第19話 クンシ地区・金龍ホテル②
「――やれやれ。どうやら今夜は、お招きしていない客人が入りこんでいるみたいですね」
立ち止まった麗狂気が、濫枒たちに視線を当てて、形の良い唇の両端を吊り上げる。
氷のごとき冷ややかな一声で、周囲の空気がぎゅっと凍てついた。
「そんな杜撰な警備体制を取らせている覚えはないのですけれど。せっかくの夜に、なんと無粋な」
豪勢なホテルのエントランスは招待客で溢れんばかりで、人いきれがするほどだというのに。
麗狂気は、その中に濫枒と久我が紛れこんでいることをしっかりと見抜いているようだった。
客たちはざわざわとざわめき、互いに辺りを見回したりしている。
「今夜の警備責任者は、ペイル……きみでしたか」
「…………っ」
ペイルと呼ばれた取り巻きのひとりが、麗狂気の背後で縮み上がる。
小柄で貧相な体つきをしているが、着ているスーツはやけに上等な男だ。
「違う麗狂気、話を聞いてくれっ!」
冷徹な美青年は、聞く耳をもたない。
「暗殺大群の掟にあるとおり、無能は罪です。失敗には償いを」
麗狂気のSPたちが、恐怖に竦んでしまったペイルを乱暴に引き立てた。
ペイルは蒼白になっていたが、弁明のため口を開こうとして、結局何も言えずにいる。
麗狂気に反論しても一切無駄だということを、よく知っているせいだ。
屈強なSPたちがペイルの上着を脱がせ、
壮麗なホテルの、上品な客たちの面前で。
本来ならばひどく屈辱的なことであるはずなのに、ペイルはもはやそう感じる余裕すらなく、獣のように這いつくばる。
「フェイフオ」
「はい、麗狂気」
手を伸ばした麗狂気に、小姓がきびきびと携帯用の鞭を渡す。
麗狂気はうっすらと微笑みながら、冷酷に鞭を操る。
空気を切り裂き、肉を打つ音。
鈍い殴打音と、ペイルの呻き声が豪勢なエントランスにくぐもる。
濫枒が驚いたのは、そこにいる誰もがうつむき、目を伏せているだけで、誰も驚愕したり制止しようとしたりしなかったことだった。
これが、クンシ地区の――暗殺大群の流儀だとでもいうのだろうか。
麗狂気は顔色ひとつ変えない。
濫枒の近くにいた紳士が、声をひそめて不愉快そうに囁いた。
「おぞましい。なんと野蛮な…………」
ペイルが着ていたシャツは破け、背中の皮膚が裂けてうっすらと血が滲む。
やがて、控えている珊泉だけが、躊躇いがちに声をかけた。
「――ジオ、もうやめてやってくれないか」
ジオと呼ばれた麗狂気が、部下を制裁する手をぴたりと止めて振り返る。
美しい面を、怪訝そうに傾ける。
「ウイ、なぜ止めるのです? 僕は無能は大嫌いなんですよ。役に立たない者は、目障りなだけです。存在する価値もない」
「警備を怠ったというのなら、私も同罪だ。貴男の護衛は私なのだから、同様に罰を受ける必要がある」
ウイと呼ばれた珊泉が、真っ向から麗狂気に意見する。
麗狂気が一瞬、海のように青い色の目を瞠り、それからふっと微笑んで鞭を放り投げた。
「何を馬鹿なことを。僕が大切なきみを、鞭で打ったりするはずがないでしょう?」
麗狂気ジオは、それまで苛烈に鞭を操っていたとは思えない優雅な物腰で、軽く腕を広げてみせた。
「さあ、おいでなさい……僕の、美しい毒華」
珊泉――もといウイは、静かに歩み寄り、美しい腕に抱かれる。
ウイのつややかな黒髪に唇を滑らせて、麗狂気は、ところで、と眼差しをまっすぐ濫枒に当てた。
「あの御仁は、きみの知り合いですか? 確か、珊泉とか呼んでいたようですが……?」
ウイが身体を捻って、人混みの中へ緩慢に眼差しを向ける。
あの珊瑚色の双眸が、三年前と変わらない瞳が濫枒を映す。
黒髪から見え隠れする耳に、血を凝らせたように真っ赤な飾りが揺れる。
――間違いない。珊泉だ……!
生きていたのだという歓喜が湧き上がる濫枒を冷静に眺めて、ウイは、きっぱりと首を振った。
「いや。私は知らない」
「知らない? 俺だ、珊泉」
「珊泉……? それは、誰だ?」
「お前、また忘れているのか?」
心底不思議そうに、ウイが濫枒に身体ごと向き直る。
その背後から、ジオが蛇のように腕をウイに絡みつかせ、じっとその様子を観察している。
冷酷な麗狂気の蒼い瞳は、おもしろそうに笑みを含んでいた。
「メ組の頭のそんな顔を拝めるとは、なかなか良い余興ですね。今夜の祝宴にふさわしい……そう思いませんか? ウイ」
ウイが、少し咎めるような口調で麗狂気を呼んだ。
「……ジオ」
ジオとウイの間には、ふたりにしかわからない空気がある。
健全な親しさではなく、もっと陰に湿ってまとわりつく。
少なくとも濫枒の目には、ウイはジオによって精神的にも肉体的にも縛りつけられて支配されているように見えた。
そのことが、濫枒を苛立たせる。
それに気づいた久我が、濫枒だけに聞こえるように低く耳打ちする。
「ボス、ここで騒ぎを起こすのはダメだ。ここはやつらの本拠地。土地勘のない俺らには、逃げ場がない」
「わかってる」
濫枒のことをじっと探るように見ていたジオが、つまらなさそうに吐息を吐き出した。
濫枒が挑発に乗ってこなかったことで、いささか興醒めしたのかもしれない。
そこへ、麗狂気と同じ暗殺大群の大幹部の男が姿を見せた。
麗狂気よりもさらに大きなリムジンから降り立ち、葉巻を燻らせながら近づいてくる。
彼の私的SPは全員、派手なチャイナドレスに身を包んだ女性たちだ。
その場にいた客人たちの意識が、いっせいに彼らに向かう。
「やあ、麗狂気。そろそろパーティーが始まる時間じゃあないのか? こんなところで何をしている」
暗殺大群最古参メンバーのうちのひとりで、すでに髪が白くなり、だいぶ年を召している。それでも恰幅が良く威厳があり、なにより麗狂気に対して威圧的だ。
「別に、何もありません」
ウイが黙って麗狂気から一歩下がり、折り目正しいしぐさで頭を垂れた。
大幹部は、ウイのことは綺麗に無視して通り過ぎていく。
「それよりも、老兄。さあ、どうぞ会場へ」
「うむ」
胸に片手を当てて形ばかりの礼を取った麗狂気が、ちらりと視線を走らせる。
一瞬前までそこにいたはずの濫枒と久我の姿は、忽然と消えていた。
「――逃げられましたか」
麗狂気が、秀麗な眉をひそめる。
エレベーターに乗った大幹部を見送っていたウイの背後に近づき、鋭く囁く。
「ペイルを地下へ連れて行きなさい。処分はあとで検討します」
それは命令。
先ほどまでのあまやかな口調とはまるっきり違う、ミスをした者を決して許さない支配者の声音だった。
彼に仕える立場であるウイは、頷くことしか許されていない。
「……承知」
今夜の主役であるはずのリー・タオロンは、金龍ホテルへはやってこない。
主役のいないまま、誕生日を祝う祝宴は盛大に催される。
乾杯、また乾杯。
華やかな夜は、虚構のうちに更けていく――。
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