006 黒い感情
刀剣展示会は公民館の二階で行われていた。入場料は無料で、誰でも入れる。
展示されている刀は無銘から名刀まで凡そ一〇〇振で、そのどれもが刀掛けに乗せられ美しく展示されていた。だが氷太朗はどの刀にも目もくれず、真っ直ぐ一番奥に突き進んだ――彼の眼中にあるのは最も奥で一際美しく飾られていた一振りのみである。
美しい刀である。大きく反った刃は刃こぼれ一つなく、一滴も血を吸った事がないかのような潔白さを感じる。かと思えば、光の当たり具合によっては、ほんのりと紅く照る時があり、妙な艶めかしさがある。漆黒の鍔も、見る角度を変えると時々赤く発光する。
ナルはあまり芸術に興味がなく、特に刀剣などは斬れればそれで良いと思っているタチなので、良し悪しなぞわからないが――少なくともこの刀は違う。いつまでも眺めてられるほど美しく思える。
太刀の後ろには
ナルは
氷太朗とこの刀には何か因縁があるのは、鈍いナルでもわかった。
「ひょ、氷太朗……この刀を知ってるの?」
「そ、そっか」
「うん……」
「ずっと眺めてたら疲れるでしょ? そろそろ休憩しない?」
「うん……」
心ここに在らず。されど、曲がりなりにも同意を得たナルはかなり乱暴に氷太朗を引っ張り、エレベーターホールにあったベンチに腰掛けさせた。
「コーヒーでも買ってこようか? 喉乾いたでしょ?」
「いや……いいよ。ありがとう」
「そ? わかった」
言って、ナルは氷太朗の隣に座った。
二人の間に微妙な空気が流れる――先程までの
「あの刀に何か因縁があるの?」
沈黙に耐えかねたナルは問うた。
だが、返って来たのは沈黙であった。無視されているのではない。きっと言葉が出ないのだろう――言葉というものは、語りたい時には自然に出てくるものである。出てこないという事は、今がその時ではないという事だ。
無理に話させようとは絶対にしてはいけない。待つのも会話だ。
「僕の両親は、七年前に亡くなったんだ」
長い沈黙を破ったのは、氷太朗だった。
「原因は色々あると思うけど……悲しい行き違いによる不慮の事故だと僕は思ってる」
「そう……辛いね」
「うん。でも、当時はあまり辛くなかった。まだ小学生で、あまりよくわかって居なかったし――たぶん、姉ちゃんの方が、辛かったと思う」
「氷太朗にはお姉ちゃんがいるんだ」
「うん。自慢の姉ちゃんなんだ。僕と違って、小さい頃から妖術も使えたし、六神通だって使いこなせていた。紛れも無く天才だ」
「六神通?」
「ああ、言ってなかったっけ……。僕の先祖が大妖怪だって事は、今朝言ったよね? その大妖怪の影響で、六神通っていう六つの能力が使えるんだ。と言っても、僕はそれを大道芸で発揮するのが精々だったけど――姉ちゃんは違った。六神通だけで妖怪を退治出来るくらい……桁違いだった」
氷太朗は頭を掻いて、続けた。
「そんな姉ちゃんは幼い頃から父さんに妖怪退治稼業のノウハウを叩き込まれてて――両親が亡くなった事を機にその稼業を継いだ。高校を辞めて、ね――最初は、上手く行ってた。妖怪退治稼業の名門に弟子入りして、すぐに独立して、仕事の依頼が次から次へと舞い込んできて……。本当に上手く行っていたと思う」
しかし、それも最初だけで、長くは続かなかった。
「独立して一年くらい経った頃からかな……仕事はどんどん減って行って、酷い時には、依頼件数が一か月に一件に落ち込んだ。にも関わらず、針姫家は高い『仲介手数料』を課してきた……」
「針姫家?」
「現世の妖怪社会を牛耳ってる一族の一つだよ。妖怪退治の依頼はまず針姫家に持ち込まれて、そこから下請けの妖怪退治屋に振られるんだ。その仲介手数料は、月額制で――依頼の紹介がない月も払わないといけないんだ。しかも、かなり高額で……。僕たちは『針姫税』なんて呼んでたよ」
「ヤクザみたいな連中ね」
「ホントそうだよ……。仕事がないけど針姫税があったせいで、家計はひっ迫されて、僕たちは一日一食の時もあった。でも、僕はそれでもよかった」
氷華さえ居れば、他に何もいらなかった。
どれだけ貧しくても、最愛の姉さえいれば、幸福だった。
しかし、それは彼女も同じ――というわけではなかった。
「姉ちゃんは僕に貧しい思いをさせるのが我慢ならなかったようで――姉ちゃんはあの手この手で稼ぎを増やそうとした。その度に針姫と衝突し、お客さんと衝突し、精神を摺り減らした」
そして日を追うごとに氷華は異変を起こしていった。
最初の異変は、不眠症だった。どれだけクタクタになって帰ってきても、どれだけ夜遅く帰ってきても、彼女は眠ることが出来なかった。その影響か、血相はどんどん悪くなっていき、眼の下の隈がどんどん酷くなっていく。食欲も減って行き――先月からは、一切食事を摂らなくなった。
心の歯車が嚙み合わなくなっていたのは明白である。
そして、ある時から、氷華はとある単語を呟き始めた。
それが妖刀・
「
「ごめん。ちょっと関連性がわからない。貧しさと刀がどう関連するの? 売るの?」
「僕にもわからない……。たぶん現実逃避の類だと思う。もしくは、心の病からくる妄想か――でも、姉ちゃんは
氷太朗も探した。
勿論、彼までもが、
結果は、ご覧の通りである。
「どれだけ古い文献を読み漁っても、僕は
氷太朗は両の手で顔を覆うと、声を震わせた。
「僕は……何も出来なかった。姉ちゃんが魂を摺り減らしながら働いているって言うのに、見ているだけで、何も出来なかった……。せめてもの罪滅ぼしで
何をしたら良いかわからない。
どうすれば良いかわからない。
何もわからない。
「僕は……僕は……僕は……」
とうとう氷太朗の両手から、涙が零れた。
「氷太朗はどうしたいの?」
ナルは更に近付き、問う。「
「僕は……僕は、姉ちゃんに届けてやりたいと思った。思ったけど……持って帰る術がない……。僕自身、帰れるかもわからないし……。そもそも、持ち出せない……」
「否定的な言葉ばっかり――そんなんじゃ、前に進めないわよ」
ナルは突然立ち上がる。それに驚いた氷太朗は咄嗟に顔を上げると、ナルはすかさず彼の両頬をつねった。
「届けてやりたいなら、届けてあげなさいよ」
「でも、どうやって……」
「ケンミョーレンってのは、元々アンタのご先祖様の持ち物だったんでしょ? だったら、この展示会は神社主催なんだから、太三郎のジジイにそれをそのまま伝えて、返して貰えばいいじゃない」
「そんな事……出来るの?」
「知らん。そんなの、やってみないとわからないわよ」
「やってみないとって……」
「違うっての⁉」
「いや、違わないけど……最悪のパターンも想定しておかないと……」
「何ウダウダ言ってるのよ。アンタ、ただ勇気が無いだけじゃない」
「な……ッ⁉」
氷太朗の眼が大きく見開いた。怒りか、図星か。
しかし、ナルは臆することなく続けた。
「最悪のパターンを想定するも大事よ? もちろんわかってる。でも、そればっかりに目をやるのは、ただの現実逃避――一歩前に踏み出す勇気が無い証拠よ!」
「それは……」
「氷太朗、六〇〇歳のババアが教えてあげる――どれだけ過ぎ去った過去を下いても、どれだけ未来を案じても、『今』が変わることは絶対にないわ! 今を変えられるのは、今から取る行動だけなの!」
「っ………」
「勇気をもって一歩踏み出しなさい! でないと、死んでから後悔するわよ!」
「――ッ‼」
そうだった。
昨夜、氷太朗は思い知ったところではないか。
死んでからの後悔がどれほど重いかを。
やらなかった後悔がどれほど辛いのかを。
「そうだね……」
また同じ過ちを繰り返すところだった。
「ナルの言う通りだ……」
氷太朗は拳で涙を拭い、腰を上げた。
「ごめん、僕が間違っていたよ」
重い重い腰を。
「ナル、ありがとう」
「どういたしまして‼ ――で? 次はどこに行く?」
「もう一度、神社に向かってくれないかな。太三郎さんにお願いしてみる」
「そうこなくっちゃ!」
ニヒヒッと笑い、親指を立てるナル。そんな彼女を真似て、氷太朗も親指を立てる。
そうと決まれば、この刀剣展示会に用はない。二人は公民館を出て、バイクを置いている駐輪場に向かおうとした――だが、その足はすぐに止まった。
会場の出入口で、酒月魅流が立ちはだかったからだ。
「お、ゲロ子じゃん。こんな所で何してるの? サボり?」
ナルはいつもの調子で話しかけるが、魅流は無言で氷太朗に近づき――そして、氷太朗の頭を掴んだ。
突然の暴挙に氷太朗は思わず手を払おうとした。が、それよりも速く魅流の足元にあった影が延び、瞬く間に氷太朗を飲み込んでしまった。
一瞬の出来事である。
あまりにも刹那的なので、ナルは呆気にとられてしまった。
「な、なにが……⁉」
「氷太朗さんには現世に帰っていただきました」
「はぁ⁉ ちょっと、唐突過ぎない⁉ サヨナラも無しなの⁉」
「そんなことを言っている猶予はありません」
いつになく神妙な面持ちに、ナルはここで漸く事の重大性に気付いた。
「アンタが神様の力を使ったっていうことは……そういう事なの⁉」
「ええ、そうです」
常夜維持管理行政事務所有事予備部隊部隊長の酒月魅流は言った。
「非常事態です。ナルさんも、今すぐ避難してください」
直後、公民館が吹き飛んだ。
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