第2話 敦子の記憶

 最近は、数年前から起こっている、

「世界的なパンデミック」

 のせいで、世の中がすっかり様変わりしてしまった。

 特に最近では、

「三密」

 などと呼ばれていて、

「ソーシャルデイスタンス」

 などという聞き慣れない言葉まで出てくる始末だ。

 その影響もあって、

「人込みはいやだ」

 という人も増えてきた。

 元々、人込みが好きだという人も珍しいと思う。ただ、子供の頃などは、祭りや花火大会など、

「人がたくさんいるだけで、嬉しくなる」

 というような感情もあったものだが、大人になるにつれて、それが変わってくるというものだった。

 たとえば、小学生の頃、家族で温泉旅行などに出かけた時、親は、くたくたになって、「部屋でくつろぎたい」

 と言っているが、子供心に、

「せっかく温泉にきてるのに、ゆっくりするなんて、もったいない」

 と思っていたのを思い出す。

 旅館内をいろいろ探検したり、他の同じくらいの子供がいれば話しかけたくなるのも、子供としては無理もないことだ。

 しかし、親からは、

「おとなしくしておきなさい。他の子に話しかけるなんて、余計なことをしてはいけません」

 と言われたことを、

「不思議でしょうがない」

 と思っていたのだ。

「せっかく来たのに、他の子と遊んじゃいけないとか、どういうことなんだ? 親が相手をしてくれないから、友達を作ろうと思ったのに、それの何がいけないんだ?」

 と普通だったら思うだろう。

 しかし、親とすれば、

「相手だって、ここまで来て疲れているに違いないのに、わざわざ声をかけると、相手も気を遣う」

 と考えるようだ。

 とにかく、親としては、子供に、

「相手に気を遣わせるような行動はしてはいけない」

 と思っているようで、きっと自分たちも声を掛けられると、嫌な顔の一つもしたいものなのに違いないと思うのだろう。

 だが、実際には、自分たちが大人になると、子供の頃に思っていたことを忘れるのか、とにかく、

「疲れた。ゆっくりしたい」

 という思いがある。

 特に子供がいる場合は、

「家族サービスなので、子供さえ楽しければそれでいい」

 と思うのだ。

 だが、自分の子供が他の子供に話しかけたり、仲良くなってしまうと、相手の親に気を遣わせるというだけではなく、自分たちも、

「関わりない」

 というわけにはいかない。

「うちの子供がお世話になりまして」

 くらいの挨拶があってしかるべきだろう。

 その挨拶すら、億劫に思う大人がたくさんいる。自分が嫌なのだから、相手も嫌なのだおると思うのは強引かも知れないが、無理もないことに違いはないだろう。

「パンデミック」

 のせいで、行動制限が数年間続き、温泉旅行など、最初の年は、まったくといっていいほど、いく人はいなかった。

「例年の一割程度くらいですかね?」

 と、宿の人がインタビューで答えていた。

 それにしても、そんなことは分かり切っていることなのに、わざわざインタビューに出てくるという神経を疑いたくなる。

「その分、たくさんお金がもらえるということなんだろうか?」

 と考えてしまう。

 そうでもなければ、ただでさえ、深刻なことをテレビに出て語るなど、嫌で嫌でしょうがないはずだ。

 本当であれば、

「そんなことをしている暇はない」

 ということで、ここから先、どのように自分の身の振り方を考えるかということが大切なのである。

 今では、すでに子供が小学生となっていた敦子先生は、パンデミックになる前は、家族で毎年のように、家族旅行に来ていた。

 旦那とも共稼ぎなので、毎年、両親が一緒ということはなかったが、必ず、どちらかは付き添って、何とか毎年の旅行というのは続けていけたのだった。

 ただ、子供とすれば、

「お父さんと旅行に来ても面白くない」

 と言っていた。

「どうしてなの?」

 と聞くと、

「お父さんとくると、疲れた疲れたしか言わないし、全然相手もしてくれない。しかも、僕が他の子供と一緒にいると、引き離そうとしてくるんだよ? ひどいだろう?」

 と息子は言った。

 正直、敦子は、そこまで、

「疲れた」

 というのを連発することはないが、子供が他の子と遊んでいたりすると、その様子をあまりいい顔をしてみていない。

 そのことを、子供も分かっているはずなのに、父親をディスるというのは、

「わざと言っているんだろうな」

 と感じさせるに十分だった。

 だが、どうも父親は自分よりも、もっと極端だった。

 母親はどちらかというと、少しヒステリックにいうので、言葉はきついが、無視しようと思えばできなくもない。

 それに比べて父親は、口数が少なく、その分、ズシリと重たい言葉なので、言葉尻がどこかとげがありそうに聞こえるのだった。

 そんな父親と違って母親も、考え方に変わりはなかった。

 男と女の違いこそあれ、ヒステリックになることもあるとはいえ、逆にヒステリックな方が、子供も分かっているようで、

「ああ、お母さん、いつもの発作だ」

 というくらいにしか思っていないことだろう。

 というのも、ヒステリックな状態には、子供の方としても、免疫ができやすいようで、分かりにくい方が、結構大変なのかも知れない。

 そのことは、自分が子供の頃を思い出せばわかることで、敦子は、女の子ではあったが、おてんばなところがあったのだ。

 女の子でも、どこか気が強い子はいるもので、まわりの男の子が慕ってくる方だった。

 小学生の頃、いつも遊んでいた子たちは、学年関係なく、年功序列もなく、皆ため口だった。

 そんな中でも、さすがに最上級生の人は女の子だったのだが、完全にその子が輪の中心になっていたのだ。

 年功序列ではないと言いながら、きっと本人には、

「私が一番のお姉さんなんだ」

 という自覚があったのだろう。

 しっかりとしたリーダーシップを発揮していたのだった。

 そんなお姉さんと一緒にいると、

「慕いたい」

 という気持ちと、

「慕われるって、どんな気持ちなんだろう?」

 という好奇心に近いものがあったのだ。

 それを考えていると、

「私が最上級生になったら、慕われたい」

 という気持ちと、

「私にその素質があるのだろうか?」

 という両面が含まれることに気づいたのだった。

 自分を主人公として見る目と、表から他人事のように見る目とが同じ瞬間、同じ人間の別の目線で存在しているということを考えると、どうすればいいのかを考えてしまうのだった。

 これは、

「自分には音楽の才能はない」

 と考えた時のことだったのを思い出した。

 小学三年生の時に、すでに思っていたのだが、その理由が、

「楽譜などのような難しいことを覚えなければいけない」

 ということが自分にはできないと思ったからだと感じていたが、それは、勘違いだということに気が付いた。

「楽譜を読むよりも、楽器を演奏することが致命的にできないんだ」

 という思いがあったからだった。

 というのも、

「左右で別々のことができないから、楽器はできないのだ」

 と思い込んでいたのだった。

 しかし、それが間違いであるということに気づいたのが、高校を卒業して、教育大に入学してすぐのことだった。

 一年生の、学校の教科が、専門的なものになる前の、一般教養の時というと、比較的スケジュールも楽だったので、そんな時期に、

「車の免許を取得しておこう」

 と思うようになったのだった。

 車の免許を取得した時、最初は、小学生の頃から感じていたことを思い出し、

「そういえば私は、左右で別々のことをするのが苦手だったんだ」

 ということを思い出し。

「ああ、これは致命的なことだわ」

 と思うことで、

「車の免許取得を諦めないといけないのではないか?」

 と感じるようになっていた。

 しかし、実際に時間が経つにつれ、車にどんどん乗ることにつれ、できるようになっていった。

「慣れというのは怖いものだ」

 と思ったが、そのおかげで無事に車の免許を取得することができたのだった。

「そっか、楽器もそうなんだけど、私は結構、諦めが早いのが、玉に瑕というのが、問題なのかも知れないな」

 と感じるのだった。

 だが、さすがに、その頃から、もう一度、

「音楽をやってみたい」

 とは思わなかった。

「これから、先生になるために、いっぱい忙しくなるのだから、いまさら音楽なんてやっているひまはない」

 と思うようになっていた。

 だが、音楽への未練はあったようで、子供が生まれてから、しばらくは忙しかったが、小学生の高学年になってきた頃、

「少し音楽に興味を持ってもいいのかも知れないわ」

 と思うようになっていた。

 音楽といっても、正直、賑やかなものは嫌いだった。

 といっても、交響曲のようなものは好きで、

「クラシック全般」

 がお気に入りだったのだ。

 ただ、他の音楽のジャンルはあまり好きになれず、

「流行りの曲」

 というのは、流れてくれば耳に入るという程度で、自分から意識して聴こうという気持ちにはならなかったのだ。

「静かなクラシックと、賑やかなクラシックとどっちが好き?」

 と聞かれると、答えに迷ってしまうのだった。

 例えば、一つの楽器に特化したような、静かなクラシックも、玄人っぽくて好きだった。

 しかし、交響曲のように、

「作曲者の個性と、才能が溢れている」

 という思いにさせるものが、本当の音楽だと思っているのも、間違いではない。

 つまり、彼女は、

「私は作曲などという、クリエイティブなことが好きなんだ」

 と感じさせたのだ。

 楽器をやるのも、人の作った曲を演奏するためではなく、自分で曲を作るということに造詣が深かったからだった。

「人が作ったものを演奏するだけで、何が面白いというのだ」

 というくらいに、芸術に対しては、なぜかシビアに考えていた。

 だから、マンガや絵画、さらには小説にしても、人が作ったものを、

「ただ見ている」

 というだけでは我慢ができない。

 ある意味、貪欲だといってもいいのだろうが、そうでもなければ、

「やる意味がない」

 というくらいに感じているのだった。

 今から思えば、

「だからこそ、すぐに諦めていたのかも知れないな」

 と思っていた。

「クリエーターの仲間に入りたい」

 という気持ちは強いくせに、

「私にできるくらいなら、他の誰もができているんじゃないか?」

 というほど、できないことに対して、自虐的になっていた。

 いや、自虐的になることで、

「皆ができていないのだから、私ができないのも当たり前のことだ」

 と思うことで、自分への言い訳の門を広く設定することで、自分を楽な道にいざなおうと考えているのだろう。

 かと思えば、

「あれは、子供の頃の考えで、今は立派(?)な大人になったのだから、考え方もしっかりしているはずで、子供の頃の言い訳は、今を生かすためのものだったのではないだろうか?」

 と感じることで、自分を正当化できるような気がしていたのだった。

 だが、実際に大人になったからといって、すべてが万事うまくいくというわけではない。

 逆に、

「大人になったんだから、子供の頃の言い訳は通用しない」

 と思うことで、プレッシャーがハンパないといえるのではないだろうか?

 だから、

「大人には大人の世界がある」

 ということを言い訳にして、できない時のことを、プレッシャーのせいにすることで、いかに自分ができないことを正当化できるのかと考えてしまうのだろう。

「子供には子供の世界がある」

 と思っていた時は、ずっと上ばかりを見ていた。

 しかし、自分が大人になって、今度は下を見下ろすと、そこにあると思っていた、

「子供の世界」

 がそこにはなかったのだ。

「どこにあるのだろう?」

 と思って見ていると、見えてきたのは、今度も上だったのだ。

「それは、自分が、子供の頃に戻って、大人の自分が下を見ているという感覚を思い出したからで、子供の頃も、ひょっとすると、一瞬だけだったのかも知れないが、上を見ているつもりで。大人になったということを感じた自分になって、下を見ていたのかも知れない」

 と感じるのだった。

「子供と大人の違い、いわゆる境界線というのはどこにあるのだろう?」

 と考えた。

「むしろ、境界線などというものが、本当に存在するものなのだろうか?」

 とも思えたのだ。

 世の中というものと比較して考えると、実に面白いものだといえるだろう。

 特に、

「大人になっても思い出す」

 つまり、

「トラウマ」

 のようなことが思い出されるのだが、あれは、小学生のまだ、一年生か、二年生くらいの頃であったと思う。

 当時、田舎の方に住んでいたことで、まだ、家のまわりには、田んぼが結構残っていた。

 その田んぼの農作業をしている人たちを最初、

「わあ、農家とかやってるんだ」

 としか思っていなかった。

 その頃は、サラリーマンが一番偉くて、

「頭がよくなければなれない職業なんだ」

 などと思っていた。

 しかし、今ではそんなことはないのに、漠然と思っていたのは、自分の父親がサラリーマンだったからだろうか?

「職業に貴賎なし」

 などと言われるが、そんな言葉を知るわけもなく、母親が当時は、まだまわりの人に対して、どちらかというと、ライバル意識を抱いていたところがあったからではないかと想えた。

 だが、学校の友達で、農家の家の友達の家にいけば、まるで御殿のような屋敷だった。

 その屋敷において、何がすごいといって、ちょうど昔ながらの家、いかにも屋敷という雰囲気の家と、さらに、その隣に、さらに、豪邸のような家が建っていたのだ。それだけでもすごいのに、庭がさらに、野球ができるくらいの広さだった。

 もっとも、小学一年生くらいの子供の目線なので、少々の広さであっても、だだっ広く見えるのだろうが、それでも、豪邸が二軒あって、さらに原っぱのように、今であれば、

「無駄に広い」

 と思うような敷地が広がっているのだから、すごいものであろう。

 さらに、その奥には、蔵のようなものあり、その横には、倉庫があった。倉庫にはトラクターや車、しかも高級車のような大きな車が、三台も並んで置かれているのをみると、「想像を絶するほどの、大富豪なのだろう」

 ということは、子供にでも分かることであった。

 その日は、友達三人で、屋敷を使ってのかくれんぼをしようということになった。

 正直、この広い屋敷で、三人のかくれんぼは危険なものだとは思ったが、やはり、その考えは当たったようで、何度かの、かくれんぼの中において、事故が起こったのだ。

 倉庫のようなところが、ある意味一番隠れるにはちょうどいいところで、自分とは違うもう一人の友達が、倉庫の上の階に隠れようとして、倉庫の階段を上がろうとしたのだった。

 その階段は、昔の階段で、かなり急こう配の階段であった。子供に合わせて作ってあるわけではないので、後から思えば、その階段を見た時、

「俺なら、絶対に怖くて昇れないよな」

 という階段であった。

 その階段を昇って隠れようとした友達が、階段から滑ったのだった。

 そこは、元々、農作業用の倉庫である。土や砂というものが、埃として舞っている上に、さらに、階段が木造ということで、ただでさえ滑りやすくなっていた。

 そんな状態でまだ発育も未熟な子供が、きつい階段を昇ろうというのだ。できるはずがないだろう。

 案の定、脚を滑らせて、ひっくり返り、しかも下は砂地になっている。足をすりむいて、苦しそうに唸っているのだ。

 その様子を見た大人ですら、顔を真っ青にしていた。子供の自分たちが近づこうものなら、

「見るな」

 と、横からおじさんのような人の叱責が聞こえる。

 そうなると、完全にビビッてしまったのだった。

「どうすればいいんだ?」

 という若い男性の声が聞こえた。

「バカ、救急車を呼ぶのが先決だろう。お前、呼んでこい」

 といって、若い男性は走らされた。

 その間に、先に母屋に救急セットを取りに行った奥さんが、消毒液などの用意に、実に手際がよかったのだ。

「大丈夫かい?」

 と、友達をねぎらうことも忘れない。

 実に落ち着いているのだった。

 そのおじさんは、この家の当主に当たる人のようで、てきぱき指示をするのは当たり前のことだった。

 まわりの人は、もちろん、逆らえるはずもなく、黙々と動いている。

 いや、逆らうなどというよりも、まわりの人は指示をされて、仕方なくやっているというよりも、キチンと統率されているように見え、頼もしく感じられた。

 その時まだ小さな子供ではあったが、まるで大人の目線のように見えたのは、それだけ、当主のてきぱきした態度が、印象的だったということであろう。

 救急車がやってきて、友達が救急車で運ばれていくのを見て、当主は、ホッとした様子だった。

 命には別条はないだろうが、

「ボヤボヤしているのはよくない」

 ということくらい。子供にも分かった。

「バイキンが入ったら大変だもんな」

 という思いである。

 そういう意味での当主の段取りは素晴らしかった。最初に消毒液を持って来させ、自分から手当てをしていた。

 こういうことは、手慣れたものだったのだろう。農家を伊達にやっているわけではないということである。

 逆に

「農家を営んでいる人が、すべて、今回のような手筈がいいということはないだろう」

 と思った。

 ただ、ノウハウというものは、誰もが持っていて、それを緊急時に発揮できるかということだけだと思ったのだ。

 友達が運ばれていってすぐに、敦子は、ホッとしたのか、安心感からか、ふっと、何も考えられないようになった。

 その時である。

「何か気持ち悪い臭いがするな」

 ということであった。

 その臭いがどこから来るのか、分かっていた気がする。そして、急に、脚がすくんでくるのだった。

 その様子に気づいたのは、近くにいたお兄さんだった。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 と声をかけてくれたので、その人を見上げると、

「うわっ、お嬢ちゃん、顔色が真っ青じゃないか?」

 と言ったのだ。

 それを聞いて、今度は気が遠くなるのを感じた。

「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」

 と遠くの方で叫んでいるのが、次第に聞こえなくなってきたのだった……。

 気がついたら、日本間で寝ていた。

 この部屋も、

「無駄に広い」

 と言える部屋ではないか。

 その頃は畳の何畳などということは分からなかったが、だだっ広い部屋の真ん中に、一枚の布団が敷かれ。そこに寝かされていたのだ。

 最初に、声をかけてくれたお兄さんが心配そうにこちらを覗き込んだが、目が覚めたのを見て、安心したようだ。

「どうしたんだい? 急に気分が悪くなったようだけど」

 と聞かれたので、

「何か、急にきつい臭いを感じた気がして、それで気持ち悪くなったんです」

 と正直にいうと、そのお兄さんは、

「なるほど」

 という顔になったかと思うと、

「きっと、お友達の血の臭いだったのかも知れないね。お友達も、大丈夫だって電話が入ったので、君が心配することはないんだよ」

 と言われたので、安心して、ニコリと笑うと、

「だいぶ顔色もよくなったみたいだね。さっきは、本当に真っ青だったので、僕も思わず声を挙げてしまって、申し訳ないことをしたと思っているんだよ」

 と、お兄さんはいうのだった。

 顔色がだいぶよくはなってきたことを思うと、その時の思いが、

「きっと大人になっても忘れられないか、忘れてしまっても、何かのきっかけで、すぐに思い出すことになるのだろうな」

 という思いを、その時に感じたような気がしたのだ。

 もちろん、小学1年生や2年生で、そんな思いをするなんて、普通は思えない。

 だから、大人になってから感じたことを、

「子供の時に感じていた」

 と思うことで、自分にとっての、

「辻褄合わせ」

 であるかのような気がするのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る