第3話

 カーテンから差し込む朝の光に導かれて私は目を覚ました。アトリエから戻った後、そのまま自室へと向かいベッドへ潜り込んだのだ。

 目を覚ました私はそのまま上体を起こし欠伸を一つし、部屋の一瞥した。部屋の中では冬のカラリとした太陽の光が室内を舞うホコリの一つ一つを輝かせている。


「そういえば最近、掃除……してないな」


 布団に半身を突っ込んだまま、未だ目覚めぬ自身の脳の覚醒を待った。しかし、いつまで待っても脳の目覚めは感じられなかったため、もう無理矢理に起こそうとベッドから出た。


 一階へと降りる。シンとした誰もいない朝起きてからのリビングというのはいつまでも慣れない。いや、慣れなくてもいいのかもしれない。慣れる時というのは両親の事を記憶の外へと追い出してしまった時だろう。ならば永遠に慣れなくてもいい。


 広々として寒々しいリビングには閉じられたカーテンの隙間から陽光の筋が一本キレイに伸びている。私はリビングに向かうとカーテンを真っ先に開け、その外の明るさに目を細めた。


 今日も冬のスカイブルーが輝いている。

 私はソファに座るとリモコンを操作し、テレビをつけた。いつもの見慣れたニュースキャスターが画面には現れた。今日は一体何を言っているのか。

 世間に人達はいつも何か新しい情報がないと気がすまないのか、日々次から次へと話題が変わっている。


「下らない」

 そう言うもテレビを見入ってしまう。今日は中年の派遣社員について話をしている。正に今の私にタイムリーな話題である。

 正社員になれないせいで年収も上がらず、年収が上がらないせいで結婚もできない。そのせいで両親を喜ばせることもできない、とテレビでは喧伝している。


 私は両親を喜ばせることが出来ただろうか? ふとテレビに感化されて、考えてしまう。

 孫を抱くこともなく彼らは天へと向かってしまった。彼等は孫の顔が見たかっただろうか?

 私が産まれたその時にはこんな現実がやってくることを予期していただろうか?

 私は親不孝ものだ。


「正に! 親不孝ですよ!」


 私の考えを読んだかの如く、テレビのかつてはお笑い芸人をやっていた男が声を上げた。テレビで全裸になって笑いを取ることは親不孝ではないのか、と思い巡ったが、恐らく画面の向こうの彼からすると結婚もしないで派遣社員等というポジションに甘んじているほうが親不孝なのだろう。

 派遣社員と画家、そう変わらないな、と独り言ちてソファから腰を上げた。家の中の廊下を通り、アトリエへと向う。


 昨日の夜の空間と違い、陽の光で私が描いた絵たちは別の雰囲気を醸し出している。

 だが、今日でそれも見納め。

 筆を折ると決めたなら、これら……、ある意味私の子供たちを葬ろうと考えた。丸い木椅子をアトリエの中心にガラガラと音を立てて引っ張ると、私は座って、改めて絵達を眺めた。


 一つ一つに苦労が詰まっている。あのタッチはあの時だけ、奇跡的に出せたものだとか、あの色はあの時だけたまたま作り出せたものだとか、そういう苦労を挙げ連ねると枚挙にいとまがない。

 そういう意味ではここにある絵達は、唯一無二の存在なのだ。死ぬ間際でも無いのに、汗水垂らして我武者羅に絵を描いていた時の事を思い出す。一番下手な絵を視界に入れる。あの絵を描いていた時はまだ、絵一本で食べていくのだと意気込んでいた。


 両親もそんな私の背中を押してくれていた。だが、いつの間にか押してくれる力も弱くなり、そのうち押してくれる存在はいなくなってしまった。 

 私はおもむろに立ち上がると、近くにあったカンバスを手に取り力を込めて真っ二つに折った。バキリ、とアトリエに音が響いた。


 それはもしかすると絵が死ぬ音なのかもしれなかった。


 全て殺し終わると街のルールに従い、絵を分別してゴミ袋に入れた。もちろんあの子を描いた絵もだ。後日、燃えるゴミとしてだそう。そう決めた。

 時計を見ると、正午を過ぎていた。特段空腹を覚えているわけではないが、吉田さんのところへ寄るついでに昼食を調達しようと考えた。


 早速着替えて、家を出る。誰もいない家、何も盗られる物も無い家に施錠をする。

 寒空に向かってハァ、と一息すると、白いものが空へと伸び消えていった。今日も抜群に天気が良い。

 昨日私の個展が開かれていたアトリエへと向かうために商店街へと足を向ける。平日の午後、人通りはそんなに多くはない。子供達はもちろん学校へ行っているし、サラリーマン達は会社に行っている。すれ違う人は主婦や、老人達ばかりだ。


 この人達に私はどう映っているだろう。


 そんな悲観的な事を考えていると、吉田さんのアトリエへと辿り着いた。アトリエの引き戸の上部は障子のように小さなガラス枠組みで構成されており、そのガラスを通して中を伺いしることができた。


「誰もいない……」


 電気もついておらず、昼間というのにアトリエの中は暗かった。いつも吉田さんはこの中で作業をしていた。それは午後、子供達に教えるための習作であったり、はたまた知人から頼まれた絵であったりと何かしら作っていたのだ。


 だが、今のアトリエはがらんどう。主のいないアトリエから寂しげな雰囲気が漂う。私が不審者よろしく中を覗いていると、

「何か御用ですか?」

 とこわごわと背後から声をかけられた。


 私はハッとして、弁明するために即座に振り返った。振り返った私の視線の先には二十代の顔立ちの整った女性が紙を一枚持ったまま立っていた。


「あっ!? あの……、ち、ちがっ、違うんです!」


 初対面の人と喋るのは苦手だった。男性ですら苦手なのにましてや女性で、それも若く、それも美人。私の苦手分野のオンパレードだ。たじろぐのも致し方ない。


 案の定、彼女は私の言葉の意図を汲み取ることができず首を傾げたまま綺麗な水晶玉のような瞳を私に向けてくる。


「え……、あっと……、きょ、今日は、こ、こや、このアトリエ……、やってないのかなぁ……、って……」


 しどろもどろの私の言葉に女性の表情がかげった。


「このアトリエは今日で終わりなんです」

「え?」


 今度は私の方が彼女の言っている言葉の意図を汲み取ることが出来なかった。今日で終わり……?


「えっ……? そ、それは……、どういう、ぃ、意味ですか?」

「父は死にました……。だから、これを貼りに来たんです」


 彼女は、手に持っていた紙をピラピラと鳴らした。私はそれでも彼女の言っている意味が分からなかったが、一点の閃きによりそれを理解した。


「よ、吉田さんの、む、娘さん……?」

「はい……」


 困ったような顔をした彼女は、これまた困ったように肯定した。


「ち、ちち、というのは、よ、吉田さん……が、な、亡くなって、し、しまったんですか……!?」


 驚愕する私をすり抜けて彼女は、アトリエの引き戸に紙を貼り付けた。

『アトリエは本日で終了しました。今までありがとうございました』

 と綺麗な手書きの文字が並んでいた。


「だから、今日でこのアトリエは終わりなんですよ」


 寂しそうな声が寒空を浮遊した。

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