな」

 記憶はまったくなくても身体に暗殺技術が染みつき、命に関わったであろう痕も、こうしてはっきり残っている。

 この傷跡が、ウイが暗殺要員として育った紛れもない証だった。

 ウイは、小さく微笑せずにはいられない。

「……よくまあ、これだけ怪我をして生き残ったものだ」

 任務に失敗したらそれはすなわち死を意味するということだから、自分はもしかしたら、かなり悪運が強いのかもしれない、と思う。

 どの傷がいつどこでついたものなのか、ウイは知らない。

 ジオや使用人たちは知っているのかもしれないけれど、誰も何も言わないからウイも尋ねようと思ったことがない。

 使用人たちは暗殺大群の構成員ではあるけれども、ウイのような正真正銘の戦闘要員ではない。

 殺人技能全般は叩きこまれているが、普段は使用人として、この住まいの家事全般を担当している。

 逆にウイは暗殺者として仕事を任され、麗狂気ジオの護衛であり、もっとも近くに控えることを許された側近であるが、大幹部どころか幹部ですらない。

 身分としては、年若い構成員のひとりに過ぎないのだ。

 ヒエラルキーのはっきりした暗殺大群の中で、ウイの立ち位置は非常に曖昧だった。

 年齢も、まだ二十歳に少し届かない。

 戦闘要員の中には女性もいるが、ウイほどジオの寵愛を受けている者はいなかった。それは男女の差別ではなく、単純に戦闘能力の差だ。

 エリート揃いの暗殺要員の中でも、ウイの殺傷能力は飛び抜けている。

 飛び道具や刃物、薬物や知略など、戦闘と一言で言ってもそれぞれが得意とするものは異なる。

 その中で、ウイが得意とするのは武器を駆使した白兵戦だ。

 常日頃から衣服のあちこち、身体のあちこちに武器をいくつも忍ばせ、時々ジオから、歩く武器庫のようだとからかわれている。

「私はいつから、この仕事をしているんだろう……?」

 三年前より過去のことは覚えていないというのは、頭と胸に、ぽっかりと穴が開いたような気分だった。

 その穴は真っ白で、中を覗こうとしてもなにも見えないし聞こえない。

 ジオや周囲の人間は、思い出す必要はないと、詳しいことを教えてはくれない。

「いつかは、知らされる日が来るんだろうか」

 濡れた髪を乾かしもせず、新しくできた手のマメに軟膏だけを適当に塗って、ウイは薄い寝間着をひっかけてシャワーブースを出た。

 ひとりで眠るには大きすぎる天蓋つきのベッドに寝転がり、天井を見上げる。

 横になると、途端に睡魔が襲ってくる。

 とろとろと眠りかけたウイの意識を、勤勉実直な執事の声が引き戻す。

「失礼いたします。おやすみ前のお薬をどうぞ」

 慇懃無礼を絵に描いたような執事が、クラシックな銀盆に小さなグラスを乗せて、ベッド脇に佇んでいた。

 彼にとってはジオの命令が絶対だから、ウイの許可なしに、寝室にも遠慮なく入ってくる。

 ウイはちょっと戸惑ったように、ベッドの上に起き上がった。

「……もう、薬を飲まなくても眠れる」

 確かに、ジオに保護されたばかりのころは眠れなくて、睡眠導入剤を処方されていたけれど。

 ここ三年、ウイは毎晩、睡眠導入剤を飲み続けている。

「ジオさまのご命令です。必ず飲んでからおやすみになるようにと」

 ウイのささやかな主張は、執事の堅い口調で切って捨てられる。

 そう言われてしまっては、今夜も飲まないわけにはいかない。

 執事の咎めるような眼差しを浴びながら、ウイは仕方なくグラスを手に取った。

 目を瞑り、舌が痺れるほど苦い液体を一息に飲み干す。

 途端にくらりと目が回って、グラスが手から落ちた。

 虚ろな眼差しになったウイが、気を失うようにしてうつ伏せる。

 執事は荷物を置き直すような表情でウイの上半身を引き起こし、仰向けに寝かせ直した。

 有能な執事は床に落ちて転がっていたグラスを回収し、儀礼的な、何の感情もこもっていない声で囁いた。

「――良い夢を」


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