003 流血
数キロメートルの距離をジャンプした氷華が着地した瞬間、周囲は大きな衝撃波に襲われた――瓦礫は彼女とは反対の方向に吹き飛び、その下にあったアスファルトは大きく陥没する。巻き上げられた土煙は辺り一帯を包み込んだ。
まるで隕石が落下したかのようなクレーターが一瞬にして完成する。
しかし、町の中心部であるにも関わらず、悲鳴は一つも上がらなかった。
当然だ。市街地には数刻前に避難命令が出されている。市民も、神社の人間も、御城の人間も、みんな月夜神社に身を隠している。
ここにあるのは二つの影だけだ。
坂之上氷太朗と、その後ろに立つ酒月美夜の影だけだ。
「氷太朗……!」
前方に弟の姿を認めた氷華は神足通を使って彼の前にまで瞬間移動すると、そのまま力いっぱい抱きしめた。「無事だったのね、氷太朗! ああ、会いたかった! 会いたかった!」と言いながら。
瞬間移動にも熱い抱擁にも動揺する事なく、氷太朗は呟くように言った。
「ああ。僕も会いたかったよ、姉ちゃん」
「ごめんね、氷太朗。ごめんなさい。私、またしくじっちゃったの」
「何をしくじったの?」
「貴方の肉体を死なせてしまったわ。本当にごめんなさい。でも、心配しないで――肉体なんていくらでも作ってあげる。どうせなら、貴方好みに仕上げてあげる。女の子みたいな顔がコンプレックスって言ってたわよね? 今度は男前にしちゃう?」
「いらないよ」
氷太朗は両手で氷華の肩を掴み、引き剥がすと――彼女は困ったかのように眉間に皺を寄せた。しかし、それも一瞬の話だ。次の瞬間には、眼に着いた刀に意識はシフトされた。
「これ……貴方もしかして……
「そうだよ」
「手に入れたの⁉」
「うん。譲ってもらった」
「よくやったわ! 流石は私の弟よ!」
氷華は眼を輝かせて
氷太朗はすかさずその手を掴む。
「まだ、渡せないよ」
「渡せない? まだ? どういう事?」
「条件がある。三つ、条件が――その全てが呑めないのなら、
「氷太朗如きが随分調子付いた事を言うのね。その腕を引き千切って奪い取っても良いのよ?」
氷華は掴まれた手首を回転させて、逆に、氷太朗の腕を掴み返す。そして力を入れる。もう少しで骨を粉々に砕いてしまう程度にまで。
しかし氷太朗は顔色一つ変えずに、ただじっと氷華を見つめていた。
「へぇ……面白いわね」
成長した弟の姿に、氷華は思わず笑みが零れた。
「良いわよ、少しだけ付き合ってあげる。何かしら? 条件って」
「まずは――僕の質問に全て答えて」
「そんな事でいいの? 勿論構わないわよ。なんでも訊いて頂戴」
氷華は優しく腕を放す。
氷太朗の表情は、依然として変わらない。
「どうして僕の魂を肉体から引き剥がしたの?」
「常夜に潜り込ませる為よ」
「どうして常夜に潜り込む必要があるの?」
「常夜の位置を特定する為よ」
「どういう事?」
「
それを知った氷華はすぐに、とある計画を思いついた――位置情報を示す妖術を施した霊を引き寄せさせて場所を特定する計画を。
氷華はすぐにGPSのような機能を持つ妖術を開発した。そして、その辺で歩いていた男の魂を肉体から引き剥がし、霊化させ、妖術を打ち込んだ。これで男の霊が常夜に引き寄せられれば、探知により位置が割れる。そう思った。
けれども、事態は思うように進まなかった。霊化した男が目の前で爆ぜたのだ。妖力を持たない霊があの世に引き寄せられる引力に耐えきれず引き千切られるのはよくある話である。恐らくはそれの類であろう。気分を切り替えて、氷華は別の歩行者を使って計画を進めた。しかし、結果は同じであった。
結局、一〇〇人くらいで試したが、全員が爆ぜた。
引き千切られるワケではなく、爆ぜた。
とある仮説が浮かんだ氷華は、針姫町以外で同じ試みをした。すると、大多数の霊があの世に引き寄せられ、少数の霊が引き千切られたではないか。爆ぜた霊は一人もいない。
仮説に説得力が生まれた。
「恐らくは、針姫町にいる時、霊には『あの世からの引力』と『常夜からの引力』がかかるの。その引力同士の引っ張り合う力は強大で、妖力を持たない魂は引き千切られて爆ぜちゃうのだと思うわ」
「だから、妖力を持つ僕に白羽の矢が立ったのか」
「ええ。妖力を持つ霊は丈夫だからね。まぁ、私としては不本意だったんだけれども」
「でも――僕を使っても、上手くいかなかった」
「その通りよ。貴方にもGPS妖術を施したのだけれども、すぐにロストした。だから、保険として用意しておいた魄を起動したの」
「魄を使ったのは――魄は魂に引き寄せられる習性があったから?」
「そうよ。よくわかったわね。よく勉強しているわ。流石は私の弟よ」
氷華は微笑みを強くしながら氷太朗の頭に手を伸ばした。撫でたかったのだろう。氷太朗はその手を叩き落す。
「む。貴方、さっきから随分と態度が悪いわね」
「……次の質問にいくよ。どうして和歌と酒月さんを襲ったの?」
「私の周りを嗅ぎまわっていたからよ。それに、魄の行く手を阻まれたくなかったから――殺さなかったのは、貴方に気を遣ったの」
「じゃあ、和歌は生きてるの?」
「ええ……。ピンピンしてるわ……残念ながら」
ここで初めて、氷華の表情が変わった。
苦虫を噛み潰したような――極めて不快そうな表情に。
「じゃあ最後の質問。どうしてそこまでして、
「決まってるじゃない。それ以外に方法が無いからよ」
「もっと具体的に教えて。
「針姫家は全ての下請けに対して、重税を課しているわけじゃないの。古来から存在する宝物を持つ『由緒ある一族』には、対等とまではいかないにせよ、それなりの態度で接してくれるの。針姫税も払わなくて済むの――
「………」
氷太朗は静かに目を瞑る。
「馬鹿みたいに高いみかじめ料を払わずに済むのよ!」
胸に杭を叩き込まれたような気分を耐えるために。
「
「そっか。そうだったのか……」
もっと早くに知っていれば――もしかしたら、未来は変わっていたかもしれない。もっと協力的になっていたかもしれない。
後悔は無限に湧いてくる。そして、蝕んでくる。
だが、今はそんなことに気を取られている暇はない。
前に進む脚を止めてはならない。
何があっても。
「質問はもう終わり? じゃあ、さっさと
「いや、次の条件がある」
氷太朗は目を開いて言った。
「金輪際、何があっても常夜の人々を傷付けないと誓って欲しい」
「絶対にダメ? 正当防衛が成立するような場面でも?」
「ダメだ。誓ってくれなければ、
「わかったわ。誓う。――条件はそれだけ?」
「最後に一つだけある」
「なになに? 氷太朗の願いなら、なんでも聞いてあげる」
氷華は母親が子供に向ける愛の溢れた表情を浮かべると、氷太朗は冷たく言った。
「もし
「え? どういう事? 意味わからないんだけど」
「そのまんまの意味だよ。姉ちゃんが
「良いわよ――なんて言えないわねぇ。何かを企んでいる臭いがプンプンするわ。
「僕がそんな事をすると思う?」
そう言って氷華をじっと見つめる眼には、迷いや狂いが少しも無い。ただひた向きで、真っ直ぐだ。
氷華はなんとなく氷太朗の後ろに立っている美夜の方も見る――彼女の眼にも、不純な色は少しも無い。
「わかったわ。呑んであげる」
「ありがとう」
「条件はそれで最後? 他にない?」
「うん」
氷太朗は短く答えると、
そして、静かに差し出した。
「やっと……やっと……」
氷華は一寸の躊躇いもなく
「手に入れた……」
喉から手が出る程欲した
輝かしい未来が幕を開ける。
「これで氷太朗も貧しい思いをしなくて済む……ッ!」
氷華は
直後――ヴィジョンが脳を支配した。
花だ。花がある。ひまわりのような黄色い花弁を持つ背の高い花が、小高い丘に多数咲いている。花は一見するととても綺麗なのだが、どれも不気味な印象を受ける。太陽を背にして、此方に向かっているからだろうか。
次に浮かんだヴィジョンは――眼球だ。真っ暗闇の空間の中に、眼球が一つだけ浮かんでいる。ガラス玉のようなレンズの中の光彩は綺麗な青色をしているが、その中央にある瞳孔は、周囲の闇よりも黒い。まるで深淵のようだ。見ているだけで不安に駆られる。
また、景色が変わった。今度のヴィジョンは惑星だ。どこの惑星かはわからない。太陽系外のモノかもしれない。マゼンタ色のその惑星は、眼を凝らすといくつも爆発が起こっているのがわかる。周囲には、無数の氷の粒と岩石が集まった環があり、ここでもいくつかの爆発が認められた。
「きゃああああああああああッ!」
氷華は思わず
すると、ヴィジョンが全て消えた。
「な……何なの、今のは⁉ 幻術⁉」
咄嗟に美夜の方を見るが――彼女は先程から微動だにしていない。妖力の気配もしない。
「まさか」と思い氷太朗をキッと睨みつけたが、彼も同様だ。
「一体どういう事なの⁉ 何が起こったの⁉」
「簡単だよ。姉ちゃんは
「ち、違ッ……‼ 今のは違うのよッ! もう一回させて!」
氷華は慌てて
先とは違うヴィジョンが脳に映し出される――回転する白血球。燃え上がるアブラムシ。断層。結合するレニウム原子。割れる奥歯。振動する弦。
耐えきれず、氷華はまた顕微鏡を投げ捨てた。
「何よッ! なんなのよッ⁉ どういうことなのよッ⁉ 何を仕組んだのッ⁉」
「仕組んでなどいないよ。ただ単純に――僕たちは
氷太朗は瓦礫の上を転がる
「
「何……ッ⁉」
「
先述の通り、
「
「
「そう。その通りだよ。
それも、次々と。ランダムに。
眼で捉えた情報は視覚情報として神経を介して脳に送り込まれる。一秒の間に無数の視覚情報が脳に押し寄せれば人がどうなるか――わからない氷華ではない。
「僕でも二秒握るのがやっとだった。遥かに優れた六神通を持つ姉ちゃんなら――」
「五月蠅い! 黙れッ‼」
氷華は手に浮かんだ汗を握りしめて言った。
「だから諦めろと⁉ だから帰れとッ⁉」
「そうだ。これ以上、姉ちゃんを傷付ける危険性があるものは近付けさせられない」
「
「そうだ」
「ガキが――馬鹿にしてッ‼」
氷華は腕を上げて、右掌を氷太朗に向けた。
氷太朗は胸蔵を掴まれると思い、反射的に後ろに跳ぶと――手に持っていた
「抜けなくても良いの」
氷華は
「腰に差しているだけで良いの。針姫から逃れるための道具だから――」
「それでも、
ここで初めて、氷太朗の瞳に感情が満ちた。氷華はそんな眼を初めて視たものだから呆気に取られた――その隙に氷太朗は距離を詰め、
「な……ッ⁉」
生まれて初めて受けた弟の暴力に氷華は思わず
氷太朗は再び
「貴方……姉を蹴ったわね……⁉」
「蹴るさ。蹴りもするし、殴りもする。姉ちゃんを止めるためなら、何だってする――それが僕の最期の役目だ」
「女の前だからっていい気になりやがって……ッ! さっさと渡しなさい! でないと、無駄な血が流れる事になるわよ⁉」
「何があっても姉ちゃんには渡さない」
「ああ、そう! だったら――無駄な血を沢山流してあげるわ!」
氷華は叫ぶと、懐から取り出した札を右手で握りしめ――そして、その拳を地面に叩きつけた。
直後、氷華の背後に門が現れた。
炎の門が。
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