第11話

「リーグレットーッ」


 レヴィが空で煌煌と光る昼。私は書物を読みながら微睡んでいたが、私を呼ぶ声が聞こえ目を覚ました。今の声は母だ。何事かと上体を起こすとガラスが付いていない窓から一陣の風が吹き、私の髪を撫でる。


 木製のベッドから下りると声のする方へと向かう。どうやら庭にいるようだ。


「何?」

「ああ、リーグレット。洗濯物干すの手伝ってくれない?」


 下らないことで呼ばれたものだ。だが、今の私は嫌な顔一つしない。日本の両親に何もしてやれなかった負い目があるからだ。甘えるだけ甘えたら後悔しか残らなかった。その経験がいたく自身の胸に残り続けている。息子に甘えてくれるのであれば存分に甘えさせてやろう。そう思うのである。


 両親から小汚いテーブルクロスを受け取ると、木と木の間に通したロープにふわりとかけた。そうして、二人がかりで洗濯物を全て干し終えたると、母が私の頭に手をおいた。


「クァッタ! おかげですぐ終わったよ」


 母はニコリとした。この人は歳の割には随分若く見える。こちら側の世界の人間は老けにくいのだろうか?


「リーグレットは随分大きくなったね」


 私の頭を撫でながら、感心するように言った。


「毎日顔を合わせているとどのくらい成長したかわからないよ」


 なんて知ったような口をきくが私自身そのような経験はない。毎日顔を合わせていた両親が死に向かって老けていくさまは毎日まざまざと見ていたとしても、子が人知れず大きくなっていく様は子供も妻もいない私には無縁だった。


「うんうん。貴方ももう十歳だものね。大きくもなるわ」

「十年……」


 私がこの世に生を受けてから既に十年の月日が過ぎた。

 十年はあっという間だった。

 ジャネーの法則……といったか、子供の時よりも大人、老人の方が時間が経つ感覚が早く感じるというが、中身は大人で外見が子供の私はどうなるのだろうか?


「さぁ! お手伝いは終わったわ! 子供らしく遊んできなさい」


 母は快活にそう言った。そう言われればそうしないことないから、私は首肯するとそのまま庭を出た。

 

 家は、街の中心地から少し離れた所にあった。この街はそこそこに広く城壁でぐるりと囲まれているが、東の城壁から西の城壁へ、直線的に行こうとしても大人の足で丸半日はかかる。子供の足だと遭難するレベルだ。その街のほぼ中心に城がある。横広ではなく、中心に行くに連れて高くなっていくタイプの城だった。城の一番高い所からは街を一望できるが、それは軍事的なものではなくただただ王家の人間の自尊心を満たすためのものだった。


 しかしながら、風景画家としてこの城の造形は気に入っている。屋根や城壁の色合いやデザインがこの街にとても馴染んでいる。街にあわせてデザインされたものだと伺いしることができる。


 城の東には大きな川『レミュドー川』が流れている。川幅で言えば荒川ぐらいある。川上、川下は城壁の外にあるから何処からきて、何処へゆくのか分からない。だから、この川の全長がどのくらいあるか分からない。


 私は暇になるとこのレミュドー川へ向かう。この川の沿岸の舗装された部分に腰を下ろし、川と城と街並みを眺めるのだ。時折、両手の人差し指と親指で四角を作りその中をカンバスに見立てどんなふうにこの風景を描こうかと想像する。城を中心にとか、城を端にやって街を中心に描くとか、川を前面に出し、奥側に城と街並みを描く……、等想像たくましくしてしまう。娯楽が多くないこの世界ではそうやって時間を潰した。


 やがて空は夕暮れになる。太陽レヴィが地平の向こうへ沈む時、この世界でも夕暮れがやってくる。それは日本のそれとは遜色ないものだった。それが日本を思い出させる。やはり、十年間、この世界で暮らしたとしても、新しい家族がいたとしても、時折日本へ帰りたいという郷愁に駆られてしまう。外国に行ったのとは訳が違う。もう、どうやっても帰れないのだから、普通に感じるそれとは別格だった。


 二度と帰れない、のだと思うと目の前の風景が途端に物悲しさを放ち始めた。


 ある日、母の手伝いを終え、暇になった私はまたレミュドー川の沿岸に腰掛けて、風景を頭の中でシミュレートしていた。


「ねえ……!」


 そのままの色合いで描いてもいいし、少し屋根の色を変えてもいい、絵なのだからオリジナリティがあってもいいのだ。


「ねぇってば……!」


 両手で四角を作り、あっちにこっちと腕を動かし構図を考えてみる。


「ちょっと……!!」

「なっ……!?」


 両手の四角が激しく揺れたことに驚き、私は声を上げた。地震か? いや、この世界で地震は感じたことはない……。ふと、その時に私の左側に人影があることにようやく気付いた。視線を上げていくと、私と同じくらいの歳の少女が仁王立ちで立っていた。


「……」

「……」


 私達は見つめ合ったまま微動だにしなかった。私が思ったことは、なぜこの子は仁王立ちなのだろうか? という事だった。


「誰……?」


 私がやっと発せた言葉それだけだった。


「ねぇ、君はさ、絵描きさんなの?」


 ドキリとした。ただ風景を眺めていただけなのになぜそれが分かるのか。


「え……? いや、違うよ」


 とっさに嘘をついた。いや、嘘じゃないか? 、画家じゃない。ただの学生だ。


「本当に〜? さっき、何か両手でこうやってたじゃない」


 少女は、私がやっていたように両手で四角を作って見せた。


「あ……。いや……。でも、それって……」


 写真かもよ、と言おうして、この世界に写真に該当する単語が無いことに気づいた。カメラは無いから言葉もない。


「それって、何よ?」

「あ、いや。ごめん、何でもない」

「ねぇ、とにかく絵描きさんでしょ? こうやってやるのはこの手の形を紙に見立ててるから、よね?」

「そうだよ」


 私は観念した。


「そっかぁ、こうやれば紙に実際描かなくても構図が取れるわね」

「え? 知らなかったの?」


 知っているからこそ私を絵描きだと判断したと思っていたから意外そうな顔をすると、彼女も意外そうな顔をした。


「こんなやり方誰も思いつかないもん。皆、いきなり絵を描き出すわ。……でも、学長なら思いつくかも」


 私は耳を疑った。


「え!? 今、今なんて?」

「いきなり絵を描き出す……って」

「いやいや、そこじゃない。その次、ヒルダンって言わなかった? ヒルダンって、あの……?」

「ヒルダン=ユッカ=ウェザリンよ。絵描きの中では有名よ」

「知ってる! この街にいるの!?」


 柄にもなく興奮して言ってしまう。


「ええ。リカロンド地区で学校をやってるわ」

「そ、そこに行けば会える!?」


 気がつけば視線だけを彼女に投げかけていたのに身体ごと彼女の方を向いていた。それだけ興奮していた。


「え、ええ。リカロンド絵画学校よ。そこの学長をやっているわ」

「そうなんだ……!」


 私は気が付くと右手で握り拳を握っていた。自身の絵を更に高められるチャンスだ。だが……。


「いや、家は貧乏だからそんな高そうな学校に行くことは出来ないよ」


 浮かれていて忘れていたが、我が家にそんな稼ぎはない。父の稼ぎでは毎月普通の暮らしをするのがやっとだ。日本の父は稼ぎがよかったから、今思えば贅沢させてもらっていた。


「フフン。甘いわね」

「何が?」

「ヒルダン学長はいろんな才能を開花させるため、無料で生徒を受け入れているの」

「無料で!?」

「そうよ」

「ど、どうしてそんなことを?」

「画家をやってる時に気付いたんだって。自分の絵が売れて、沢山お金が入ってきて……。でも、それが何なのだろうって思ったって」

「……」


 私の心に少しどす黒い感情が湧き上がる。絵を描いて金を得られる……。それは画家の第一歩だ。偉大な画家でも生前評価されず貧乏暇無しだった者もいるし、絵で食えていた者もいる。私の好きなゴッホは前者だし、これまた好きなピカソは後者だった。画家として、潤沢な資産を持っていることは悪いことではない。稼げたことを無意味だと思う感情自体が、もう金持ちの道楽でしか無いと私は思っている。


「だから、そのお金で子供達に絵を教える場を提供しようと思ったらしいわよ」


 そうか。少し早合点したようである。ノブレス・オブリージュを果たそうとする紳士であるようだ。

 金銭的な問題が無いのであれば、母と父に言ってみよう。


「あ、ありがとう! 君、名前は?」


 柄にもなく女性の名前を聞いた。日本に居た自分だったら出来ない芸当だった。


「私? 私はエリンよ。リカロンド美術学校の生徒」

「え? 君も生徒なの? じゃあ、ヒルダンに会ったことは……」

「もちろんあるわよ! 一回だけだけど。話したことはないわ」


 それは会ったとは言わない。多分遠目に見かけたことがあるだけだろう。それは例え生徒であってもヒルダンに会うのは難しいという証左だ。だが、裏を返せばそれは生徒になればヒルダンに近づくことはできるということだ。


「楽しみにしてるわ。えーっと……」

「僕はリーグレット。リーグレット=シェーダ」

「ではリーグレット! また会いましょう」


 長い金髪を翻し、彼女は堂々とした足取りで離れていった。


「あんまり見たことないタイプの子だったな……」


 私はすっと立ち上がると家へと向かった。

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