第13話 クラブ・シャングリラ③

「珊泉お前、なにか、新しいこと思い出せたか?」

 毎日根気強く尋ねられて、珊泉は、思い出せる限りのことをぽつぽつと語るようになった。


 酒は一滴も飲もうとしないので水を飲みながら――スラムシティでは、こんなふうに飲酒年齢を守っている人間はとても稀少だ――、重い口を懸命に動かす。

 ぶっきらぼうな喋り方をするわりに、そういうところは本当に律儀だった。

「『目が覚めたら、目の前にいる男を殺せ』と言われた……ように思う」

「そりゃまた、なんつーもんを思い出したんだ」

 ただ、もともとが無口なせいもあるのか、話す内容は断片的で、お世辞にもわかりやすいとは言えなかった。

 それにしても、なんという物騒な話だろうか。

 濫枒は渋面を作って、先を促した。

「お前も、素直に従うんじゃねえよ。大体それ、誰に言われたんだ?」

 言われたからには、言った相手が誰か、確実にいるはずだ。

 濫枒がそう指摘する。

 珊泉が記憶をたどるように眼差しをさまよわせ、それから、首を横に振る。

 お手上げらしい。

「わからない。私の気のせいかもしれない」

「いや、たぶん正解だろう。実際お前、あの朝飛びかかってきたからな。そうか、そんな命令されてたのか」

「それも、何度も聞いたが……覚えてない」

「全身傷だらけなのに、ばねみたいな勢いで襲ってきた。どう見ても、素人の身のこなしじゃなかった。骨折してるくせに躊躇なく動くから、こっちが冷や汗かいたんだぜ?」

 その結果、怪我がますます悪化して、しばらくは起き上がることもできず寝たきりの生活を送る羽目になった。

 怪我がある程度回復して以降の出来事なら、珊泉もしっかり覚えている。

 記憶力自体に問題があるわけではないのだ。

「……」

 唇を引き結んでしまった珊泉の頭を、濫枒はぽんぽんと叩く。

「まあ、焦らず、ゆっくり思い出せばいいさ。それで、思い出したことは何でもいいから教えてくれ」

 

 珊泉は濫枒の手をいやがることなく、黒髪を揺らして頷いた。

「いろいろ動き回るから、お前の左足、まだ完治していないんだって? やっぱり用心棒なんてやらせなきゃ良かったかな」

「ときどき痺れて力が入らないことがあるだけだ。骨はもうくっついているし、治った」

「それは、治ったとは言わねえんだよ」

 濫枒は、長い腕の中に珊泉の小さな頭を抱えこんだ。

 珊泉に対しては、ついつい、弟のように構う癖がついてしまったようだ。

「お前の怪我が治らないと、詠子が泣くぞ。あいつは世話好きの心配性だから」

 詠子は、スラムシティの外の生まれだ。

 ヒガン地区に流れ着いた他の女性たちと同様に、彼女も、重い過去を持っている。

「あいつの子供も、生きてりゃお前くらいだろうから」

「……子供?」

 三十代後半くらいに見えるので、子供がいてもおかしくはないのだろうけれど。

 珊泉は今まで、詠子の家族らしき人間など見たことも聞いたこともなかったから、てっきり独身だと思っていた。

「十代のころに、ひとり産んでるらしい」

  濫枒が、並んで座った長椅子のうえで足を組み替える。

「……事故だったかな。それで子供を亡くして心を壊して、ヒガンまで流れてきた。ビルから飛び降りようとしているところに偶然俺の親父が居合わせて、メ組に連れてきたんだ」

 そういった意味では、お前と同類かな、と濫枒がつぶやく。

「まあ、この辺りには訳ありの人間しかいねえから、珍しい話でもねえけどさ」

 明るく優しい微笑みを浮かべながら詠子がどこか儚げに見えるのは、そういった事情があるせいか、と珊泉は納得した。

「せいぜい、世話を焼かれてやってくれ。詠子、お前と一緒にいると楽しそうだから」

 そのとき、廊下側から耳障りな音が響き始めた。

「なんだあ? 非常ベルか?」

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