第5話

泣き疲れてしまったのか、気が付くとダイニングテーブルで突っ伏して寝むてしまっていた。視線を窓の外に向けると外は暗くなっていた。


「寝てしまったのか……」


 みっともなく一人で泣き疲れるなんて……。そう思うと急に羞恥心が去来した。ヨロヨロと椅子から立ち上がり顔を洗おうと風呂場横の洗面台へと向った。

 洗面所の電気をつけ、洗面台の目の前に立つ。鏡にはくたびれた中年の、世間では『オッサン』と呼ばれる部類の顔が泣き跡をつけて映る。


 この草臥れた顔を見て、自嘲してしまう。

 世間も、生き方も、何も知らないその顔。

 これを笑わずして何を笑おうか。


 とりあえず私は自嘲をやめ、顔を洗うことにした。顔を洗えばこのしょうもなさに終止符が打てると考えたからだ。水の蛇口をひねる。温水の蛇口もあるがそちらはガスをつけなければ温水が出ず、ガスのボタンを押すことさえも億劫であり、また、自身を引き締めるためにも水の方が都合が良かった。


 人差し指の指先で水に触れる。とてつもない冷たさが指先から全身を巡る。この冷たさに一瞬たじろいだが、意を決して喝を入れるために、両手を受け皿にし水を溜めた。溜めた水を顔にぶつけると、顔面の温度が一瞬にして奪われ、それに伴い鳥肌が立った。


 私は鏡を確認する。

 まだだ――。

 まだ、疲れた顔をしている。

 まだ、何も知らない顔をしている。

 まだ、甘えた顔をしている。

 もう、誰にも頼ることはできないのに。

 ――いよいよ全てを失ったのだ。

 父と母と、吉田さん。


 もう一度手のひらに水を溜め、顔へ打ち付ける。二度目は最初に比べると冷たくは感じなかった。流れる水はそのままに鏡へ視線を移す。

 自身の瞳に少しだけ光が宿った気がした。それは、まだ生きるということを捨てていない希望だ。今ここで私は生まれ変わったのだ。先程、私に降り掛かった飛沫は聖なる水だったのだ。


 そして、今はこれで十分な気がした。


「呑みに行こ……」


 気晴らしに、そして、生まれ変わりの最初の一歩を祝して居酒屋へと足を運ぶことにした。暗くなった辺りは一際冷えた空気が私を襲った。ブルリと一震えし、足を動かした。


 いつも惣菜買っているスーパーがある商店街。

 暖かそうなオレンジ色の光が店から漏れ、商店街を照らしている。何処へ入ろうか値踏みをしていると、ぼんやりと提灯が下がっている店が目に入った。


「だんだん……?」


 店先の暖簾にだんだんと書かれ、寒風にはためいている。初めて見るお店だった。私は誘われるように暖簾をかき分け、店内へと足を踏み入れた。


「いらっしゃい!」


 活気のいい声に出迎えられる。

 店内は人でごった返していた。以外に人気店のようだ。店内を物珍しそうに眺めているとエプロンをした中年の女性が私の前へ現れた。


「お一人ですか?」


 私は虚を疲れて、しどろもどろに


「ひ、ひと、一人です」


 と答えた。女性は私の答えに満足げな顔をして厨房に向かって、

「お一人様入りまぁぁす!」

 と元気に吠えた。そして、そのままカウンターへと誘導され、導かれるままに木の椅子に腰を下ろした。


「はい。おしぼりとお通し! 飲み物は何にしますか?」


 女性はえんどう豆とおしぼりが目の前に置くと、ボールペンと注文書を握りしめ、何にします? とでも言いたげな視線をよこしながら、私の横に立った。


「とりあえず……ビールで」


 お品書きも見ないで私は注文した。ビールはどこにだってあるから、お品書きなど見る必要はない。

 ビールが来るまでの間、お通しとして出されたえんどう豆を一つ摘んで口に放る。


 活気に溢れた店内、仕事帰りのサラリーマンなのかスーツをしっかり着た客が多い。

 もしかすると、私もああなっていたのかもしれない。


 楽しそうに同僚と酒を飲み交わし、下らないことを語って笑える時間。他の同僚や上司の悪口、趣味の話なんかができる相手。


 それらが羨ましくもあり、妬ましくもある。

 いや、羨ましさと妬ましさは紙一重か。


 一人でこのお店にいるのは自分だけであることにふと気が付いた。どのテーブルも複数人で雑談している。一人だけ社会から取り残されたような気になり、私はため息を一つついた。


「どうしたんです? お客さん」


 そんな私を見て不憫に思ったのか、カウンターの中から私と同じぐらいの年齢……、いやもう少し若いか、そのぐらいの男性店員に声をかけられた。悩みなどなさそうな爽やかな笑顔であった。


「いえ……、いろいろありましてね……」

「人生いろいろありますからね、まぁ! パーッと呑んで忘れましょうよ!」


 店員は、視線をこちらに向けたまま、慣れた手付きで焼き鳥を焼きながら言った。

 随分慣れてるな……。前からこの仕事をやっていないと出来ない芸当だ。


「このお店、前からここにありましたか? この商店街に……」


 私は疑問だった事を口にした。


「いえ! 二ヶ月前ぐらいにオープンしたんですよ! ようやく自分の店が持てましてね!」


 やっぱり……。私の思い違いでなかった。


「ようやく?」

「ええ! もうずっと別の店で焼き鳥焼いてたんですけど……、やっぱり自分の店がほしいなぁって。そう思いましてね。それで一念発起! ここまでこれました」


 そういう人もいるのか。この人は何回、何千回と焼鳥をくるくると回し、焼いてきたのだろう。その結果がこの店だ。


 羨ましい。

 浅ましい感情がやはり芽を出した。この人の苦労を度外視して、結果だけ見て羨ましがる等となんと浅はかなことか。


 とはいえ、そうは思ってもやはり羨ましいものは羨ましい。こちらは画家として大学を出てからずっとやってきて、結局芽が出ることもなく筆を折ってしまった。

 カウンターを隔てて成功者と脱落者が相まみえている。この対比を絵にするとどんな構図だろう? どんな色合いだろう? 私は暗い色でこの店主が明るい色でこの成功度合いを見せるか?


 頭の中でそんなことを考えてしまう。私は乱暴に頭を振るとそんな思考を追い出した。私の未来は全く定まっていない、黒色の未来だ。こんなことを考えても明日を生きるためには、何の役にも立たない。


「大丈夫ですか? お客さん?」


 私を心配して成功者……、店主は声をかけてきた。


「あ、ええ……、大丈夫です……。すみません」


 反射的に謝ってしまった。


「お客さん、こんなこと言うと気にされるかもしれませんが、何か嫌なことありました? 随分表情が暗いですよ?」

「え、ええ。今日不幸がありまして……」

「ええ!? そ、それは失礼しました。でも、それなら尚更大丈夫ですか? こんな所でお酒呑んでて? 準備とか……」

「あ。私の身内じゃないんです。私がお世話になってた方の、です」

「そうなんですか……。それでもお辛いですね。よくお会いになってたんですか?」


 人懐っこい店主の表情に陰りが見えた。本当に悲しんでくれているように見えた。


「あそこの路地の所にアトリエがありまして、そこの持ち主の方だったんです。私は画家の端くれでそこのアトリエで個展を度々開かせてもらっていたんですよ」


 私の言葉に店主は目を大きく見開いた。


「え!? あのアトリエ……って吉田さんのとこの……? え? え? な、亡くなったんですか!? 吉田さん!?」


 知り合いだったのだろうか、店主は取り乱し始めた。その姿に私は面食らってしまった。意外な反応だったからだ。


「ええ。今日の朝、亡くなっていたそうです。病院に搬送されていて娘さんがそこにいまして……。そこで話をして事の顛末を聞きました。吉田さんのこと店長さんも知ってたんですね」


 悲しげな色をたたえた瞳で笑って店主は言った。


「ええ。さっきも言いましたけど二ヶ月前にここに店を構えましたけど、その時にお世話になりました。最初に声かけられたのが吉田さんなんです」


 ここにも吉田さんの厄介になった人物がいた。あの人は誰にでも優しかったのか、と感傷にひたる。


「そうなんですかぁ……。あぁ……、吉田さんがなぁ……」


 最後の方はもう消え去っていた。心なしか彼の瞳には涙が溜まっているように見えた。たった二ヶ月だけお世話になった彼のほうがより感傷に浸っているようにみえる。数年お世話になったくせに涙一つ流せない自分を急に恥じた。


 そんな感情を悟られないように、ビールを一気に飲み込んだ。ジョッキを空にし、もう一杯同じものを頼んだ。そして、ビールに合うものはないかと店内を見回す。と、壁に見覚えのある絵が額にかかっているのに気付いた。


「店長……。あの絵」


 私は絵を指さした。暗い色を基調とした竜の絵。鉛筆で下描きせず、筆を走らせ、そのかすれ具合で羽や尾を表現してある。竜のバックには青空で太陽がのぼり雲がいくつか描かれている。その雲も、疾走感を出すために筆を左から右へ走らせてあった。


 黒い竜が青空を飛ぶ。

 それをイメージしたものだった。


「あぁ、あれですか。吉田さんのアトリエで展示会してた時に気に入ったんで買ったんですよ」


 あの時、来てくれたのか。


「黒い竜が猛スピードで飛ぶ。それを表現してるんだそうですよ。竜と焼き鳥屋って全然合わないですけど……。まぁ、飾っておきたくて」


『気に入った』『飾っておきたくて』

 そんな事を言ってくれるなんて。

 その絵を描いたのは自分です、と言いたくなった。どんな顔をするだろう? 

 落胆だろうか?

 喜んでくれるだろうか?

 逡巡する。


 少しの間をおいてやはり言うのを止めた。夢を壊すようで……、いや、最悪の未来を想像して自身が逃げただけなのだ。この絵を描いたのがこんな『オッサン』だと分かったら、幻滅をするだろう。そう思われるのが怖くて言い出せなかったのだ。


 カウンターに新しく運ばれたビールを口に運ぶと、何だか店主とそれ以上話しづらくて、黙々と一人呑んだ。

 

 私は千鳥足で店を出た。結局は三時間程飲み食いをした。新たなる自身の門出と身近にファンがいてくれた事が嬉しくてついつい呑んでしまった。おかげでフラフラとなってしまい、うまく歩けない。商店街には往来がまだまだある。もう一軒いきましょうとか、サラリーマンが言っている。冷たい風が頬を撫で酔いを覚まそうとしてくれているが、全然効果が無い。


 それよりも。

 吉田さんのアトリエと絵本以外で自身の絵が飾られているのを初めて見た気がする。とても嬉しかった。絵本の絵を書いた時にも確かにファンレターは届いた。だけど、それは絵本の内容と常にセットだった。書いてくれた本人はもしかしたら、絵を本気で褒めてくれているのかもしれない。しかし、私からすると内容を褒めるついでに絵も褒めておけという忖度と呼ばれるものがそこに潜んでいるようにみえて、素直に喜べなかった。


 絵だけを素直に褒めてくれた人、というのに初めて会った気がした。自分のアイデンティティーが認められた気がした。自身の描きたいものを描いて褒めてもらえる、気に入ってもらえる。こんなに嬉しい事だとこの歳になるまで知らなかった。


 そう思うと私はまだ筆を折るべきではないのだろうか。まだ尚早だっただろうか。


 今日、自分は生まれ変わった。

 だが、今一度戻ろう。生まれ変わる前の自分に。

 そして、明日から再び絵を描くのだ。

 自身が培った経験と技術とセンスで。

 右手で小さく握りこぶしを作った。

 

 次の瞬間に強烈な衝撃が私を襲った――。

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