第8話 事務所本部①
本部に戻って落ち着いた詠子が説明するには買い物の帰り、持ち金を狙う三人組にうっかり絡まれてしまったのだという。
その手の騒ぎは、ヒガン地区では日常茶飯事だ。
大抵は、拳で解決する。
強いほうが勝つのが道理。
詠子たちメ組の女性は、暗くなったらひとり歩きはしないよう心がけているのだが、今日はまだ時間が早いこともあって油断していたらしい。
「ごめんなさい。充分警戒していたつもりだったんだけど……」
「詠子さん、ああいう場合は、持ち物全部投げつけてでも逃げろっていつも言ってんでしょ?」
「ええ……いつもならそうするけど、今日は大切なものを買ったばかりだったから……」
「なにを買ったの?」
詠子が久我に向かって、大事そうに持ち帰った布包みを開いて見せる。
「珊泉にね。必要な品がなにもないのはかわいそうだと思って、少しずつ買い集めていたの」
メ組に厄介になっている立場の珊泉は、着替えどころか、飲み物を入れるカップひとつ、自分のものは持っていないのだ。
小さな淡い色のカップに、専用の箸。
携帯できる大きさの手鏡にヘアブラシ。
「珊泉て、シンプルなデザインのほうが好きそうだから。私の持ち物だとゴテゴテしすぎている気がして、譲ってあげられないものばっかりだったし」
小さな包みなのに、次から次へと品物が飛び出してくる。
「それから、これ」
詠子が、小さなチューブに入った塗り薬を取り出す。
「打ち身によく効くの。青あざになったところと、骨折した場所に塗るといいと思って」
荷物を覗きこんだ知里が、納得して頷いた。
「詠子、それを買いにわざわざ闇市に行ったのねえ。その薬、表にはなかなか出回らないもんね~」
久我が、やれやれと肩を竦める。
「……ま、詠子さんにも怪我がなくて何より。被害も未然に防げたみたいだし?」
「あいつらも驚いたんじゃなーい? 詠子にちょっとちょっかい出しただけのつもりが、一撃で追い払われたんだもん」
詠子、知里、久我。
本部に屯している面々が、冗談めかして笑う。
それを横目に、濫枒は腕を組んで、ずっと黙っていた。
彼らは珊泉の実際の戦いぶりを見ていない。
詠子も濫枒の背中に庇われていたので、珊泉の変貌ぶりをはっきりとは見ていない。
駆けつけたときにはすでに終わっていたのだ。
だから、のんきなものだった。
彼らも、あのときの珊泉を見たら戦慄したはずだ。
現に、濫枒の胸の中には今も衝撃が強く残っている。
――あの、眼。
濫枒が止めなかったら、珊泉は間違いなく相手を傷つけ、最悪、殺していたかもしれない。
氷雪のような殺気が忘れられない。
たかがごろつき程度に、あそこまで殺気を剥き出しにするとは思わなかった。
――やっぱりこいつ、いろんな意味で只者じゃねえよな……。
「ね、ボス? これに懲りて、二度と馬鹿な真似しなきゃいいわよね」
知里たちは、わいわいと盛り上がっていた。
「あ? ……ああ、うん」
こういうとき、珊泉は話の輪に入らない。
大抵は和やかに会話する面々を見渡せる場所、入り口のドア枠近くに、腕を背後に回し、真っ直ぐな植物のように静かに佇んでいる。
今は少し違い、まだ落ち着かない様子で、時折視線をきょろきょろと動かしている。
引きずられるようにして本部に戻ってきたものの、まだ先ほどの名残が消えていないのだろう。
「なんにしても、珊泉のお手柄だよ。な? 珊泉」
久我がにこにこしながら話を振っても、当の本人は黙って軽く目を伏せるだけだ。
詠子が、申し訳なさそうに眉根を寄せて椅子から立ち上がった。
珊泉の前まで行き、その端麗な顔を見上げる。
小柄な詠子より、成長途中の珊泉のほうが背は高い。
「珊泉も、迷惑かけてごめんなさいね。助けに来てくれてありがとう。あんなに動いて、足、大丈夫だった? ちゃんと薬塗ってね」
怪我の手当から着替え、食事など、珊泉が起き上がることもできない間の世話を一手に引き受けていたのは詠子だ。
その詠子に対しても、珊泉は今まで、一度も声を聞かせていない。
人慣れしていない黒猫は、優しく世話をしてくれる相手にどう接したらいいのかわからなくて後ずさりするしかないのだ。
うっかり、鋭い爪でひっかいてしまわないように。
うっかり、傷つけてしまわないように。
メ組の面々は、それを少しずつ理解してきていた。
人との接し方がわからないだけで、珊泉に悪気はないのだ。
「それにしても珊泉、あなた、すごく強いのね。格好良かったわ」
詠子が、にこっと微笑む。
珊泉はしばらく硬直していて、かなり躊躇った挙げ句、顔をふいっとそらして短く口を開いた。
「……無事で、良かった」
知里が驚いて椅子から立ち上がる。
「……わーお! 珊泉が、ボス以外の相手に喋ったー!」
「嘘だろ、おい! 俺、珊泉は絶対喋らないほうに皆と賭けてたんだよ~……」
「うっふっふ、私の勝ち! 約束どおり、明日のお昼おごって! 中華が良い!」
本部中が大騒ぎになり、わっと明るい笑いがさざめく。
その様子を、濫枒は目を細めて見守っていた。
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