第15話 ヒガン炎上②
地獄絵図のような光景だった。
酒の上での乱痴気騒ぎだろうが、繁盛している店の金目当ての犯行だろうが、火事には注意を払う。それが、スラムシティのマナーである。
それでも毎年、ぼや騒ぎが起こらないことはない。
今夜はぼや程度では収まらず、あちらこちらで同時に火の手が上がる。
どんどん被害が広がっていき、あっという間に地区全体が火の海となった。
クラブ・シャングリラは木造の建物ごと炎上し、今も燃え続けている。
真夜中だというのに熱く赤く照らし出される中、メ組の組員たちは、方々で指揮を取っていた。
こういうときに誰よりも率先して動くのが、メ組の役目だ。
旧式の消防車が大通りの人間を跳ね飛ばしかねない勢いで走りすぎていくけれど、消化剤の備蓄が少なすぎて到底足りない。
騙し騙し使っている古い防火用水設備も、ここまでの火災の前では、ほとんど意味がない。
「風上へ逃げろ!」
「女子供は、早く避難所へ行け!」
メ組の組員たちは声を限りに走り回り、誘導する。
耐火仕様の消防服で防御した消防隊員たちが壁にもたれて座りこんでいたり、道端に倒れ伏している人間たちをひとりひとり確認して回る。
「トリアージ、黒!」
「こちらも黒!」
「こっちは赤だ……誰か、手ぇ貸せっ!」
災害時において、黒は生存が絶望的な状態を示す色、赤は生命の危機がある、ただちに救助が必要な状況の色だ。
この場にいる全員を、無事なまま助け出すことはすでに不可能――生きている人間を、優先して避難させなければいけなかった。
「こちらも黒、黒……おい、こっちの裏通りにも人がいるぞ!」
「そっちはだめだ近づくな、爆発するっ!」
悲鳴、そして断末魔。
阿鼻叫喚に包まれた夜。
悲鳴と怒号に大地が揺れる。
火傷と煤にまみれながらも濫枒はクラブ・シャングリラから脱出し、大通りの様子を見に駆けつけてきていた。
通りすがりに、足が萎えて動けなくなっている老人を見つけたので半ば強引に背負っている。
「ボス、良かった! 無事でしたか!」
組員たちが濫枒の姿を見つけて、息を乱し、疲弊しきった面持ちで駆け寄ってくる。全員埃だらけの煤だらけ、汗まみれだった。
この辺りはひらけているのと風上にあるのとで火の回りが遅い。
「あれ? 久我さんは?」
「あいつは沙羅たちを連れて一足先に避難所へ行った」
「沙羅姐さん、怪我したんすか!?」
「煙を吸って気絶しちまっただけだよ」
組員たちの無事な姿を見回して、濫枒は安堵した。
「お前たち、怪我ねえか」
大丈夫です、と皆が口々に答える。
「ひととおり、病人や子供連れなんかに声をかけて先に行かせました。動ける人間はとりあえず避難できたはずです」
声を枯らした組員の口調に、苦いものが混じる。
避難が間に合わず、すでに犠牲になった人間がいる――それを、運がわるかった、の一言で片付けてしまいたくはない。
組員のひとりの背中には、怯えて泣きじゃくる、火傷だらけの少女がしがみついていた。濫枒と同じように、通りすがりに保護してきたらしい。
濫枒は焼け焦げだらけの上着を脱いで、少女の身体にかけてやった。
そうしている間にも夜空に無数の火の粉が縦横無尽に飛び交って、肌も肺も焼け焦がしていく。
「大体が避難したなら、俺らもそろそろ逃げるぞ」
そう遠くない場所で、ひときわ大きな火柱が上がる。
どこからか、耳を塞ぎたくなるような絶叫が聞こえ――すぐに、聞こえなくなる。
大災害の前に、人は本当に無力だと痛感する。
「くそ……誰だか知らねえが、ヒガン一体焼け野原だ……!」
犯人が一体何者で、何のためにそんなことをしているのか――ということまで気を
回す余裕は、今の濫枒たちにはなかった。
「見つけたら、ただじゃおかねえっ!」
「ボス、俺らが最終確認して行きますから、ボスは先に避難所に」
「馬鹿野郎、お前たちこそ先に行け! こういうときに殿を務めるのが、俺の仕事なんだよ……!」
老人を無理に組員に託して、濫枒は逃げそびれている人間がいないか、火を避けながら走り回る。
どう、と火柱の燃え盛る凄まじい振動に鼓膜が揺れる、視界が焦げる。
生まれ育った街が無残に焼け焦げていくのを直視して、濫枒は悔しさに、爪先が食いこむほど拳を握り締めた。
人々でごった返す避難所では、濾過装置の水で建物ごと濡らして飛び火を避けたり、火傷した者の手当をしたりで皆が忙しく立ち働いていた。
大人も子供もひとかたまりになって、この火に怯えて身を寄せ合っているようにも見える。
ともかく、まともに呼吸ができるだけありがたい。
さすがの濫枒でも、肺の底まで煤が入りこんでしまったように焦げ臭くて息苦しかった。膝に手を置いて、ぜいぜいと呼吸を整える。
奥から、
「濫枒! 良かった、無事だったね。はいこれ、水」
彼も煤だらけで、服も焼け焦げだらけだ。
濫枒は受け取った水を口に含んで何度も吐き出した。
口と喉に絡まった灰を嗽で清めてから、改めてごくごくと水を飲み干す。
「あー……水が、こんなに美味いのは初めてだ」
唇を手の甲で拭い、濫枒は避難所の中を見回す。
ヒガン地区中の人間が集まったような避難所の中はごった返していて、人の顔を判別するのも難しい。
非常灯の明かりだけでは心許ないけれど、電線が焼け落ちたのでこれ以上明るくはできない。
今の薄明かりでさえ、非常電源を使っての応急処置だ。
穴だらけの衝立で区切ったスペースで、ドクターが重症患者の手当に当たっているようだった。
「……逃げ遅れたやつら、どれくらいいるんだろうな」
答える条の声も重い。
「今確認できてないだけでも、行方不明な人が結構いるから……これから、どんどん増えていくだろうね」
親が、はぐれた子供を必死に探す。
大切な存在を失った人が、天を仰いで泣き叫んでいる。その光景は、いつ見ても胸が痛い。
苦い顔をした濫枒は、少し奥まったところに固まっている久我たちの様子に気づいた。
「おい、あれどうした」
「ん? え、オレも知らない。どうしたんだろ」
ふたりして人波をかき分けて向かうと、久我が鼻先を真っ赤にして泣いている。
「久我、どうした!」
「ボス!」
他の男たちも全員目を赤くしていて、どう見てもただごとではない。
「ボス、ごめん……っ」
久我が項垂れ、大きくしゃくり上げる。
濫枒は即座に反応した。
「誰か怪我をしたのかっ?」
「違う……助け、られなかった…………っ、詠子さん……!」
「詠子が!?」
久我の背中を叩きながら自分も涙を流していた組員が、久我の代わりに力なく首を振る。
「詠子だけじゃないんです。本部にいた女性陣、全員です」
「全員!?」
今夜は常駐している詠子と知里のほか、夜の仕事をしている十人ほどが定期報告のために集まっているはずだった。
沙羅たちを避難所に運んだ久我は、女性陣がまだ来ていないことに気づいて、途中で行き会った組員たちと合流してすぐさま本部へ向かったのだという。
泣き崩れる久我を、濫枒は無意識のうちに手を伸ばして支えた。
大きな体躯が、ぶるぶると震えているのが伝わってくる。
「逃げ遅れてたら、大変だと思って」
駆けつけた先で見たものを、久我は今でも信じられない。
「本部は火だるまで、近づけなかった」
「久我さんがそれでも突進しようとしたんで、俺らで引きずって連れて帰ってきたんす」
もしかしたら行き違いになっただけで、もう避難所にいるかもしれない――淡い期待は、無残に打ち砕かれた。
詠子たちの生存が絶望的であることは、その場にいる全員が事実として飲みこんでいた。
「……遅かったか…………っ」
思わずよろけた濫枒の背後で、条も目の色を沈ませていた。
「あの辺り、火の手が上がるのが早かったみたいだからね……」
「早くに逃げられるよう、珊泉を走らせたはずだぞ。あいつは身軽で足が速いから」
食い縛った歯の隙間から呻いて、濫枒がはっと息を飲む。
「――珊泉は? どこだ?」
足が速いけれど、珊泉の左足はまだ治りきっていない。なにかの拍子に痛めてしまって、思うように走れなかったのかもしれない。
久我も、弾かれたように顔を上げた。
「そう言えば、どこにも……」
※
翌朝になってようやく火の手が弱まり、あちこちで埋み火だけが燻る。
煙たい空気が残り、屋根の軒先からは消火用水がぽとぽとと垂れていた。
神無月だというのに、霜が降りそうなくらい冷え込む、寒い朝だった。
入り組んだ路地のあちらこちらに、焼け焦げた遺体が見つかる。
生き延びた者たちがそれをひとりひとり見つけては荷車に積みこみ、弔いの場所へと無言で運んでいく。
白く薄い朝陽を浴びて、静かで痛ましい葬列が延々と続いた。
衝撃が大きすぎて、泣き叫ぶこともできない。
機械仕掛けのように表情を亡くし、操られているように遺体の発掘作業を続ける。
疲れてはいても、誰も、じっとしていることなどできなかった。
瓦礫の下に、大切な人たちが埋まっているかもしれないのだから――。
灰をかき分け、万が一にでも生存者がいるかもしれないと期待しては、打ちのめされる。
濫枒たちも、本部があったはずの場所で、半ば茫然としながら瓦礫の撤去作業に取り組んでいた。
「早いとこ見つけてやらねえと……っ、詠子さんたちが、かわいそう、だから……っ」
そうつぶやいた久我は、ぼたぼたと、男泣きに泣いていた。
頬についた大きな火傷のうえを、涙がつたって痛くてそれ以上に胸が痛い。
痛くて痛くて、気が狂いそうだ。
組員たちも泣きながら、あるいは泣かないように歯を食い縛りながら、昨日まで皆が集まっていた本部の残骸を片付けにかかる。
鉄筋の骨組みだけは残っているものが多いが、老朽化しているうえに延焼したから、このままにしておくのは危ない。
いつ倒れるかわからないような柱は引き倒し、その衝撃で灰が舞い上がる。まだ乾ききらない、じっとりと湿る灰が、爪先にも頬にもこびりついて不愉快だった。
燃え落ちた天井、階段、タンスや荷物、崩れ落ちた壁。
「どうして、こんなことに……」
誰かのつぶやきは、その場にいる全員の本音だった。
山積みになっている燃えかすを手を血だらけにしながら取り除いて、数人の遺体を探し当てる。
「……指輪が焼け残ってる。この指輪、詠子さんだ」
「こっちは……知里だな。服の残骸からして」
火葬場と違って火力が一定していないから、遺体の判別ができるのがせめてもの幸いだった。
「奥にもう何人かいる。火の手を避けようとしたのかなあ……この位置だと、皆、突き当たりの壁沿いに固まっていたみたいだ」
「先に窒息しちまうか誰かが怪我をするとかして、動けなくなったのかもしれない」
でも、おかしいだろう、とひとりが声を上げた。
「いくらなんでも、全員が焼け死ぬなんておかしい。誰かひとりくらい、逃げられたはずだ」
「消火器も、使った跡がない」
この街の人間は火災に慣れているから、ある程度の知識はある。
火事の場合、一番命取りになるのは煙だ。
煙を吸って意識が朦朧として動けなくなってしまうと、避難することが不可能になる。
気を失った身体を炎が覆い尽くし、発見されるころには黒焦げだけれど、一気に骨になるまで焼き尽くすわけでもない。
「火事にしても、延焼がひどい。直接、遺体を焼いたみたいな……」
「あとにしよう。まずは、弔ってやるのが先だ」
全員、亡骸に向かって合掌する。
「皆……助けられなくて、ごめんな……仇は、絶対討ってやるからな……っ」
「放火犯、見つけたらただじゃおかねえ……っ!」
無言で捜索を続けていた濫枒が、つと手を止めた。
「――いたぞ」
「ボス。今度は誰です?」
涙を乱暴に拭いながら集まってきた組員たちが、一様に息を飲む。
「……うあ……これは、ひでえ…………」
「直視できねえよ、これは……」
珊泉と思しき亡骸は一番延焼がひどく、はっきり言ってもとの姿を留めていなかった。
久我が震えながら手を合わせる。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ……成仏してくれよ、珊泉……っ」
「やっぱり珊泉も、ここに来ていたんだな」
「本部が焼け落ちていたんなら、珊泉だけでも逃げてりゃあ、こんなことにはならなかっただろうに。かわいそうなやつだったなぁ。結局素性がわからないままだ」
「無縁仏として、うちで葬ってやろうぜ」
「畜生、どこのどいつだよ、ヒガンを丸焼けにしやがって!」
濫枒は、なにも言わない。
ただ立ち尽くし、華奢な骨格と、それを包む焼け焦げた衣服の残骸を目に焼きつけようとするかのように視線を凝らしていた。
その濫枒の視界の隅で、なにかがきらりと朝陽を弾く。
炭化した焼け焦げの中にあったもの――拾い上げて灰を落とすと、それは一対の耳飾りだった。
「――珊泉のだ」
いつも、あの黒髪の合間で揺れていた耳飾りだけが、熱で歪にゆがみながら残っていた。
それだけだ。
それ以外、何も残っていない。
頼りないくらい細い骨が横たわっているだけ。
「珊泉…………!」
濫枒が、がくりと膝をつく。
あまりにも残酷な現実を突きつけられて、呻くことしかできない。
謎めいた少女だった。
強いくせに、儚げで。
どんな事情があってあんな目に遭わされたのか、記憶を失ってしまったのか。
素性を探って、手助けをしてやりたかった。
ずっと――そばに置いておきたかった。
濫枒の望んでいたことが何ひとつ叶わないまま、珊泉はもうこの世にいない。
「畜生……畜生…………っ」
濫枒は瓦礫に額を押しつけ、獣のように咆哮する。
朝陽がきらきらと辺りを照らすことさえ、忌々しい。死者はもう、二度と朝の光を見ることさえできないというのに。
哀切な呻き声が、辺り一面焼け野原となったヒガン地区中に響き渡った。
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