第4話
「父は、脳梗塞でした」
吉田さんのアトリエで作業するための机を挟んで、吉田さんの娘……香織さんと相対していた。
外では寒いから、と中へ入ることになった。
アトリエには、今は亡き師の教え子の自画像達が微笑みを投げかける。彼らはまだ知らない。自分達の師がもうこの世にいないことを。
「父はいつも早起きなんです。何もなくても……。それが今日は、全然布団から出てこないから、呼びに行ったら冷たくなっていて……。これから葬儀の準備なんかで忙しくなるので、その前にアトリエに休みの張り紙をしておこうと……」
吉田さんは別に高齢と呼べるほど歳はとっていなかった。私の数個上、その認識だ。陰った香織さんの顔を見て私はなんと言えばいいのか分からなかった。私自身が両親を失った時、いかなる言葉も心に届かなかったからだ。慰みもお悔やみも何もかも。
言うだけ無駄、そんな感情が去来していた。
「……」
立地の関係でよく差し込まない陽の明かりがアトリエを薄暗くしていた。
互いに何と言えばいいのかと牽制して、数分がたった時、彼女が口を開いた。
「そういえば、どうしてこのアトリエに?」
彼女の身の上話ばかり聞いていて、自分の素性を話していなかったことに気づいた。
「あ……、私、ここを時折借りて個展を開いていたんです……、つい先日も……」
「あ、斎藤さん!?」
「え? あ……そうです。斎藤です」
今私はようやく自分の正体を明かしたのだ。それまで見知らぬ誰かだった。
「父からよく聞いていました。絵の才能がある方だと……。絵のタッチも、構図も天才的だと言っておりました」
「え?」
以外だった。そこまで買ってくれていたとは。
「吉田さん、そんなことを仰っていたのですね。ですが、私は吉田さんの期待にそえなかったですね。芸術の世界は技術も必要ですけどやっぱり大事なのは、時の運ですよ」
ははは……と私は力無く自嘲した。
「あ、話を戻しますね。それで運の無い私は画家をやめてかねてより吉田さんに誘われていた子供絵画の先生をやりますと意思表示をしに、本日はここへと足を運んだのです」
「それで……」
私は彼女の言葉に小さく頷いた。
「びっくりしました。吉田さん……亡くなっただなんて……」
新たなスタートを切ろうとした私に、もちろん吉田さんにも残酷な結果を天はもたらしたのだ。
「そうだったんですか……」
「もう、こうなってしまうと絵画教室は……」
「すみません。今は何も考えていません。私は父と違い芸術的なセンスは何もなくて……。子供達に教えてあげられることは何もありません。現に私はただのOLですし」
彼女もまた自嘲気味に笑った。
「そうですか……」
私は香織さんに同情すると同時に自身の将来を悲観した。これから先どうやって生きていけばいいのだろう?吉田さんを当てにして描いた絵は全てゴミに出してしまった。
今の私には何も残っていない。
アトリエだけ貸してもらい、私が絵を教えようか。そんなことも脳裏をよぎったが、そんな図々しいお願いができようはずもなく、時間だけを浪費した。
「今度……、お家へ伺ってもいいですか?」
気がつけばそんな言葉を口にしていた。私の言葉に面食らったようで、え?と漏らした。
「あ! あの、吉田さんにお線香をあげたいんです」
私は下心から言っているのではないと弁明した。それが彼女にしっかり伝わったかどうかは不明だったが、
「それなら……父も喜ぶと思います」
の快く応じてくれた。
その後、病院へ戻らないといけない、と香織さんが言うのでアトリエの前で別れた。道すがら思いがけずため息が出た。彼女の境遇や今後の自身の事を考えたからだ。
一番根が深いのは自身の今後の方だが。
そんな悩みを持つ頭とは対照的に腹がグゥゥゥゥウ、と情けない音を出した。一つの体に共存するくせに脳と胃は意思疎通が上手くできないらしい。昼食を調達しようといつものスーパーへと向かう。自動ドアを抜けると暖かい空気に包まれる。暖房が効いているようだ。弁当だと値が張るので百円ほどで調達できるカップラーメンとこれまた百円のオニギリを手にレジへと向かった。これから先は貯金を切り崩して生きていかなければならない。それなりに遺産はあるとしても、少しでも節約はした方がいいも判断した。
今日はあの子はいない。それはそうだ。今は平日の午後。まだ学校に行っている時間だろう。
レジでは、私と同じぐらいの年齢の女性が待ち受けていたので、手に持っていた商品を店員に渡し、お金を払い店を出た。店と外との温度差に一つ身震いし、私は寂しく帰路についた。
誰もいない家の扉を開ける。一歩玄関に踏み入れても感じられる温度に変化はない。もうこの家に温もりは無いのだ。両親が居た時には、まだ室内の温度は高かった気がするが。
早速カップラーメンを作り始める。カップラーメンの封を開け、電気ポットの口の下に差し込んで、ポットの天頂を押し込む。シュコー、シュコーと音がなるだけでお湯が出ない。
「何だ、水切れか……」
ポットに水道水を注ぐ。ポットに溜まっていく水を眺めていると、
母が居てくれればこんなことは……。
などという甘えが感情の底から湧き上がってくる。
水がいっぱいになったのを確認するとポットを元にあった場所において、沸騰ボタンを押して、ダイニングテーブルに腰を下ろした。
自分はいつまで甘えているのだろうか。いない両親に。
吉田香織を思い出す。
あの整った顔立ちに聡明そうな瞳。
彼女なら両親がいなくともしっかりと生きていけるだろう。そんな気がした。きっと私のように亡き両親の財産を切り崩し、亡き母親に頼ったりすることは無いだろう。自身の情けなさと無力さを痛感する。
自分は一体何をしてきたのだろう?
吉田さんまで亡くなり、いよいよ私は進退窮まった。
サラリーマンでもやるか? 今更? 何もしてこなかったのに?
絵しか描けない奴が会社で何ができる? パソコンも使えないくせに。
使えるのは筆だけ。いや、その筆さえ振るうのに今は自信が無い。
自分は一体何の為に生まれてきたのか?
こんなに役立たずで。
誰がこんな自分を必要としてくれるのだろう?
その時――。
ピピーと音がリビングに響いた。最初は何かと思ったが。
「ああ。ポットか……」
電子ポットがこんな音をならすことさえも知らなかった。なんと自分は世間知らずか。
いつまでも父と母に守られるだけの存在。永遠に続くと思っていた庇護の幕切れ。
自身の情けなさに涙がこぼれた。
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