009 余光

「はぁ……はぁ……」


 氷太朗は肩で息をしながら、両手で握りしめていた三鈷剣サンコノツルギを捨てた。

 肉や骨を切り裂いた感触がまだ掌に残っている。

 なんて不愉快な感覚だろうか。

 氷太朗はその場で膝を付くと、その不愉快な感覚が響き続ける手で、氷華の頬を撫でた。


「姉ちゃん……」


 坂之上氷華の罪は計り知れない。彼女の計画のせいで、何百人の尊い命が失われただろう。血塗られた彼女の魂は、決して赦される事はない。

 だが、その根底にあったのは、『弟を守りたい』という気高くも暖かい心だ。

 それは、守られていた側の人間である氷太朗にもひしひしと伝わった。

 だからだろうか。


「ありがとう……」


 その言葉しか出なかったのは。


「ありがとう、姉ちゃん……」


 氷太朗は涙を流した。


「本当にありがとう……」


 沢山の涙を。


「何もできなくてごめん……」

「そんなことないわ」

「え――」


 振り返ると、そこには氷華が立っていた。

 誰かに乗り移った氷華ではなく――氷華の魂が。

 欲も未練も煩悩も三鈷剣サンコノツルギによって断ち切られた――ありのままの氷華の魂が。

 もっとも、下半身はなく、上半身も三鈷剣サンコノツルギによる致命傷から徐々に崩壊が始まっているので形は歪だ。


「氷太朗が傍に居てくれたから、私は頑張れたの」

「でも、僕がいなければ、姉ちゃんはもっと良い人生を歩めたはずだ……!」

「ううん。氷太朗のいない人生なんて、これっぽっちも幸福じゃないわ」


 氷華は消えつつある顔に笑顔を浮かべて言った。


「私、貴方のお姉ちゃんで幸せだったわ」

「僕もだよ! 僕も、姉ちゃんの弟で――幸せだった! ありがとう!」

「こちらこそ、ありがとう。そして――本当にごめんなさい」


 そう言って、氷華は光の塵になって散って行った。

 あの世に行ったのではない。

 魂ごと消滅したのだ。

 だから、天国で会う事も、輪廻転生して一緒になることも――もうない。


「さようなら、姉ちゃん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る