004 地獄

 氷華の背後に現れた門は、とても巨大であった。横幅は一〇メートル、高さは五メートルくらいはあろう。見た目は平安宮の朱雀門にとても似ている。違う点と言えば、柱が全て赤黒い炎で出来ている点だ。

 見た所、門扉は閉ざされているが――開かれるのは時間の問題だろう。

 氷太朗がこれを見るのは二度目だった。一度目は父が召喚したモノだが、あの時はデモンストレーションだったのでサイズは幾分も小さかった。門から発せられる熱も、これほど熱くはなかった。何よりも、このように禍々しい威圧感は感じなかった。

 氷太朗の父――坂之上氷助サカノウエヒョウスケはこれを『六道門ロクドウモン』と呼んでいた。曰く、自身が開発した究極の口寄せ術で、門扉を開けば大量の式神を放つ事が出来るのだとか。


「もう一度言うわ、氷太朗」


 氷華は顔を上げて、言った。


「さっさと寄越しなさい。でないと、無駄な血が大量に流れる事になるわ。勿論、貴方の血ではなく、ここの住人の血だけれども。……それはその女も望んではいない筈よ?」


 氷華は美夜を一瞥する。


「約束が違うじゃないか……! 顕明連ケンミョウレンを抜く事が出来なければ退くって、約束しただろ⁉ 常夜の人々に危害を加えないという約束もした筈だ!」

「五月蠅い! 五月蠅い五月蠅い五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い! 餓鬼の遊びに付き合ってられる程こっちは暇じゃないのよ!」

「どこまで墜ちれば気が済むんだ……ッ!」

「お前まで私を見下すか!」


 氷華の叫び声が合図となった。

 六道門の門扉が静かにゆっくりと開き、中から大量の式神が出てきた。一〇匹や二〇匹ではない。何百、何千の妖が放流されたダムの水のように溢れ出している。

 式神の種類は様々である――長い鼻と鳥のような翼を持つ烏天狗もいるし、赤い皮膚に聳え立つツノが特徴の赤鬼もいる。腹だけが異様に膨れた餓鬼もいる。腕が六本もある翁もいる。三メートルはあろうかという背丈をした泥色の巨人もいる。まさに多種多様だ。されどこれだけ居るにも関わらず、一匹として氷太朗や美夜に向かっていく者はいなかった――妖達は四方八方に散って行く。ここではない場所のどこかに身を隠す市民を探し出し、喰い千切る為に。

 しかし、それは叶わなかった。

 門から二百メートルの距離に達した式神たちがほぼ同時に『見えない壁』に衝突したのだ。

 あらゆる方角から衝突音が響き渡る。


「物理干渉を遮断する結界か――」


 見えない壁に阻まれて進めない妖怪達を見た氷華は、氷太朗ではなく、その後ろの美夜をキッと睨む。

 それに対して、美夜は怯まず言った。


「一〇八重の結界を施した。流石の貴女と言えど、簡単には出られない」

「だから何? 閉じ込めただけでいい気にならないで。ここの住人を殺してから貴女を殺すのか、貴女を殺してから住人を殺すのか――その順序が入れ替わっただけよ?」


 妖たちの視線が美夜に注がれる。確かに、結界というのは、結界自体を破壊するか、結界に妖力を供給している者を殺せば、簡単に解除される。結界に邪魔をされて出られないのであれば、その根源である美夜を殺すのは道理であり、誰でも考える事だ。美夜だって考える。

 故に――策を講じておいた。


「■■■■■、■■■■■■■、■■、■■■■■」


 美夜は小さな声で呟き、両手を合わせた。

 すると数百匹の式神たちの足元にあった影がヌルリと浮き上がった。それだけではない。一瞬後には立体的になり、色がつき、そして立ち上がった。

 氷華の影も例外ではなかった――気付けば、氷華は自分自身と対峙していた。


「影が具現化した……?」


 妖術の類なのは、すぐにわかった。美夜が発動した事も。

 だが、それ以外は一切わからなかった。

 万の術を極めた氷華を以てしても。


「こんな術、聞いた事も見た事もないわ。貴女……何者?」

「知らなくて当然」


 両手を下ろした美夜は静かに言った。


「これは『常夜』に並ぶ酒月家の秘術」

「へぇ……凄いわね。面白い。後生のためにメカニズムを教えて貰えないかしら?」

「言う訳が無い」

「四肢を捥がれても同じことが――」


 最後まで言い切る前に、氷華の影は氷華に向かって拳を放った。それも、神足通を発動しながらの超高速パンチだ。

 氷華は反射的にそれを掌で受け止めた。同時に、空いているもう片方の掌を影の腹に叩き込み――炎を発射した。

 すると、腹に強烈な痛みと熱を感じた。


「は……?」


 嫌な予感がして自分の腹を見てみると、服の一部が燃え、露出した肌はひどい火傷を負っていた。それはまるで腹に炎を帯びた攻撃を受けた様であった。

 まさか、と思い、氷華は影の腹にも視線を移した。

 影も、氷華の腹のものと同じ傷があった。


「なるほどね」


 氷華は微笑みながら納得した。


「その妖術は影を具現化し、コントロールできる上に、受けたダメージは影の本体も反映させることが出来るってワケ」

「ご名答」

「なんて便利な妖術なのかしら。面白いわ。非常に面白い。でも、私には効かないわ」


 言って氷華は神足通を発動させ、氷太朗の正面に高速で移動した。

 氷太朗はその動きを天眼通テンゲンツウの動体視力で捉えていた――そればかりか、タイミングを合わせて拳を放っていた。だが氷華はそれを軽々と躱し、氷太朗の脇差を抜いた。そして、もう一度神足通を発動させ――今度は自身の影の前に移動した。


「こうすれば、影なんて無力化できるわ」


 氷華は自分の影を蹴飛ばす。

 地面に伏した影はすぐに立ち上がろうとしたが、氷華はその上から踏みつけて阻止する。そして最後に、何の躊躇もなく背中に脇差を突き立てた。

 影を貫いた脇差はその下の瓦礫に深く突き刺さったらしく、影は必死に身を起こそうとするが、鍔が引っかかって上手く起きることが出来なかった。


「脇差一本で無力化出来る術なんて、はっきり言って無価値ね」


 氷華は乱れた髪を掻き揚げる。その胸から大量の動脈血が噴き出し、その口からは血と唾液が混じった泡が立っている。

 その姿に狂気を感じない人間がどこに居ようか。

 少なくとも、美夜は恐怖を感じた。


「痛くないの……⁉」


 思わず問うてしまうくらいに。


「痛いわよ。痛くて痛くて仕方がないわ。でも、今まで受けた痛みに比べれば、全然へっちゃら。何とも無いわ」

「狂ってる……‼」

「温室育ちのお嬢様らしい台詞ね。気に食わないわ――鬱陶しい結界諸共死ね」


 氷華は掌を向けると、青い炎を発射させた。

 その動きは一瞬であり、美夜は全く反応が出来なかった。

 だが、氷太朗は動いていた。


「危ない!」


 氷太朗は神足通を発動しながら飛び出し、美夜を火炎の射線上から弾き出した。

 自動車に撥ねられたように吹き飛ばされた美夜は宙を舞ったが、上手く着地が出来た。


「氷太朗くん!」


 すぐに顔を上げて氷太朗を探すと――氷太朗は既に氷華の懐に入り、拳を繰り出だそうとしていた。

 最初の一撃は、顔面狙いの大振りな物だ。それを躱されると、間髪入れずに、脇を絞めた鋭い左拳を放った。けれども、それも躱されてしまった。それどころか、伸びきった左腕を持って投げ飛ばされてしまった。


「まだだッ!」


 受け身をとった氷太朗はすぐに体勢を立て直し、今度は得意の回し蹴りをした。神足通の加速を乗せた蹴りだ。普通の者では、眼で捉えることすら出来ない蹴りだ。

 だが、氷華は『普通の者』ではない。


「羽虫が止まったようだわ」


 氷華は立てた人差し指で蹴りを受け止めると、意趣返しと言わんばかりに回し蹴りをした。

 それを受け止めるのは氷太朗の顔面――ではない。光の壁であった。


「これは……ッ!」


 一瞬だけ出現し、一瞬だけ蹴りを受け止め、一瞬で消えた。氷華はその一瞬で、全てを察した。これは美夜の妖たちを足止めしている『物理干渉遮断結界』の一種だ。


「どこまでも鬱陶しい女ねェ!」


 思わず氷華は美夜を睨みつけた。

 その隙を見逃さない――氷太朗は目一杯の力を込めた拳を氷華の顔面に叩き込んだ。

 手ごたえは無かった。

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