第5話 二か月後・ヒガン地区にて

 スラムシティに涼しい風が吹き始めたかと思うと、あっというまに肌寒い日々がやってきた。

「さて、と。珊泉さんせんは、今日はどこまで行ったんかな」


 今は神無月じゅうがつ――濫枒が例の美少女を保護した夜から、もう二か月近くになる。

 推定十五歳、記憶喪失の怪我人をまさか、そのまま放り出すわけにもいかない。

 濫枒は結局、そのまま怪我が治るまで、なにか手がかりになるようなものを思い出すまで、と思いながら、ずるずると彼女をメ組本部で居候させていた。

 当面の呼び名が必要だということで、珊瑚色の目の色と、弟の名前から一文字取って『珊泉さんせん』と名づけたのも濫枒だ。

 風年劣化と度重なる延焼に耐え、今にも崩れそうな建物と建物の隙間、じめじめとかび臭い路地裏に華奢な人影を見つけて、濫枒は少し苦笑いした。

 メ組を統括する立場で多くの人員を抱えているし、働き口を世話してやることも多い。

 それでも正体不明の未成年の保護者をわざわざ買って出るなど、自分は相当なお節介だ、と思いながら。


                  ※


 まっすぐに、すっと直立した人影が、じっと周囲を観察している。

 その周囲だけ清々しい空気が満ちているような、不思議な清潔さを従えて。

 濫枒がわざと足音を立てて近づいていくと、一瞬だけ警戒した美少女が、緊張を解いて振り向いた。

「おい。詠子が、薬の時間だって言って探していたぜ」

 当面の着替えは詠子や知里が用意していたのだけれど、女物の衣服は性に合わないのか、着替えさせてもすぐに脱いでしまう。

 そのため、珊泉が最近着ているのは濫枒のシャツにボトムだ。

 サイズは非常に大きいが、他に適当なものがないので袖をめくりあげ、ボトムはウエストを締め上げてなんとか着ている。

 というより、服に着られているような有様だった。

 それでも持って生まれた清々しい美貌は損なわれず、むしろ妖しい色香を増している。

「寒くねえの? 何か羽織ったら?」

 濫枒の屈託ない言葉に、珊泉は少し間を置いてから、ゆっくり口を開く。


「――動きにくいのは、困る」

 声は少女にしては低くハスキーで、少年にしては高い。

 基本的に無口で無表情で、なにを考えているのかわからない。

 珊泉がどうして男装していたのか、どうしてあのとき濫枒を襲撃したのか、本人が記憶を失った今となっては、すべてが謎のままだ。

 珊泉は自分がどうしてメ組にいるのかという経緯も知らないし、生まれも年齢も、なにも覚えていなかった。

 瀕死の重傷を負って倒れていたのだという事実も、濫枒たちに聞かされてようやく理解したくらいだ。

 濫枒に対して殺気を見せることも綺麗さっぱりなくなったが、時折、身体のほうが本能的な反応を見せる。

「左足首、骨がやっとくっついたばかりだろ? まだ引きずるんだから、あまり遠くへは行くな。無茶ばっかりしてると、またドクターに怒られるぞ」

 濫枒の言葉に、珊泉が黙ってこくりと頷く。

 自分からあまり進んで喋ろうとしないが、このとおり、基本的なコミュニケーションは取れるようになってきた。

「治りきるまでは杖を使えって、散々言われているのに使わないし」

 濫枒にからかわれて、ほんの少しだけばつが悪そうに、珊泉が視線をそらした。

 どうにも邪魔になるようで、珊泉は杖を使いたがらない。

 だぶだぶのシャツの中で華奢な身体が泳ぐのが、目の保養なのやら目の毒なのやら。

 苦笑した濫枒は手を伸ばして、艶々とした黒髪をわしゃわしゃと撫で回した。

 ようやく傷が癒えて、頭の包帯は数日前に取れたばかりだ。

 まっすぐで癖のない黒髪は、触り心地が良い。

「着替え、俺のお古だとやっぱりでかかったな。行商人が回ってきたら身体に合わせて新調してやるから、もうしばらくの辛抱だ」

 それにも珊泉は言葉ではなく、ただ頷くだけで返事をした。

「詠子たちは、お前を飾り立てたくて仕方ねえみたいだけど?」

 それに対しては、首を横に振る。

 無愛想で、孤高。

 美しいぶん硝子でできた人形のように硬質で、他人を寄せつけない。

 そんな珊泉に対して、濫枒はこだわりなく、まったくのマイペースを貫いていた。

「それで? こんなところで何してんの?」

「見ていた」

「物好きだねえ。この辺りに、見て楽しいようなもんなんてないだろうに」

「裏通りのどこを通れば大通りに出られるか、戦う場合に適した場所はどこか、見ておかないといざというとき動けない」

 暇さえあればあれこれと構ってくるので、珊泉のほうでも、濫枒に対してはわずかながらに打ち解けているような様子を見せることがある。

 何気ない会話に見せかけて、濫枒は、慎重に珊泉の言葉を拾っていた。

「『いざというとき』、『戦いに適した』、ねぇ……」

「情報は大切な命綱だ。集めておくに超したことはない」

 人間というものは記憶を失っても、身体が覚えていることはそうそう忘れはしないものだ。

 ごく自然に呼吸する方法を取得しているのと同じように、一度身に染みついた習慣や癖というものはなかなか消せない。

 珊泉が、自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと囁く。

「一瞬の判断が、生死を分ける――油断は禁物だ」

 両手を腰にあてがって、濫枒が少し身を屈めた。

 自分の胸辺りまでしかない珊泉の目線に、高さを合わせてみる。

 濫枒が少年時代に見ていた景色が、珊泉の目にはどう映っているのだろうと思いながら。

「それで? お前なら、いざというときどこが戦いやすいと思う?」

 普通の人間は、そうそう戦うことを考えはしないんだけど、というつぶやきを飲み下して、濫枒が話に乗る。

「ここなら、角を曲がってあの空き家の中を突っ切れば四辻の大通りに出られるぞ。それか、いっそのこと屋根に一度上がって」

 珊泉が、小さく頭を振る。

「狭いほうがいい。相手を袋小路に誘いこめば、一撃で息の根を止められる」



 あっさりと返ってきた答えに、濫枒は一瞬、絶句した。

 このとおり、珊泉の思考回路というものは全体的に物騒で、荒っぽいこと、戦うことに身体が馴染んでいる。

 ――つまり、こいつは、そういう育ち方をしてきたってことだ。

 いくらスラムシティでも、ここまで極端な人間はあまりいない。

 十代半ばの少女がごく普通の人生を歩んでいたら、なかなかこういう考えは出てこないだろう。

 足音ひとつに耳をそばだて、無意識のうちに、もっとも効率よく敵を殺す方法を模索するなど。

 濫枒は、がしがしと頭をかいた。

 ――そのうえこいつ、まったくそれに気づいてなくて無自覚なんだよねえ……。

 素性が謎すぎる。

 だから久我たち、メ組の組員たちの一部は、まだ珊泉のことを信用していない。

 記憶喪失はそもそも、証明することが難しいのだ。

 メ組はヒガン地区界隈でも名を知られているから、喧嘩を吹っかけられることも多い。

 兵隊と呼ばれる下っ端が襲撃してきたり、ハニートラップを仕組まれたりすることも多いので、今回も似たような案件ではないかと、久我たちが怪しむのも当然だった。

 また頭である濫枒が、そういう手にやすやすと引っかかりそうなタイプときている。

「――どうしたもんかな」

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