第2話
アパートの入り口で傘を開く。部屋が3階だったから気が付かなかったけれど、地面は水溜まりばかりだ。地面に曇り空が顔を出している。革靴をできるだけ汚さないように歩きつつ、滝の様に流れる雨空を見上げた。
雨の日は嫌いじゃない。特に傘をさすのは中々悪くない。自分だけの空間を世界から切り取っているような気がして、特別な気分になれる。外にいる人はそれぞれ自分の傘を持っていて、それがその人の世界を表しているようで面白い。僕の傘は青地に白と赤のメッシュが入っている。大学入学にあたって新しく買った傘。小学校の頃に初めて買ってもらった自転車と同じ配色で、懐かしくなって購入した。だから、僕の傘は懐かしい思い出の世界、ということになるのかもしれない。人よりは傘に思い入れがある。だからだろうか、僕の目にその姿は異様に映った。いや、誰の目にもそう映っただろう。なぜならその人は、こんな大雨の中で傘をさしていなかった。長い黒髪を濡らしながら、まるで今目覚めた、とでも言うかのように大きく伸びをしている。その人が立っているのは、僕がいる歩道から入学式が行われる講堂の間にある池を渡す橋。今はこちらに背を向けているけれど、入学式に向かうためには、この不審な人物の視界に入らなければならない。
僕は選択を迫られていた。考えられる手は2つ。ひとつはこの人の横を普通に通り過ぎる。まるで見えていないかのように、無関心に通り過ぎる。もうひとつは、横を勢いよく走り抜ける。これなら、話しかけられたばあいも振り切れるだろう。さて、どうしたものか。僕から相手までは50m位。いきなり走ると相手に気づかれる。そうなると相手の出方が分からない。ここは相手を通り過ぎるまでは歩いて、相手の視界に入ったら走ろう。うん。それがいい。
そうと決まればさっそく1歩目を踏み出そう。僕はなるべく音を立てないように、右足を前に出した。次に左足。右足、左足、右足、左足。横を通り過ぎるまであと数歩。雨の人──と呼ぶことにしようか──が気づく様子はない。思ったより上手くいきそうだ。今度は右足を出す。簡単な動作のはずだった。だが、僕の右足は泥濘んだ地面を踏み抜いていた。既に多くの学生が通ったことで練られた泥は僕の足をとらえて離さない。右足を浮かそうにも、左足は前に出してしまっている。僕は後ろ髪引かれるように地面に尻餅をついた。咄嗟に離した手から、傘が転がっていく。僕の視線は背後に飛んだ傘よりも、前方に釘付けになった。雨の人が振り返っていたからだ。視線が交差し、互いを認識する。黒目の大きい瞳で、雨の人はこちらをきょとんと数秒見つめた後、口角をきゅっと上げた。
「おや、奇遇だね。君もびしょ濡れかい?」
そう言って差し伸べられた手を僕は少し逡巡して、それから握った。しっとりとした冷たい手だった。
「そういう気分だったんです。」
手を借りて立ち上がる僕の答えを聞いた雨の人は、晴々とした笑みを浮かべた。
「それは天晴な心持だね。君、名前は?」
「
「私は
「よろしく……お願いします。」
これが僕と先輩の出会いだ。雨が降っていて良かった。そう思ったのはこの日が初めてだった。
薫先輩は笑顔になる。 紅りんご @Kagamin0707
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