第12話 クラブ・シャングリラ②

 数日後の夜、クラブ・シャングリラに濫枒らんげが姿を見せた。

 メ組の頭である濫枒は、ヒガン地区のいたるところにある店に顔を出し、睨みを効かせるのも仕事のうちだ。

 そういう場所で、用心棒や力仕事担当として組員が働いていることも多い。


 しばらくの間店内の様子を見たあとで、濫枒はひとけのない二階の突き当たりにある個室に通された。

 密談に使われたり、逢い引きに使われたりと用途の広いこの階の部屋は、つるつるとした手触りの天幕でいくつかのスペースに仕切られている。

 廊下に面したドアは、ドア枠しかない。以前どこかの酔っ払いが蹴り破って以来、修繕していないのだ。

 おおらかといえばおおらか、大雑把といえば大雑把なのが沙羅らしい。

 ヒガンの店はどこもこんな感じだ。



「沙羅のやつ、一体何の用事があるってんだ?」

 話したいことがあるからと奥に通されて、もう随分になる。

 沙羅の手が空くまで待っているしかない濫枒の前のテーブルには、酒や酒瓶、つまみの皿などが山積みになっていた。

 背もたれのない長椅子にどっかりと腰かけ、適当に飲んで待っていると、久我くがが珊泉を連れて入ってくる。

「ボス、珊泉がちょうど休憩時間なんで、連れてきた。沙羅はまだちょっと時間がかかりそうだってさ」

 濫枒は座ったまま、ふたりを迎えた。

「おう。お疲れさん。ここの仕事もすっかり慣れたみたいじゃん」

「さっきも報告したとおり、すげえ美貌と腕っ節の用心棒がいるって、もうヒガン地区の有名人になってるよ。何しろ腕が立つもんな、わかる」

 珊泉は変わらず無表情のまま、室内の拵えに珍しそうに視線を巡らせている。

 仕事中は一階にいるので、個室の中を見るのは初めてらしい。

「珊泉見たさにクラブ・シャングリラに来る新規も多いとかで、沙羅がめっちゃご機嫌だってさ。できればこのまま、珊泉に用心棒を続けてほしいんじゃないかな?」

「ああ、俺に用事があるっていうのはその話かもな」

 濫枒が納得した。

 メ組はヒガン地区の平和を守るために力を貸しているだけで、特に沙羅と個人的に話すようなことは別にないのだ。

「どうする? 珊泉がいない間の本部は、詠子さんたちが留守番してるけど」

「そうだなあ……ここに住みこみって訳でもないだろうし。夜の数時間だろ。珊泉次第かな」

 珊泉に視線を向けると、自分が話題の主になっているとは気づかなかった珊泉が、静かに振り向いた。

「うーん、見れば見るほど黒猫だ。条の言ってたとおりだね、ボス」

 久我が笑って、片手を上げる。

「そんじゃ俺はとりあえず、珊泉の代わりにしばらく一階に降りておくんで。珊泉も一息入れな。ボス、あとはよろしく」

「ああ、わかった」




「急に、用心棒役なんて頼んで悪かったな。ここはうちが直接関わってる店じゃないんだが、用心棒やってるやつが急に姿を消しちまったせいで、手ぇ貸してくれって泣きつかれたんだ」

 いつもならメ組の誰かが代理で入るのだけれど、生憎とここ数日皆忙しくて、手が空いているのが珊泉しかいなかった。

 誰にでもできる仕事ではない。

 濫枒としても、実際迷ったのだ。

 用心棒を務めるには珊泉は年齢が若すぎるし、意思の疎通もあまりできない。

 その代わり、腕前は折り紙つきだ。

「だいぶ噂になったようだが、それもまあいいだろ」

 中性的な美貌と、圧倒的な武力の持ち主。

 特徴がありすぎるので、噂はかなり広範囲まで届きそうだった。

 スラムシティはたいして噂好きな土地柄ではないけれど、物珍しい話題ならそれなりに広がる。

「お前を探しているやつらがいたら、噂を聞けば絶対にわかるだろうし」

 そういう意味でも、用心棒役を引き受けてくれたことは幸いしているかもしれなかった。

「だけど、いやなら別に無理しなくていいんだぞ? お前人付き合いが下手だし、沙羅とか遠慮がねえからな。困ったことがあったら俺に言え」


 しぐさで、隣に座るようにと誘う。

 すとんと腰を下ろした珊泉は、短く答えた。

「――別に、無理はしてない」

 仕事で他人と交わるようになったせいか、このところ、さらに言葉数が増してきた珊泉である。

 酒場の喧噪も、二階にいると少し遠い。

 あちこち割れたままのシャンデリアが頼りなく照らす室内で、濫枒はおもむろに、テーブルのうえの果物籠に手を伸ばした。

 小ぶりの林檎を手に取り、珊泉に放り投げる。

「林檎、好きだろ? あと何か飲むか。腹が減っているなら、つまみを適当に食べればいい。この量は、俺でもさすがに多すぎるわ」

 濫枒が、テーブルを指さして苦笑する。

 クラブ・シャングリラ自慢の料理がずらりと並んでいる。

 上流階級の人間たちは栄養も風味もすべてが完璧に整えられ、万が一にも『クエイク』に感染しないよう、清潔に処置された調整肉や無菌野菜などしか口にしないと聞く。

 一方スラムシティのような場所では、昔ながらの肉類や、型崩れした野菜に消費期限が切れたお流れの調整食品がメインの食材だ。

 海産物もウイルス汚染が心配されているから、金持ちたちは決して食べようとしないのだという。

 貧しい人間はそんなことを言っていられないから、危険と隣り合わせだと知りつつも口にするしかない。


 乏しい食材を駆使して、クラブ・シャングリラでは魚の揚げ煮や獣肉の煮込みなど、おいしい料理を安価で提供している。

 それも、この店の人気の秘訣だ。

「もう深夜だってのに。沙羅のやつ、余った料理を全部俺に押しつけてんじゃねえだろうな」

 ふたりとも、別々にではあるが夕食は済ませている。

 夜食にするには、多すぎる量だった。

「仕方ねえ。残りは包ませて、土産に持って帰るか。明日にでも、誰かが食うだろう。知里なんかは見た目は細っこいけど、よく食うし」

 料理を廃棄するなんて、ヒガン地区ではあり得ない話だ。

 残り物でも調理し直して、一口も無駄にしないのが、貧しい街なりの流儀である。

 林檎を両手で大切そうに抱えた珊泉が、ぽつりと口を開いた。

「――ここの食事は、私も美味しいと思う」

 当初はほとんど食事を摂らなかった珊泉も、このところ食欲が出てきたようで、時に驚くほど食べることもある。

 果物では、特に林檎が好きなようだ。

 林檎をひとつ取って、濫枒も勢いよくかじりついた。

 濫枒がなにかを口にしてからでないと、珊泉が遠慮して口をつけないことを思い出したからだ。

 小ぶりの林檎は実が固くて、囓ると口の中で実がしゃりしゃりほどける。

 甘酸っぱく爽やかな香気が、辺りにぱっと広がった。

「お前も食べろよ」

 珊泉もこくっと頷いてから、すい、と手を上げ、唇に林檎を寄せる。

 ほんの数口で林檎を食べ終えてしまった濫枒は、ついでとばかりにもうひとつ手に取った。

「珊泉。お前ももうひとつ――」

 言いさして、濫枒は口を噤んでしまう。

 珊泉は林檎をかじっているだけだというのに膝をきちんと揃え、背筋もぴんと伸びているから、やたらと上品に、躾が行き届いた両家の子女のように見えた。

 

 けれど――何気なく見たその横顔は。

 濫枒が、初めて目にするものだった。


「…………っ」

 溢れる果汁でわずかに濡れた唇が、シャンデリアの光を受けてほのかに煌めく。

 その昔、創世主の言いつけに背いて禁断の果実を手にしてしまった女も、こんな恍惚とした、蠱惑そのものの表情を浮かべ林檎を味わっていたのではないだろうか。

 濫枒が息を飲んでいることに気づかず、珊泉が再び林檎に小さな歯を立てる。

 唇から零れる果汁を、赤い舌がぺろりと嘗め取る、その艶めかしさ。


 年齢にそぐわない、圧巻の艶やかさだった。

 こんな場末の酒場には、到底似つかわしくない。

 濫枒が、目を瞑って軽く首を振る。

「珊泉、お前」

 しゃくしゃく、しゃくしゃく。

 次の瞬間には、珊泉はいつもより無邪気な様子で、美味しそうに林檎を囓っていた。

 ゆっくりと咀嚼する音は健康的で、先ほどまでの妖艶さはどこにもない。

「……? 何だ?」

「いや……何でもねえ」

 濫枒は毒気を抜かれて、林檎に囓りついた。

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