002 無力

 酒月邸に着いた氷華は驚いた。

 半壊した酒月邸が見事に治っていたからだ。

 最初、妖術による幻を疑った。常識的に考えて、三時間前に襲撃された屋敷が短時間で修復される事なぞ在り得ないから。だが、どれだけ眼を凝らしても幻の気配はない。

 どういうカラクリなのだろうか。


「貴方の仕業?」


 氷華は母屋の玄関の前に立っていた男性に問うと――美夜の父・酒月美広は「いや」と否定した。


「次女が頑張ってくれた」

「そう。凄いのね――で、貴方は何を頑張るの? まさか、私を止める気?」

「いや。私には君を止める力はない。屋敷の如く、一瞬にしてバラバラにされるのがオチだろう。……私の役割は案内だけだ」


 言って、美広は東の方角にある蔵を指さした。「常夜はあそこにある」


「あら、娘が必死に守ってきた物を、命惜しさに差し出すの?」

「まさか。美夜に頼まれたんだ――君を常夜に誘導してくれって」

「だから、言われるがまま誘導するの? 貴方、親としてのプライドは無いの? 命を賭してでも私を止める、くらいの気概はないの?」

「無いな」


 美広は即答した。


「私は無力だ。力を持っていない。私に出来ること言えば、娘たちを信じ、娘たちを全力でバックアップすることだけだ。その信じた娘に、君を誘導するようお願いされたんだ――ならば私は、全力で誘導するだけだ」

「ふぅん。じゃあ私が寄り道をしたらどうするの?」

「言ったはずだ――全力で誘導するだけだ、と」

「……へぇ」


 ニヤリと笑った氷華は神足通を発動し、美広の眼と鼻の先に瞬間移動した。

 美広は完全に動きを読めていなかったらしく、風圧に負けて尻もちをついてしまった。だが、すぐに立ち上がり、懐から御札を取り出した。


「こんな私でも、君を吹き飛ばす事くらいは出来るんだぞ」


 上擦る声。震える脚。少し引けている腰。大量の汗。

 氷華は思った――なんてちっぽけなのだろうか、と。無様極まりない、と。

 いつもならば情もなく消し炭にしているところだろう。

 だが、今日ばかりは何故かそんな気になれなかった。


「貴方じゃ私に埃一つ付けられないわよ」


 氷華はそう吐き棄ててから、蔵の方に歩を進めた。

 この蔵に『常夜』があるのは、氷太朗の魄が這入って行き、氷太朗の魂が出てきた事から、わかっていた。けれども、それ以外の事は未だに何も掴めていなかった――蔵自体が常夜なのか、それとも蔵の中に『常夜』と呼ばれるモノが存在するのが――一切わかっていなかった。

 期待を胸に蔵の戸を開けた。


「これが……常夜……」


 地面に置かれた神棚と、神酒を張った盃。

 そして、その盃に映える新月。


「素晴らしい」


 言って、氷華はしゃがみ込んで神棚をよく観察した。予想通り、至る所に漢字や梵字の羅列が書かれている――結界だ。それも、ただの結界ではない。『水に映える月』を『実物の月』に置換する、まるで神の奇蹟のような結界だ。

 杯の下に敷かれている和紙にも、結界が施されている。此方は、台の上の物――即ち常夜をあらゆる探知系結界にも覚られないようにする結界と、あらゆる物理的干渉にも影響されないようにする結界の二つが張られている。


「こんな結界を発明できる人間が居るなんて……」


 間違いない。この『常夜』を創り出した人間は人類史上最高の妖術遣いである。

 見れば見る程魅了されるシステムに氷華は思わず恍惚とした。いくらでも眺めて居られる。だが、そんな時間は今はない。

 氷華は惜しい気持ちを棄てて、ゆっくりと神酒に手を入れた。

 直後、氷華は不思議な感覚に襲われた。

 目の前が真っ暗になったかと思うと、突然身体中を倦怠感が襲った。頭痛もした。次に襲ってきたのは浮遊感である。ジェットコースターで急降下をしている際に感じるようなそれを感じ――氷華は思わず目を瞑った。すると、すぐに不愉快な感覚は全て消え、代わりに、夏の夜の涼しい風が頭を撫でた。

 ゆっくり目を開ける。

 真っ暗だ。眼球の奥にある網膜が何も捉えられない。まだ瞳孔が開いていないのだろう。だが、千里先まで見通せる天眼通テンゲンツウは、この程度の暗闇、障害ですらない。

 氷華は天眼通テンゲンツウを発動した。


「……見つけた」


 荒廃した町の中心に立つ最愛の弟の姿を見つけた氷華は、神足通を使い――大きく跳んだ。

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