第2話

 靴を脱いでリビングへ向かい、電気をつける。暖色系の明かりに照らされて、朝出かけたままの部屋が私を迎えてくれた。テレビのリモコンの位置も雑誌の位置も全てそのまま、誰の手も入らない。外の花壇のように。


私はリモコンをガラステーブルから拾い上げると電源ボタンを押した。パッとテレビがつき、部屋の中にバラエティ番組の音が響き始める。


 テレビからの音をBGMにして、夕食の支度に取り掛かった。まずは買ってきたものを、一昔前は活躍していたダイニングテーブルに置き、上着脱ぎテレビの前のソファへ投げ込む。次にダイニングテーブルの上にビニールの中から惣菜を並べていく。その中の惣菜を一つ取り、台所の電子レンジに放り込むと1分温めるようにボタンを押した。その間私は、流れるようにリビングへと戻り、ビールを取り出し、プルトップを上げ、小気味いい音を聞いてから喉へ流し込んだ。


「プハァ……ッ」


 やはりビールはこの銘柄に限る。滅多に飲めない反動で殊更美味しく感じてしまう。そのまま二口目を喉へと押し込むと、電子レンジが1分経ったことを告げた。

 独り寂しい夕食を終え、バラエティ番組に目を向けつつビールの残りを飲んでるいと、ふと自分は何をしているんだろうという気になる。先程スーパーでも感じたことだが、歳が増すとこういう侘びしさを感じる感覚が増えてきた。


 バラエティ番組の内容では笑えず、自分の感性の世間とのズレを認識させられてしまう。自身の感性が世の中と合わないということは芸術家にとって致命的だ。独特の感性が独創性と言われれば認められた、といっていいのかもしれないが、そんな事が起こりうるのは一握り……ほんの一握りの人物たちだけだ。


 私はもう20年近く筆を握り続けているが、絵で食べられているという状況とは言い難い……。もちろん、今日個展に来てくれたあの女性のように気に入ってくれる人もいるが、食べていけるレベルなんて到達できていない。


 潮時かもしれないと両親が死去してから何度も考えた。両親が残してくれた遺産だけで、後どれだけ生きていけるだろうか。

 もし、サラリーマンをやっていたなら――。


 そう思うことも度々増えてきた。両親は死ぬまで、サラリーマンになれとか私に働け、と言ったことはなかった。いつでも、翔ちゃんの好きでいいのよ、と言ってくれた。表面ではいい言葉を口にしてくれていたが、もしかすると心の内では悪態をついていたかもしれない。それを確認する術は、もうない。


 空いた缶ビールを右手で潰し、歪な形にした。これを現代アートだと言い張って、美術館に展示してもらえないだろうか、なんてボンヤリ考えた。


「風呂に入ろ」


 ネガティブな考えを払おうと風呂に入ることにした。来ている服を脱衣所で全部脱ぎ、洗濯機に入れる。浴槽に水は貯めず毎日シャワーで済ます。浴槽に浸かってしまうと自身の淀んだワイン色の何かが浴槽いっぱいに広がっていく気がする。シャワーならば常に新しい水が絶え間なく、私の淀みと一緒に流れ行く。


 身体をひとしきり洗うと、今日の事を振り返った。個展の最終日だったからか、人もそれなりに入ってくれた。もしかすると吉田氏が根回ししてくれてたりするかもしれない。そして、客に話をした内容を反芻し、あれで良かったか?なんて自問する。最後にはスーパーのあの娘の微笑みが脳裏に浮かんだ。


 「モデルになってくれないかな……」


思わずボソリと呟い、私は慌てて頭を振った。それと同時に壁に無数の水滴がへばりついた。

 なんと馬鹿なことを考えたものか。あの娘にモデルになってもらおうなどと。

 もう親子ほどの年齢が離れているおじさんからモデルになってくれなんて頼もうものならばすぐに警察行きだ。


 それに……。私は人物画は得意ではない。幼少時にゴッホの『ローヌ川の星月夜』をひと目見て、風景画を書くと決めた。人生の殆どを風景画を書くための技術研鑽にあててきたのだ。今更人物画など書けようもない……。


 シャワーが床に降り注ぐ音だけが浴室に響く。数刻の後に私は我に返り、頭を勢いよく洗い、その次に身体を洗った。

 シャワーを浴びてリビングへと戻った。そして、ソファに腰掛けてリモコンに手を伸ばそうとして、止めた。

 アトリエへ向かおうと思ったからだ。


 そう思ったのには特に意味もない。ここ最近の自身に去来する侘びしさと向き合うのにうってつけの場所がアトリエだというだけだ。

 ソファから立ち上がると、アトリエへと向かった。家とアトリエは直接的には繋がっていない。間には土間があって、そこからスリッパに履き直す。


 ガラガラとステンレスの引き戸を開け、中に一歩踏み入れる。暖房も何もついていない部屋は、夜という時間も相まってか、かなりの寒さになっている。私はブルリと一震えをすると、戸の横の電灯のスイッチに手をかけた。灯りがパッとつくと部屋の中のイーゼルに立てかけられ、立ち並ぶ私の絵達を一つ一つ端正に眺めていった。


 あるものは栃木の雪にけぶる三本槍岳、あるものは茨城県の先から太平洋の青さ、あるものは箱根の街を見下ろすアングル、多摩川橋梁をモティーフに、ローヌ川の星月夜を真似して描いた存在しない風景など関東圏の風景を中心に全国の風景を描いたものたちだ。


 一つ一つに思い出がある。それらの絵が一つの道を作っており、その道の行く先には書きかけの人物画がある。丸い木椅子がそのカンバスの前に置いてある。私は椅子に導かれるようにストンと腰を下ろし、物言わぬ風景画たちを一望した。そして、後ろを振り返り書きかけの人物画をじっくりの眺めた。


 この絵はあのスーパーのアルバイトの娘だ。かぁっと顔面の温度が上がったのが分かる。輪郭や目元、髪の毛など絵の全体像は既に出来ている。後は、ディティールを付け加えるだけだ。


 だが、それが出来ない。この絵の中の彼女は微笑んでくれている。でも、実際の彼女は侮蔑の感情も同時に持ち合わせているだろう。その本質をこの絵から汲み取ることが出来ないのだ。私は、私には見せない、ごく一部の人にしか見せないであろう暗い情景でさえ描ききりたい。


 このワガママさが人物画を描く足枷になっているのだ。それは分かっている。分かっているが折角描くのであればそこまで描かねばなるまい。

 陰影を駆使して、人の悪意のある部分まで書ききる。それをやれてこそ人物画は描く価値があるのだと私は思っている。


 「はぁ……」


 と一つ溜息。絵の中の彼女と目を合わせる。絵となら目を合わせるのも造作もないのに、何故実物と相対するとこうも身体が硬直してしまうのだろう。これは恋なのだろうか?


 バカな――。

 下らない。どうしてあんな年下の娘を――。


 いや違うな。これは恋だとか愛だとかそんな青いものじゃない。これはコンプレックスなのだ。画家をやっていなければあのぐらいの子供がいたのだという心の奥からやってくる後悔の色だ。もっと違う人生があったのだという未練の声だ。


 そう考えて私は席を立った。十分に冷えた身体は全身が粟立ち、限界だと警鐘を鳴らしていた。カンバス達に見送られながら、入り口へと向かい、電灯のスイッチをオフにした。


 真っ暗な部屋の中で、彼女の絵が月光を浴びて浮き彫りになっている。これは何かの暗示なのだろうか?

 いや、もう――。時間がないのだ。

 もう私は限界なのだ。

 画家を辞める。

 もっと早くに決断すれば良かった。

 そうすればもっと違う何かが見えていただろう。

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