痛くないと諭されて刺される注射針に似ている


 冷めたコーヒーを口の中で湿らす。母。今まで引き出してこなかった記憶が、いつの間にかリビングで一人座る僕の隣に腰掛けていた。


 母のココアを思い出す。母の顔や楽しかった思い出ではなく、僕が記憶から引っ張り出していたのは朝のココア。


 僕は学校という場所を、他のどんな場所よりも好まなかった。


 生徒たちのざわつき。突然、どこかから発せられる奇声や笑い声。椅子を引く音。何かを落とす音。ただ歩いているだけで誰かとぶつかる廊下。埃の匂い。牛乳の匂い。廊下に干されたまま生乾きした雑巾の匂い。


 僕はあの場所にいるだけで気分が悪くなった。唯一落ち着けるのは、職員室と保健室。職員室の入口から香ってくるホットコーヒーの香りが好きだった。もちろん小学生からコーヒーを飲むほどおマセではなかった。けれど、芳醇なコーヒーの香りが立ち込めていた職員室には、僕にとって何か大切なものが隠れているような気がしていた。


 僕は必ず、学校へ着いてからすぐに気分が悪くなる。時間割が二時間目になる頃にはここぞとばかりに保健室へ歩みを進めていた。保健室にいる先生がデスクで何か作業をしているところに僕がやってきて、必ず体温計を脇に刺されて熱を計る。


 熱があれば親に連絡をしてもらい、親からの連絡を待った。熱がなければ保健室で休み、保健室の外から聞こえてくる歌や体育の笛の音を何となく聞いたりしていた。それでも引き返して、体調不良を訴えて(それこそ演技じみたこともした)、何とか親に連絡をつけてもらった。


 そこから聞こえる音はどれも心地よい。しかし、自分がその場所に存在して聞こえてくるものは全て騒がしいものだった。外から聞くものとは全く違う。痛くないと諭されて刺される注射針に似ている。保健室のベッドの中にいる時だけは、この騒々しい世界を外から眺めることを許されていた。今思い返すと、それはあの時にしか体験することが出来ない貴重なものだった。


 そんな日が毎日続いた。信じられないかもしれない。だけど、毎日だ。


 金曜日が終わり、土曜日になると少しは気分が楽になった。日曜日の夜や、早退した日の夜に次の日の学校の情景を想像するのが僕は大嫌いだった。


 担任の先生や、かつて僕と仲良く遊んでいた友達が僕に対して労いや心配の声をかけてくる度に、僕は平気そうに笑う。そんな後でも、僕は堪らず保健室へ逃げ込む。毎日。毎日。僕は保健室に逃げ込んだ。


 迎えに来るのはいつも母の方だった。今思えば両親が共働きでは無かったため、母が必ず僕を迎えに来ていた。


 母は僕が毎日早退をすることに嫌な顔はしなかったと思う。迎えに来てから、母は保健室の先生と少し話をする。他愛もない話。僕は保健室の先生と話をしている時の母がとても好きだった。何故だかは分からない。それから、行こう、と手を出してきて、僕はその手を握って学校から抜け出した。その手を握るのに許可が必要なのか、今の僕なら聞いているかもしれない。


 僕がそんなふうに毎日学校から早退することに、母は何も言わない。それが不思議だった。学校から家に帰る途中で、アイスやケーキを買って帰って母と一緒に食べた。


 僕はおそらく、母に何か言って欲しかったのかもしれない。あるいは何か、母から説教の一言でも言ってもらえれば頑張る気でいたのかもしれない。


 僕が早退するようになってから(四年生に上がったくらいの時だ)学校がある日の朝は、母がココアを一杯入れてくれた。


 僕はそのココアに一口も付けずに、時間まで寝転んで過ごし、仕方なく家を出ていく。たぶん、そのココアに手を付けるのが怖かったのだろう。僕が大事そうに抱え持っていたものが、あの一杯のココアによって簡単に壊れるような気がしたのかもしれない。そして、今思うとそれはきっと確かなことだ。だから、僕は毎朝ココアを見ないようにして家を出て行った。


 早退して家に帰ってきた時には、そのココアはどこかに消え去っている。


 そんな光景を毎日、毎日続けていた。両親が離婚し、父親と暮らすまで。


 父親と暮らしてからは、簡単に早退する訳にも行かない。一度は連絡をしてもらったが、父親が学校へ来ることは無かった。


 仕方なく机に齧り付いて時が過ぎるのをただただ、辛抱強く待つしか無かった。卒業式の思い出なんてない。死に物狂いで机に歯型を付けたくらいのものだろう。


 僕が一応、学校という場所をそれなりに"好きになろうと"した結果、生え変わった永久歯が欠ける事態は起きなかった。


 中学に上がってからも"早退癖"は治らなかった。……いや、初めの頃は頑張ってはみた。だけど、長くは続かなかった。中学では早退の際に親が迎えに来る必要が無くなったので、僕は毎日学校を早退していた。


 進学について担任から真剣に話されて、出席日数が必要だと告げられると、僕の癖は徐々に、少しずつではあるけれど、"良い方向"に向かっていった。それについては、いずれ話せればと思う。一人の恩師が、僕の背中を押してくれたおかげだ。


 コーヒーカップが空になり、僕は一つため息をついた。たぶん、大きなため息だった。


 僕は無性にココアを飲みたくなった。


 けれど、あの時のココアは二度と返ってこない。良くも、悪くも。時は一方向に流れていく。


 母は、僕が中学に上がる時に交通事故で死んだ。そのことを父親から聞かされたのは、本当にずっと後のことだった。


 窓の外の景色が、薄暗くなっていた。ひどい夕立が来る気配がして、僕は急いで洗濯を取り込むことにした。

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