2節 森の魔女
それからしばらくの事が、私の記憶の中にはおぼろげにしか存在しない。私は彼女にされるがままに身体を拭かれて、白い寝巻を着せられて、自分の力じゃ起き上がれないからと壁を背もたれ代わりに身体を起こしてもらった。
「……終わった」
そうして無気力のままぼーっとして、陽が傾き始めたころにようやく口にできた言葉がそれだった。
「大丈夫、もう臭くないよ」
「そうじゃない! 私の聖職者としての人生が終わったって言ったんだ!」
聖職者において貞操とは自分の命そのものと同義である。それをこんな、訳の分からない女に散らされたなんて。
「死んでも死にきれない!」
「生きてるからだいじょぶよう」
「そういう意味じゃない! そもそもお前は誰なんだ!?」
「私はメルランよう。崖の下でボロボロになってたあなたを助けたの」
「ああ、それはご丁寧に。私はシーリア。教会騎士をしていて……とでも言うと思ったのか!」
「あなた面白いわねえ」
メルランはけたけたと笑いながら歩み寄ってくる。そうして、なにやら濁った液体が入った小さな水差しを差し向けた。
「はい、これ飲んで」
「これは……なんだ?」
「お薬よう。鎮静効果があるから、飲めば痛みが楽になる……かも?」
私が意気消沈している間、彼女はずっと何かを擦っていたような気がする。もしかして、私のために薬を作ってくれていたのだろうか。
「かも、というのは?」
「だって試したことがないもの」
「そんなもの飲めるか!」
私は水差しごと彼女の手を払おうとしたが、いかんせん今の私は糸の切れた木偶人形だ。声を荒げるだけで、身体はまったく動かない。
「理論は間違ってないからあ」
「やめ……やめて! お願い……お願いですから!」
抵抗などできるわけもなく、彼女の笑顔と腐ったドブのような匂いのする液体が迫ってくる。そして私は、気づかないうちにもうひとつだけ失態を犯していた。人間、喋ると口が開くのだ。
しばし脳内お花畑を彷徨った私は、陽が完全に沈んだ頃になってようやく小言のひとつも口にできるくらいまで回復していた。
「ひどい目にあった……」
「ごめんねえ。でも、身体の痛みなくなったでしょ?」
言われてみれば、身体が少し軽くなったような気がする。
「いろんな毒を死なない程度に掛け合わせて、身体の感覚をマヒさせる効能だけ取り出したのよ」
「毒!?」
「だから、死なない程度によう。昔から使われてるれっきとしたお薬なんだから」
知らずに飲まされていたとはいえ、とても生きた心地がしない。彼女が私を生かしたいのか殺したいのか何ひとつ見えない。そもそも彼女は何者なんだ。
「ところで、あれはあなたのよねえ?」
思考がぐるぐる巡っているところに彼女の横やりが入る。彼女が視線で示したのは、部屋の隅に積まれているボロボロの鎧と剣だった。
「あなたが倒れていた近くに散らばっていたから、いちおう集めておいたのだけど」
「ありがとう。教会から貸与されているものだから、壊すのはまだしもなくすのはマズかったんだ」
「よかったあ。でも、教会の騎士さんがどうしてこんな森の中に?」
「実は、森に住む魔女を捕らえるために仲間と共にやって来たのだが……雨の中で足を滑らせて、ごらんのありさまに」
「森の魔女を捕らえに?」
メルランのことを尋ねるつもりが、気が付くと自分のことばかりとうとうと語らされていた。私は慌てて話にひと区切りをつける。
「そういうことだから、助けてくれたのはありがたいが、あのあたりには近づかない方がいい」
「大丈夫よう。あのあたりは庭のようなものだし。さっき飲んだ薬の材料も、あのへんで採ったものなの」
彼女は相変わらずのほわほわした調子で、せっかくの忠告に異を唱える。
「それに、たぶんその魔女って私のことだから。自分で自分に気を付けるのは、おかしなことよねえ」
私は、たった今の彼女の言葉が理解できずに、食い入るようにその瞳を見つめてしまう。一方の彼女は、何を勘違いしたのかぽっと顔を赤らめて、もじもじと視線を逸らしてしまった。
少し頭を整理する時間を置いて、ようやくたどたどしく、彼女の台詞を反芻する。
「お前が、私の追っていた、魔女?」
「いえーす。無事に見つかってよかったねえ」
「いろいろ無事じゃない! というかこの魔女め! 教会まで連行して――」
彼女に飛び掛かろうとして、私はふらりとよろける。そう言えば身体動かないんだった。何回目のことだろうか。
メルランが慌てて私を抱きかかえて、ゆっくりとベッドへ戻してくれる。身体さえ動けばこのまま捕らえてやるのに、どうして私はこうなのか。
「文字通り手も足も出ないなんて……」
「お薬飲んで数日休めばだいじょぶよう」
「だからそういう問題じゃない!」
ということはなんだ。私は捕らえるべき魔女に助けられたあげく、処女を散らされて、魔女がこしらえた怪しげな毒薬まで飲まされたということか。
「私、もう帰れないかも……」
「それならずっといてくれてもいいのよう?」
まったく悪びれる様子の無い彼女に、私は精一杯の抵抗としてギンと睨みつけてやった。
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