第14話 クラブ・シャングリラ④―ヒガン炎上

 濫枒が素早く立ち上がり、ドア枠から廊下を覗く。

 店内に設置された火災報知器の警報だ。

 年代物の報知器が、自棄になったように、長く大きくベルを鳴り響かせる。

「ボス、大変だ!」

 久我が、一階から駆け上がってきた。

 きな臭い匂いが立ち上って、珊泉が軽く咳きこむ。

 階段下からも、手すりに乗り上がるようにして沙羅が叫んだ。

「ちょっと、濫枒! どっかの馬鹿が、火ぃつけて逃げていったわ! 何人かいたみたいだけど、捕まえ損ねたわ畜生!」

「あ!? どこの馬鹿だ!? そんなことしやがったのは」



 濫枒の顔つきが、一気に緊迫した。

 駆け下りる勢いで一階に降り、珊泉と久我もあとに続く。

 一階部分はすでに煙が充満し、酔いの醒めた客が右往左往していた。

 火の不始末やら放火やらで数年に一度は火災に見舞われるスラムシティだが、ろくな防火設備は整っていない。

 前時代的な防火装置しかないので、火事となったら、まず逃げるのが先決だ。

「今夜は風が強いから、まずいよね」

 久我の独り言のようなつぶやきに、濫枒が答える。

「空気が乾いているから、あちこちに飛び火するかもしれねえな」

 ぼん、と何かが爆発したような振動に、空気が揺れる。

 客たちは一階の中央付近に集まっているだけで、誰も外へ出て行かない。

 ドレスの裾を威勢良くたくしあげた沙羅が、苛立ったように叫んだ。

「ちょっとあんたたち、早く避難しなさいよ! なにグズグズしてんだい!」


 そこで、濫枒たちもようやく異変に気づく。

 入り口のドアが炎に包まれ、炎上していて触るどころか近づくこともできないのだ。

 沙羅が青くなって目を瞠る。

「ちょっと……! ドアが燃えてたら、逃げられないじゃないのよ!」

 そばにいた客たちは全員、上着を使ったりして必死に火を叩き消そうとするが、勢いが良すぎて火はますます強く、大きくなっていく。

「火の勢いが強すぎねえか」

 たった数分のできごとにしては、火の回りが早すぎる。

 濫枒の声に、そばにいた客が大声で応じた。

「客のふりして潜りこんでいた数人が、ドアにも床にもなんか薬品ぶちまけていきやがったんだ――このままだと、まずいぞ!」

「顔見たか?」

「ああ。だが、この辺りじゃ見かけねえやつらだった……!」


 半泣きの店員が数人、沙羅のもとへ駆け寄ってきた。

ねえさん! だめだ、裏口も窓も、全部外から打ちつけられていて開かない! 出口はこのドアだけだ!」

 そうこうしている間にも火が燃え移って、床を、ちろちろと炎が這い広がっていく。

「厨房には予備の油がいっぱいあるのよ! あれに火がついたらまずいわ!」

 女たちが悲鳴を上げて消そうとするが、薬品を使われたとなると、簡単には消火できない。

 もくもくとした煙が目にしみ、珊泉が腰を折って激しく咳きこむ。

 もはや、一刻の猶予もない――濫枒は顔つきを引き締め、厨房へ走った。



「水どこだ!」

「ダメだ、あれに水なんか撒いたら火柱立つぞ!」

「違えよ!」

 叫んだ濫枒に、久我が続く。

 厨房に飛びこみ、桶をひっつかんで水を被る。

 久我もびしょ濡れになってから、燃え上がるドアへ一直線に突き進んでいった。

「退けーっ!」

 ふたりがかりで体当たりし、燃えるドアの片隅に突破口を作ろうと試みる。

 金属部分は相当の熱を持っていて、触ることができない。

 けれど。

 火を放ってからドアまで釘で塞ぐ時間の余裕はなかったはずだし、ひとが通れる隙間さえ空けてしまえば、という算段があった。

 がっしりした重厚な造りなので多少のことではびくともしないが、今は木でできた大部分が燃えて弱っている――今なら、なんとかなる。

 いや、なんとかする。

 してみせる。



 濫枒たちの肌が、髪が焦げる。

「私も」

 続こうとした珊泉に向かって、濫枒が怒鳴る。

「馬鹿野郎、それより水持ってこい!」

「わかった!」

「おい、俺らも続くぞ!」

 客たちが同じように水を被り、濫枒たちと一緒になって肩を使って突進する。

 珊泉は火の粉の舞い散る中、店員たちと一緒になって桶で水を運び、濫枒や久我たちにざばざばとかけ続けた。

「もう一息だっ! 行くぞ久我!」

「うっす!」

 数人がかりで力任せに押し続けて、ドア枠が軋んだ。

「せーのっ!」

「よし、開いた……っ!」

 あちこち焼け落ちながら、ドアの残骸が道路側に落ちて倒れる。

 外の新鮮な空気が入りこみ、店内の火が一気に強くなる。

 


 すでに店内では数人が、息苦しさに蹲っていた。

「珊泉、お前は先に行け! 本部に走って、近隣の人間全員避難させろ!」

 店内の客を外へ逃がしながら、濫枒が鋭く指示を飛ばす。

 シャングリラの周辺は、火の匂いを察知してすでに騒然としていた。

 久我は煙を吸いこんで咳きこむ沙羅を肩に担ぎ上げ、腕にも意識のない男を抱えて外へ連れ出そうとしているところだ。

 こういう役割は、力自慢の久我のほうが向いている。

「俺らは、こいつらを全員避難させてから避難所へ行く――本部は風下にあるから、逃げ遅れたら大変なことになる。行け!」

「わかった……!」


 珊泉が、低く身を屈めて飛び出す。

 黒い闇を、紅が焦がす。

 珊泉は粉塵と火の粉が舞い散る夜の中を、ひた走りに走り出した。


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