時間が持つ力みたいなものを信じてみてもいいと思った


 5月に入ってすぐ、僕は風邪を引いた。履歴書の長所欄に堂々と書いてやれるほど、僕は身体が丈夫だった。しかし何の前置きもなく発熱し、それからはベッドとトイレを行き来するマラソンのような生活を送った。


 ろくに食事もとらなかったし、水分も必要に駆られて喉が渇くまで飲まなかった。


 病院に行く気力もなく、眠っていればいつか治るだろうと余裕を持てるほどの脱力感だった。熱も二日目には下がっていた。


 思えば、こんなに一定の場所に留まっていたのは初めての経験だった。特に理由もなく、起きて歯を磨いて喫茶店へ出向き、コーヒーを啜りながらペーパーバックをめくるだけの無意味で無価値な生活を長いこと送った。


 読書に飽きたら公園へ散歩に出て、季節折々の草花や、すれ違う人々が見せる季節特有の表情を眺めたりした。


 そんな精神治療じみた規則正しく、枠に嵌った生活を続けたお陰で体調はだいぶ良くなった。あるいは、全身に巡っていた"名前もない毒"が、長い時を経て僕を侵し尽くしたのかもしれない。


 その時だけは、時間が持つ力みたいなものを信じてみてもいいと思った。


 その日はいつものようにコーヒーを啜っていた。僕の中から抜け落ちていた季節感が、ある日から何も無かったような顔でいつの間にか居座っていた。ずっとここにいたけれど。そんなことを言っている気がした。


 僕は小学生の時に拾った、小さな鳥のことを思い出していた。拾い上げた時に、枯れ葉よりも軽かったのを思い出す。僕の手の中で必死に小鳥が鼓動していた時の感触は、不思議なことに今も忘れられない。


 とにかく僕は、その小鳥を治療することにした。とはいえ巣に帰ることが叶わなくなった小鳥を元気づけるための知識なんて持ち合わせていなかったので、ひとまず外敵から匿うくらいしか出来なかった。


 お菓子の空き箱に枯れ葉を集めて敷き詰め、そこに寝かしておいただけだ。近所で同じ羽の色の小鳥たちが啄んでいる木の実を分けてもらい、お菓子の箱の中で座っている小鳥へ運んでいた。


 小学校の理科室から借りたスポイト──結局のところ返したのかは覚えていない──で水を与えると、初めは弱々しく飲んでいたのが数日後にはガブガブと喉を潤すようになった。


 そんな日が一週間ほど続いてから、僕はその小鳥がどうなるのかを想像した。


 巣に帰れずに土の上で倒れていた小鳥と、僕たちの世界における巣に帰れない人達を照らし合わせてみたりもした。


 彼が元気になったとして、帰る場所はあるのだろうか。暖かく歓迎してくれる仲間がいるのかは分からない。もしかしたら、帰ってこなくなったことに清々しているかもしれない。僕はこの小鳥の存在を、"僕の中だけに"留めることもできると思った。


 そうすることが正しいのかは、鳥類学者に聞いても分からないかもしれない。自然の世界において飛べなくなった鳥をどうするべきかを知れば、僕はきっとその通りにしてしまうだろう。


 それを考えた時、僕は初めて生きているものについて考えたと思う。それこそ何日も何日も、小鳥のことだけを考えていた。深く深く、眠っている間も起きている間も。これだけ一つのことについて、一つの生命について、何かを考えたことは初めてだった。そしてそれは、僕が色んな女の子から考えすぎだと言われる原因になった。


 小鳥は元気に鳴くようになった。それでも、小鳥は元にいた巣へ帰ろうとしなかった。飛ぶ仕草すら見せず、僕が運ぶ木の実とスポイトの中の水を待った。


 僕は頭を悩ませた。小学生の小さな頭の中を、小鳥が駆けずり回っていた。結論をつけようとせず、ただひたすら小鳥のことだけを考えていた。


 この小鳥は、元いた場所へ帰りたくないのかもしれないとも思った。この小鳥は飛び方を忘れたのかもしれない。帰るべき巣を忘れてしまったのかもしれないと思った。


 それからすぐに、僕の母親と父親が離婚した。父と母、どちらの家に行くかを、僕は考えなければいけなくなった。


 正直なところ、僕がどちらの親について行くかなんてどうでもよかった。どちらでもよかった。僕は母に聞かれた時、何となく父親の家に行くと答えた。


 それから、母と会ったことは無い。


 もしあの時、父に聞かれていればと今になって考えることもある。


 その時は、母についていくと口にしていたかもしれない。


 父について行くと言った以上、僕は今住んでいる場所から父親が借りている社宅のアパートメントへ引越しをしなければ行けなくなった。


 僕が一番頭を悩ませていた小鳥をどうすべきかという問題について、僕は考えた。


 きっと、自然に返すべきではないと思った。ここで殺してしまった方がいい。それが、小学生の僕が必死に導き出した答えだった。


 しかし、鳥を殺すことはできなかった。少しばかり愛着も湧いていたし、小鳥を拾い上げると全く警戒心を顕にすることなくリラックスしていた。まるで、そこが自分の居場所であるかのように、暖かく、鼓動していた。


 僕が迷っていると、小鳥は何の前触れもなく羽ばたいた。そして、開いていた窓の小さな隙間から今まで見せたことがないほどに元気よく飛び出して行った。


 僕はその時、言い表せないほどの孤独感を覚えた。


 傍に小鳥が居なくなった僕には、いつしか帰る場所が無くなっていた。


 人は簡単に死ぬかもしれない。僕はその時感じた胸の痛みを、未だに忘れない。

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