第18話 クンシ地区・金龍ホテル①

 それから一週間後、神楽月じゅういちがつの夜。

 濫枒と久我はいつもと違って身なりを上流階級風に整え、晴れ晴れとしない表情で、パーティーの開かれる金龍きんりゅうホテルの建物を外から見上げていた。

 煌々としたネオンサインが、夜の中にくっきりと浮かび上がる。

 クンシ地区の中央区域は新築の建物がずらりと並び、どぎついくらいの極彩色で飾り立てられていた。

「ガキのころに来たことがあるが、その頃この辺はただの廃墟だったぞ」

 真新しい白亜の城のような建造物は、スラムシティでもっとも高く、そしてもっとも最先端の建物だと宣伝されている。

「二十階建てか。しょせんは成り上がりっていうか。クンシの連中も、やることが派手だね」

 久我が苦笑する。

 スラムシティに真新しい建物が並んでいるのは、クンシ地区だけだ。

 この金龍ホテルは、目覚ましい勢いで成長を遂げるクンシ地区のシンボルタワーでもある。

「なんだ? この匂いは」

 大きなガラス張りの扉を開けるドアマンを無視してエントランスに入った濫枒が、空気の匂いを気にするように辺りを見回した。

「ボ…………、っとと、危ね。どうかした?」

 ボス、と呼ぼうとした久我が慌てて口を押さえる。

 ここでは、うかつな発言は控えたほうがいい。

 どこで誰が聞き耳を立てているのかわからないからだ。

「いや、なんかこの辺り……ていうか、クンシ地区は妙な匂いがしねえか」

 甘いようでいて、どことなく酒の匂いにも似た感じだ。

 ヒガン地区の、安酒と煙草と土埃の匂いとは違う。

「そう? 俺は別になにも」

 そう言いながら久我は、なにかに気づいたように鼻の下を指の背で擦った。

「てか、香水の匂いじゃん?」

 久我は、眩しいくらいに明るいエントランスに展示されている大理石の案内図に近寄る。

「わあ。さっすが、金龍ホテルともなると上品なもんだねえ。空気清浄機に人造花のエキスを混ぜて拡散してるんだって。その匂いじゃん?」

 濫枒は納得できずに、鼻先を蠢かせ続ける。

「いや、違う。もっと甘ったるくて、鼻が利かなくなりそうな……」

 久我が、左腕に巻いた腕時計で時間を確認した。

「そろそろ時間だよ。奥に入っておこう」

 大火災の黒幕ではなくても、メ組の頭として、スラムシティに名を轟かせ始めた暗殺大群の実情を探っておく必要はあった。

 久我は体に合うタキシードがなかなか見つからず、小さめのサイズを無理に着ているので、ちょっと窮屈そうにしている。

 ただし、丸い顔に蝶ネクタイはぴったりだった。

「おい。よく似合ってんぞ」

 からかうと、久我が唇を尖らせた。

「やめてくれよ」

 濫枒はそこそこ正装する機会もあったので、クロスタイを合わせたタキシード姿がさまになっている。

 首が締めつけられるような感覚がどうにも苦手でネクタイはできることなら締めたくなかったけれど、今日ばかりは仕方ない。

 スラムシティにしてはセレブが集まる場所だとも聞いてきたので、カフスなども上等の品を選んで身に着けていた。

 コーディネートを買って出た沙羅と条のおかげで髪型も整え、一応、この場に浮かないだけのいでたちになっている――けれどもふたりとも、居心地の悪さをひしひしと感じずにはいられなかった。


「人間、場違いな場所に来ると決まり悪いもんだね」

「びくついてんじゃねえ。行くぞ」

 久我の肩を軽く叩いて、濫枒が先を歩く。

 同じスラムシティの中、ヒガンと同じように自家発電装置で不足気味の電力を補っているのだろう。

 惜しげもなく照らし出された大理石敷きのエントランスはいたるところに花が飾られ、中央にはライトアップされた噴水まで置かれていた。

「――絵に描いたような成金主義だな。ここまでやるには相当金がかかるだろうに」

 地味で目立たない地域だったクンシ地区はここ数年で、このとおり、驚くほどの発展を遂げた。

 暗殺大群がバックにいることは明らかだが、彼らがここまで羽振りが良くなった資金源は一体何なのだろう、と濫枒は首を捻る。

 この街に、国からの支援はないに等しい。

 スラムシティの内部で回す経済にしては、額が大きすぎるのが気になる。

「胡散臭い金なだけあって、使い方も豪気なもんだ」

 同じ感想を持ったらしい久我が、濫枒だけに聞こえるように声を潜めた。

「やっぱり、外部の連中と繋がってるんじゃないの? だって今ここにいる招待客、スラムシティの人間とは思えないようなのばっかりだよ」

 男性も女性も皆フォーマルな服装で洒落こみ、宝石をごく自然に纏っている。

 若い紳士にエスコートされているドレス姿の老婦人が久我と目が合い、茶目っ気たっぷりにウィンクして通り過ぎていく。

 老婦人に限らず、今このエントランスにいる女性たちのドレスはどれも上品で、沙羅たち酒場の女が着るものとは生地からして全然違っていた。

「……こういう世界が、スラムシティにもあったんだぁ……」

 陽気な老婦人を片手を振って見送り、久我が毒気を抜かれた顔つきをする。

「だが、外の連中がわざわざ好き好んでスラムシティに足を踏み入れるか? 普通だったらありえないだろう」

 人間の吹き溜まり、最下の人間の行きつく最後の場所。

 スラムシティの評判は最悪だ。

 まともな人間なら、近づこうとは思わない。

「クンシ地区って、スラムシティにしちゃあ洒落過ぎてるから。上流階級の人間でも許せるんじゃない?」

「馬鹿言え。お上品な連中の街っていうのは、もっと洗練されてるもんだ。こんな趣味悪くねえよ」

 ゴテゴテとした、あと一歩間違えれば下品になりそうな装飾過多。

 絢爛豪華な金龍ホテルの建物は、金に糸目をつけずに作らせたような成金趣味が全体に漂っていて、濫枒の好みには合わない。

 けばけばしいライトアップ、わざとらしい態度のスタッフたち、とってつけたような不自然さが濫枒の気に障る。

 大きな屋根のついた車寄せに高級車が次々と乗りつけたり、花園と間違えそうなくらい大輪の花が飾られていたり、紳士たちのジョーク交じりの優雅な挨拶が聞こえたりするなど、スラムシティではあり得ない。

 虚構、という言葉が一番しっくり来るように思う。

 ごみごみとした場所に建てられた、砂上の楼閣のようなものだ。



 優に八人は乗れるであろう黒塗りのリムジンが車寄せに滑るように到着すると、それまで和やかだったエントランス全体が一瞬、水を打ったように静まり返る。

「なんだ……?」

 濫枒が首を捻った。

 久我が、背後から濫枒の背を指で突く。

「あれだよ」

「あ?」

 久我の声が、緊張を孕んでいる。

 濫枒も条のメモである程度予備知識は入れてきているものの、実際に彼を目にするのは今日が初めてだ。

 暗殺大群の大幹部たちは、ほとんど人前に出てこない。

 今夜はその大幹部たちが勢揃いする、貴重な機会だった。

 現在、暗殺大群の支柱となっている人間は、それぞれのグループに分かれて十三人。

 その上に君臨するのが暗殺大群を作り上げたトップのメインミーだが、彼は今現在消息不明。

 噂では、植物人間状態となって大病院の最上階に暮らしているという。

 その息子で、今夜の主役のリー・タオロンはまだ九歳で、後継者争いからは外れている。

 メインミーの右腕で今の暗殺大群を仕切る実質的なナンバー2はジオ――通称、麗狂気れいきょうき

 彼もまた謎に包まれた人物であり、出身その他は一切知られていない。

 ただ、見る者誰もが魅了されてしまうほどの美貌の持ち主であり、かたわらに常に、毒華どくかのごとき凄腕の暗殺者アサシンを従えているという。

 久我がごくりと唾を飲み、低く囁く。

「今着いた車から出てくるのが、暗殺大群のナンバー2……麗狂気と呼ばれている男だよ」




 彼が姿を見せると、一瞬、空気がぴりっと凍りつく。

 今まで笑いさざめいていた紳士淑女が押し黙り、儀礼的な、取り繕うような笑顔を慌てて浮かべる。

 麗狂気がリムジンから降り立つと、すぐさま私的SPたちが周囲を取り囲むので物々しい。

 濫枒の周囲にいた恰幅の良い客たちが、こそこそと会話する。

「彼が、今売り出し中の麗狂気か。想像していたよりずっと若いね。まだ二十歳にもならない若造じゃないか」

「実質的に、今は彼が暗殺大群を仕切っているんだろう? トップのメインミーは彼に毒殺されたと聞いたことがある」

「でも、実子がいるだろう。メインミーの」

「リー・タオロンはだめだ、大幹部たちが誰も後見者になっていない。ということは、向いていないんだろうよ」

 畏怖と好奇心をこめたざわめきを気にかけることなく、絶世の美青年が優雅な足取りでホテルの中へ入り、濫枒たちのいるエントランスへ進んでくる。

 すらりと均整の取れた長身を、金糸刺繍の入った壮麗な長袍で包んでいた。

 少し離れたところにいる濫枒でも、彼が見事な黒髪の持ち主であることがわかる。

 頭の先から足の先まで隙がなく、まるで抜き身の武器の化身のよう。

 その場にいるすべての人間の注目を集める美青年は、そばに控えるドアボーイに高額のチップを無造作に与えた。

 麗狂気が視線を向ける先では、誰もが咄嗟に身を引いて場所を空ける。

 彼の邪魔をすることは、誰にも許されはしない――と。

 クンシでは、そんな暗黙のルールがあるようだ。

 帝王然とした振る舞いかたに、濫枒は軽く顔をしかめる。

 貴公子のような外見をしているのに、性格はまるっきり逆のように見える。

 ――あまり、話が通じる相手じゃなさそうだな。

 目の前を、SPたちに囲まれながら、麗狂気が通り過ぎていく。


 ところが麗狂気の背後に控える人影を見た瞬間、濫枒の表情は驚愕に染まる。

 隣で、久我も息を飲む。

「嘘だろ…………?」

 記憶にあるよりも背が伸びて、世の男性の平均くらいは余裕であるだろう。

 麗狂気がさらに背が高いので、ふたり並んで立つと非の打ちどころのない完璧な絵画のようだった。

 すらりとしたしなやかな立ち姿は、以前と変わらない。

 飾りの少ない、男物の長袍を纏い、わずかに紅を引いているらしい唇だけが女性的で、あとは中性的であることも、ちっとも変わっていない。

 怜悧な、何の感情も浮かべていない珊瑚色の双眸、短く肩の上で揺れる黒髪。

 麗狂気のそばに控えているのは、彼の毒華――そのはずだ。

 だから、ありえない。

 ありえないと思いつつ、その名を呼ばずにはいられない。



「珊泉……!?」



 三年前、死んだはずの珊泉が。

 そこにいた。

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