第6話 二か月後・ヒガン地区にて②

 思わず空を見上げると、珊泉がぴく、と反応する。

 視線だけで、何でもない、と答えながら、濫枒は迷っていた。 

 怪我がある程度治った時点で、珊泉を放り出すべきだと――久我たちは、そう主張していた。

 久我たちにとって、覚醒するなり襲いかかってくるような物騒な人間を、濫枒の手もとに置いておくわけにはいかないのだ。

 もちろん、メ組本部以外で珊泉の世話を引き受けてくれる先を用意したうえでのことだ。

 そうすれば、濫枒がのちのち寝覚めの悪い思いをすることもない。

 一方、詠子たち女性陣は当初から珊泉に好意的で、今もあれこれと面倒を見ている。

 濫枒としても、拾ってきた立場上、おいそれと追い出す気にはなれなかった。

 面倒を見切れないのなら、最初から手出しするべきではないのだ。

「そう言や、まだ、避難所の場所を教えてなかったっけ」

「避難所?」

 瓦礫だらけ、砂利だらけの道を物音ひとつ立てずに歩くのは、実は案外難しい。

 けれど珊泉は常にしなやかに、気配すら殺して歩く。

 その足取りは、猫のようだった。

 綺麗な黒猫。

 サファイアの耳飾りが、黒髪の間で揺れている。

 土台は銀、それに深海のような色の石を嵌めこんだ精緻な造りの耳飾りだ。

 血だらけになった例の長袍も処分してしまったから、記憶をなくす前の珊泉の手がかりになりそうな品はこの耳飾りしかない。

 耳たぶに穴を開けて通すタイプのこの耳飾りを、珊泉はずっと着けている。

 繊細な飾りでよく似合ってはいたが、どこかの組の紋章を彫ってあるとか、そういった類のものではない。

 ぱっと見でもわかるくらい綺麗なサファイアで、それがこの若さで似合っているというのも、考えてみればおかしな話だった。


「ああ。火事や地震なんかで避難することになったとき、この地域の連中が集まる場所。ささやかだが食糧や必要なものを備蓄してあるし、発電キットも水の濾過装置もある。道順を教えておくから、覚えておきな。よそ者が入りこめないよう入り組んだ場所にあるから、ややこしいんだけど」

 濫枒の視線の下で、珊泉が頷く。

「物質を略奪されないように、わざと入り組んだ場所にしているのか」

「ああ。そういうことは、わかるんだな」

「常識だろう」

「そうでもないさ。その年齢なら尚更」

「……そうか」


 華奢な骨格をしているが、その実、珊泉の身体はとてもよく訓練されていた。

 筋肉が発達しているし、体力があって、回復も普通の少女よりはるかに早い。

 手足が長くて細いのに肩幅はあって、そのせいでか、頭の小ささがものすごく際立つ。

 大人でもなければ、丸きり子供でもない。

 男でもなければ、成熟した女でもない。

 短く切った髪に、まだ女性特有の丸みを帯びていない中性的な体つき。

 日頃荒々しい男たちに囲まれ慣れている濫枒としては、あどけなさと妖艶さを併せ持っている珊泉は、まったく不思議な生き物に見えた。

 今はまだ子供だが、数年経ったら――数多の人間を狂わせることになりそうな、そんな底知れぬ妖しさに、軽く戦慄する。


「なあ。聞いていい? 記憶がないってどんな感じ?」

 デリケートな問題なので今まで誰も言えずにいた疑問を、濫枒は無遠慮を装ってぶつける。

 こういう話は秘密がある程度守られる本部でするべきなのかもしれないけれど、本来濫枒は思い立ったが吉日、思いついたら即行動の男だ。

 珊泉は一瞬だけ間を置いて、それからさらりと口を開いた。

「わからない」

「お前、自分が誰なのか興味ないの?」

 珊泉が、少し考えこむように首を傾けた。

 路地裏を吹く秋の風が、ふたりの間を吹き抜けていく。

「お前自身の記憶が戻る気配も今のところないし、お前を家族や知り合いが探しているような情報も回ってこない。そういうのって、不安にならねえ?」

 珊泉は、凜とした眼差しを宙に向けた。

 常にまっすぐに背中を伸ばして、毅然としている。

 左足首を引きずっていても、頭の包帯が取れる前も、珊泉はだらしない姿勢を取ったことがない。

 ――珊泉に、行儀を躾けた人間がいる。物騒な点はともかく、こいつは、相当大切に育てられた人間だ。

 なんとなく、珊泉はスラムシティの生まれではないのかもしれない、と思う。

 最低限しか教育を受けていないスラムシティの人間と違い、礼儀作法までを完璧に躾けられたような、上流階級独特の雰囲気があるのだ。

 ヒガン地区で生まれ育った輩に、そんな上品な人間はいない。

「と言っても、この物騒さはこっち側なんだよなあ……」

 濫枒が、口の中でもごもごと独りごちる。


 珊泉は小さいながらも、再度、きっぱりとした声で答えた。

「わからない」

「なんで? 家族が心配してるだろうとか、会いたいとか思わねえ?」

 家族、と珊泉が繰り返す。

「――いたら会いたいと思うものなんだろうが、そういう気持ちも沸いてこない」

 たとえ天涯孤独の身にしたって、知人の数人くらいはいるものだ。

 そういう人物の気配も、珊泉の回りには現れない。

「わからないというより、自分に興味を持てない」

 あまり多くを語らないけれど、珊泉の言葉は力強く、迷いがない。

「ふうん。そういうもんなのかねえ……?」

 秋になって、日暮れがぐっと早くなった。

 夕方の気配がしたかと思うと、あっというまに暗くなってきてしまう。

 珊泉はくるりと踵を返して、メ組本部へと歩き出した。

 今の彼女が帰る場所は、そこしかない。

「お前が名前をつけたから、私は珊泉だ。それでいい」

 ハスキーな声は、抑揚もない。

 強くしなやかに見える反面、この少女はひどく脆いのではないかとふと思って、濫枒は急ぎ足で彼女のあとを追った。

「おい、珊――」

 黄昏時の静けさを突き破るように、硝子が割れる派手な音が届く。

 そして、女性の悲鳴。

「あ?」

「――あの声」

 濫枒が反応するのとほぼ同時に、少し重心を落とした珊泉が、素早く走り出していった。

 同じように地面を蹴って、濫枒が叫ぶ。

「おい待て、その足で走るんじゃねえ!」

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