第4話 メ組の事務所本部③
夜明け近くになって、ヒガン地区もひっそりと静まりかえる。
うらぶれたこの地区にも、もう少しすれば朝陽が差しこんで明るくなり始めるだろう。
夜通し起きていた人々は後片付けを始め、朝に目覚める人たちが起きるにはまだ早い、そんな曖昧な時間帯だ。
簡易ベッド脇に置いた椅子に座り、一晩中怪我人の様子を見ていた濫枒も腕組みをしたまま、いつのまにか眠っていたらしい。
次の瞬間、すさまじい殺気を感じて、濫枒は咄嗟に椅子から立ち上がった。
白い拳が繰り出されてくるのを、間一髪、椅子を蹴倒して避ける。
重厚な椅子が倒れる派手な音が響いても、対する美少年――もとい、美少女は気にも留めない。
濫枒が避けたので標的を失い、そのまま、床に倒れこむ。
「…………っ」
短い黒髪の美少女が唇を噛んで激痛に耐え、上半身を捻って濫枒を睨み上げる。
頭にも全身にもぐるぐると巻かれた包帯が痛々しい。
薄明かりの中で、ぎらぎらと瞳がぎらつく。
獲物を仕留めんとする、狩人の目だ。
――戦うことに慣れた目だ。
瞬時に血肉が沸き踊るような興奮を覚えて、濫枒はにやっと笑った。
ヒガン地区に生まれた男は生まれつき、血の気が多い。
濫枒も、例外ではなかった。
「あっぶね~……! お前、どこかの刺客だったの? つか、お前誰?」
しなやかな獣のような美少女は、それには答えない。
ただ、起き上がろうともがくたびに激痛が走り、呼吸が乱れる。
「あんまり無謀なことすんなよ? お前、骨折やら打ち身やら出血多量やらで今の今まで気を失っていたんだぜ? 無茶すると、治るものも治らなくなるぞ」
濫枒はそこで初めて、美少女が薄紅色の双眸をしていることに気づいた。
桃色珊瑚のような珍しい色合いの瞳が、苦しそうに潤んでいる。
それもそうだろう。
いつから目が覚めていたのかは知らないが、満身創痍のこの有様でよく動けたものだ。
美少女はふらつきながらも、立ち上がる。
濫枒に向かって蹴りを繰り出そうとして――折れた骨が身体を支えきれず、バランスを崩してそのまま倒れる。
包帯を巻いた頭が箪笥にぶつかり、小さな呻き声が聞こえる。
「おい。無理すんなって」
美少女はそれには答えず、美しい作り物めいた顔に、殺意を漲らせていた。
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、ひどく咳きこむ。
「聞こえてねえの? 死ぬつもりか?」
思わず濫枒は膝をつき、美少女の身体を支えようと手を伸ばした。
その手を掴み、美少女がかすれた聞き取りにくい声で吐き捨てる。
「お前は敵だ……お前を、殺す…………!」
「だから、人の話を聞けっての」
それが限界。
美少女は意識を失い、再び昏倒した。
明るくなってからドクターが再度呼ばれ、診察する。
意識を取り戻した美少女はベッドのうえでぱちりと目を開け、きょとんとしていた。
また無茶をしないよう、ベッドに縛りつけられているというのに、抵抗ひとつしない。
「名前は? お嬢さん」
ドクターに尋ねられても、なにを聞かれているのかわからない様子で黙っている。
額や頬に貼りつけられたガーゼは増えて、傷のほとんどがまた開いて新たな血を滲ませていた。
「お前、どこの出身? ヒガンじゃねえよな? 見たことない顔だし」
濫枒に質問されても、目を瞠るばかり。
「その怪我なら、家族か誰か呼ばねえと帰れねえだろ。連絡先は? 親は?」
美少女は、異国の言葉でも聞いているかのように、口を噤んでじっと濫枒を見つめる。
先ほど襲いかかってきたときのような気迫はなく、まるで別人のようだった。
「……なんか、様子がおかしくね?」
濫枒が首を傾げる。
「お嬢さん、ちょっと失礼」
ドクターが、美少女の目の前で手を動かした。
美少女がそれを目で追うから、目は見えている。
耳もとで指を鳴らすと、びっくりしたように瞬きをするから、耳も聞こえている。
念のため質問事項を紙に書いて見せても、文字を目で追うだけで、答えはいっこうに返ってこない。
濫枒の背後にいた久我が、首を捻る。
「反応なし。頭の打ち所でも悪かったんかなぁ?」
ドクターが、大きく息を吐きながら肯定した。
「……どうやら、そのようじゃな」
その後ドクターが何度も辛抱強く質問を繰り返し、入念なカウンセリングも試みた。
その結果。
美少女は記憶障害を起こして、今までのことを何も覚えていないと診断された。
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