第16話 小説王

F井県の市内にある文豪社F井支店。駅前にある瀟洒しょうしゃな建物で四階建てのビルである。 文豪社は文芸よりはどちらかというとゴシップなどにチカラをいれている出版社で、何かと記事を出すたびに文豪砲やら文豪マグナムやら世間から揶揄されてきた。近年も、ある大物ミュージシャンの不倫や、超一流芸人の夜遊びを記事にして、活動休止に追い込むほどの影響力を受け持つ創業から百年を数える超名門企業である。週刊文豪の編集部である榎並祐子は、文豪社の四階にあり日当たりの悪い角部屋で、二人の男女と膝を突き合わせていた。その二人の男女とは、環と源太郎であった。二人は出されたお茶に見向きもせずに憮然とした表情のまま腕を組みソファにもたれかかっていた。『書いて下さい』と榎並は必死に懇願するも、源太郎は『書かん』の一点張り。そんなやり取りが小一時間ほどかかっていた。『こん間ん件は感謝しとうばってん、今回はそれとこれとは別問題たい』源太郎はそう言い切った後に、ようやく出されたほうじ茶に手を付け、一気に飲み干し乱暴にテーブルに置いた。週刊文豪の朝は遅く、現在午前九時の段階で出仕している人間は二割にも満たないが、今日に限っては開け放ったドアの外に数人の人間が気配を押し殺して立っている。その物理的な理由とは、過去には賞を総嘗めにした作家が久しく週刊誌で連載をしてくれるよう根回しをした噂が尾ひれをつけて広まってしまったに他ならない。『この間の件に関しましては、私共は恩に着せるつもりは全くありません。私は先生にただ新作の続きを書いて頂きたいという強い思い入れからお願いに伺いました』源太郎はそう言われても渋い表情を崩すことなく、タバコを取り出した。『先生、こちらの応接室は禁煙です。申し訳ありません』源太郎はそう榎並に言われてタバコをぐしゃっと丸めて、所在なくテーブルに叩きつけた。榎並は、口を真一文字に結び、感情が溢れ出るのを懸命に堪えていた。その隣には五十半ばの編集長が俯き加減で座っていた。さらに隣に上司でデスクの河野も神妙な面持ちで見守っていた。『十三年振りに出版された「向こう側にあるその朧げな図書館」これは今、先生の隣にいる姪の環さんをモデルに書かれた作品ですね?』榎並は未だに視線を合わせようともしない源太郎に優しく問いかけた。源太郎は否定も肯定もせずにだんまりを決め込んでいる。図書館に勤める司書が、図書館に保管されている本から逃げ出した様々なキャラを捕まえて本の中に戻す日常を描いたファンタジーで、若い頃に喧嘩別れした両親が、あの頃のまま図書館に置いてある私小説から現れて、その若い頃の両親と接するうちに、現在の両親に思いを馳せ、仲直りをするという感動作なのだが、これまで純文学を書き続けた源太郎の作風から一転してのファンタジー路線に、戸惑う読者たちが急増し、ほとんど売れることはなく、そのまま絶版となり、売れ残りの大半は、現在は源太郎の自宅の書庫に保管されている。『この作品は、私の中では、先生の最高傑作であるという認識は変わりません。無礼を承知で言わせていただければ、ゴシップや芸能人のトラブルを扱う我が社の理念でもある「売れれば正義」の空気が返って世の風潮を煽り、結果的に重版にならずに大半が売れ残ることになりました。申し訳ありません』と、榎並と編集長は頭を下げた。『よかよか、頭など下げんでも、しけとうもんはしけとうとよ!そもそも儂がファンタジーんごたる路線変更したとがいけんやったんだ』隣りにいた環も黙り込んでいた。妙に緊迫した不安を感じさせる空気にたまらず、デスクの河野がわざとらしく空咳をして、上目遣いに源太郎を覗き見た。『どうでしょう?先生の既定路線である純文学を復活させて、もう一度我が週刊文豪にて連載していただくというのは?』唐突な斜め上からの上司の意見に、榎並はぎょっとした表情で、隣りにいた河野を凝視した。河野はかまわずに両手を揉み合わせて様子を伺う。『バカにしてんの?』河野と編集長は、ようやく言葉を発した環を驚きの表情で見た。『叔父の作品が最高傑作なんて言いながら、既定路線に戻れとか、なんでそんなふざけたこと言うかな』環の正論に対して、河野は黙り込み、余計な一言を口走った上司を睨みつけながら榎並は頭を抱えた。束の間考えて、ため息をつきながら、環の表情を覗きみると、瞳には涙が溜まっていて、耐え切れなくなった嗚咽の声と、編集長らの戸惑いのざわめきが応接室全体を覆っていた。榎並はそんな繊細な環の様子を見守りながらも、心の奥底では申し訳ない気持ちで一杯になっていた。榎並祐子二十八歳。石川県珠洲市の生まれ。県下でも一番の進学校を経て、ストレートで京都大学の文学部の日本文学科を専攻し、文豪社に入社。典型的な文学畑志望者であるが、この社内に置いては、残念ながら週刊誌部門に配属された。しかしながら腐ることもなく、異動願いを一度も出すことなく、粘りの取材で六年間頑張っていた。二十代のほとんどを他人の秘密やゴシップを暴露するためだけに必死に徹夜を繰り返した毎日ながらも自分が最も尊敬する作家から頼られた繋がりから、編集長とデスクに頭を下げて、この作家の新作を連載したいと申し出た。決して自分の欲や手柄ではなく、純粋に新作が読みたいという願いが、無能な上司から再び純文学に戻せという横槍を入れられてしまい、彼女の立つ瀬は完全になくなってしまった。作家 龍造寺源太郎の新作「向こう側にあるその朧げな図書館」を読んで完全に完膚なきまでに打ちのめされた榎並は、文芸部の編集長に直談判し、この作品の続編の連載を望んだが、編集部の返事は残念ながら「ノー」であった。「向こう側にあるその朧げな図書館」はこれまで読んだ龍造寺作品の中で一番すんなりと話が入ってきて680頁に及ぶ超大作ながら、読み終えた後も感動で本書をずっと抱き締めていた。読後暫し凝然ぎょうぜんとし、身体が金縛りにあったように全く動かない。完璧なアンサンブルによる四重奏を聴き終えた後のような余韻に酔いしれ虜にさせられた。ずっと著者が書きたかった作品らしく、随所に過去作のエッセンスを感じさせる。680頁にも関わらず、唐突に終わりを告げる斬新なラストには読者の創造力を試す狙いもあったであろう。表現に淀みがなく美しい、それでいてストーリーに惹かれていく独特の世界観はまるで夢を見ているかのようで不思議な気分にさせられた。パラレルワールドの図書館に勤める司書のツバサは実は過去に飼っていた主人公の猫の生まれ変わりで、書庫から這い出る本の中の登場人物たちを再度封じ込めていく。巨大な火柱を立てて滅んでいく図書館を遠くから眺めていた主人公とツバサの二人は、その後どうなったのか?生きているのか死んでいるのかも明かされないままに迎えたラスト、あっちの世界がその後どうなったのかも気になるけど、こっちの世界ではいろいろ面倒なことはありながらも、それなりに生きていける日常が続く。物語として、どう受け止めるべきなのかまだ判断できてないところもあるが、作品最後の言葉が「それでも、私たちは生きてゆく」ことであることを今は素直に受け止めたい。 ハリー・ポッターやジブリ作品を彷彿させるようなシーンも随所にあり、その創造力の豊かさに驚かされる。何より辛口で知られる書評家が唯一99点をつけた作品である。掛け値なしに偉大な傑作であることは間違いない。売れずに多くの酷評が出たのは、これまでの作風を変えてエンタメ寄りに傾いたこともあるが、このまま埋もれさせてしまうには、あまりにも切なく惜しい作品。それにやはりこれだけでは足りない。この物語は更に続くべきである…読み終えた後もその微熱のようなものはずっと続いている。気がつくと文芸部門の純文学編集部への異動願いを出していた。ほとばしる天性、卓越した才能、人間観の深さ、作家としての技量と文体の安定を含めて極めて優れた作家であることに疑いはない。先日、断筆宣言をしたことに耳を疑ったが、十三年振りの新作が全く奮わなかったことも少なからず関係しているに違いない。故に偶然とはいえ、某旅行代理店にストーカー犯がいたことを取材している際に、龍造寺先生と出会えたことに驚きを隠せなかった。この旅行代理店ではパワハラやセクハラも横行しており、それも是非とも調べて欲しいという先生たってのお願いであった。『儂はこん病気にかかるまえ、ただいま病院におることば考え、いろいろ思う。人間はいつか死ぬけんなあとか、人生には限りがあるけんなあとか思うたっちゃみるが、どうもそうも思えん。病気んために儂が今死ば考えるごて思うだけなんかもしれんが…』龍造寺先生が急性膵炎で緊急入院している最中にこの相談を受けて、先生はかなり恐縮されていたが、しかしながら榎並は最も敬う作家の一人から依頼されたことで喜びもひとしおであった。そして榎並たちが調査した結果、案の定パワハラやセクハラは横行しており、ストーカーで逮捕された生田美来も被害に遭われていたことが判明し、さらに同じ課にいる鈴木が窓際的な部署に配置されると聞き、そこで元同僚たちから語られたあってはならない会社の実情に、榎並は閉口した。さらに生田美来が逮捕前に、ICレコーダーを持って、証拠を記事にしてもらうように頭を下げてきたことにも驚かされた。これを記事にして来週発売の週刊文豪のトップに載せる予定が、龍造寺先生と鈴木からストップをかけられた。依頼した本人からまさかの停止に思わず理由を尋ねると、生田美来の件を公にしたくないというのが理由らしい。龍造寺先生は深々と頭を下げた。榎並は苦渋に満ちた表情を浮かべたが、彼らの真摯な姿勢に引き下がるざるを得なかった。そして結局苦労の取材が報われないままに記事はお蔵入りしたが、龍造寺先生の新作の続編をお願いしたいと、榎並は編集部に頼み込み、姪の環と共に来社して頂いたのだった。結局のところは断筆宣言した龍造寺先生の頑なな姿勢に文豪社側が折れて、物別れになってしまったが、榎並は諦める気などさらさらなく、折を見て龍造寺邸に伺う所存であった。一方、環は入院中である鈴木の着替えを取りに叶愛と共に鈴木邸の寝室兼書斎に初めて入ると、驚きのあまり、言葉を失った。書斎に至っては大きな本棚に囲まれていて、その数は優に一万冊を超えているのではないかという膨大な量で、ほとんどがミステリーやファンタジー、あとは三国志などの歴史モノと、ジョジョの奇妙な冒険シリーズ全巻。『凄いね』環は呟くように叶愛に言った。『なんだかんだ環さんの影響力が大きいよ。環さんと知り合ってから、給料のほとんどを読書に注ぎ込んでいるから』叶愛が破顔すると、環も思わず笑みがこぼれた。二人は束の間、黙って本棚を眺めていた。そこには環の思い入れのある本を見つけて、思わず息を呑んだ。『叶愛ちゃん、今から私と一緒に鈴木さんのお見舞いに行こ』考えるより先に、言葉が口をついて出てきた。叶愛はやや戸惑いつつも頷いて仕度をした。

三日後、鈴木の病室に話があると呼びつけられた源太郎は、入るなりいきなり用件に入ってきた。『話ちゅうとは一体なんなんや?』源太郎は寝たきりの鈴木と隣りにいる環を睨めつけた。『あの…』鈴木は萎縮して口ごもったが、意を決して、大きく息を吸い込んだ。『龍造寺源太郎先生!最新作である「向こう側にあるその朧げな図書館」の続きを書いてください』源太郎は鈴木のとっさの言葉に目を見開き、軽く息を漏らした。『なして儂が作家であることば知った?環から聞いたんか?』源太郎は意外そうな声を上げたが、鈴木はかまわず話を続けた。『僕はずっと、昔から…今みたいに読書にハマる前から貴方のファンでした』環は鈴木の本棚から叔父の作品が全作揃っているのを見て、言葉を失った。こんなにも身近に、自分の叔父の作品を愛してくれている人がいるなんて想像もしていなかった。そして病室で鈴木に叔父の素性を全て話したのだった。『十三年振りに出された新作「向こう側にあるその朧げな図書館」には感銘しました。こんな作品をずっと読みたかったんだと…』鈴木は言いながらも源太郎の視線を痛いほどに感じていたが、かまわず話を続けた。『嬉しかったんです。環さんの叔父である貴方が、作家の龍造寺源太郎だと知って、本当に嬉しかった。だって、本の内容と変わらないほどに貴方は本当に優しかった』源太郎は無言のまま、憮然とした表情でじっと鈴木のことを見ていた。『結局蓋ば開けてみりゃあ、そげん売れんやった。万人に受け入れてもらえんやったんだ。今更続きば書くも何も無か』環は不意に苛立った。やりきれなさが急にこみ上げてきた。迷うのはいい、自信がないことも仕方ない。だが、この局面に置いては揺れていて、断筆宣言をしながらも未だに自分を捨てきれていない。ある部分で割り切る勇気を持っていない叔父の姿勢に心底腹がたった。『叔父さん!いい加減にしなよ!』静かな病室に環の乾いた声が響き渡り、源太郎は驚いた様子で環を見据えた。『断筆宣言したとか何とか言いながら、家でこっそり書いてるの知ってんだからね。結局は才能っていうのは気持ちなんだよ。実力やセンスの壁にも挫けずに続けるかどうかの境界線なの』環は唖然とする源太郎を前に、つい軽く息を漏らした。『それが情熱なんだよ。それでその情熱を持って長くやり続けることこそが才能なの!売れる売れないなんて関係ない!』環はぴしゃりと言い放つと、黙ったままの源太郎を睨みつけた。静まり返った病室にノックの乾いた音がして、一同が振り返るとスーツ姿の榎並祐子がそこにいた。『すみません、盗み聞きするつもりは無かったのですが、話が聞こえて…』環は、瞳にうっすら涙を溜めながら榎並に頭を下げた。『龍造寺先生、実を申し上げますと、先生の「向こう側にあるその朧げな図書館」が今回、本屋大賞発掘部門にノミネートされました』突然の降って湧いたような話に病室にいる全員が目を瞠った。しかも三年前の八月の発売から消化率二十五%以下で正直、全く売れていない小説であり、絶版処理されたが、書籍のプロから最高評価を受けたことで、再び大きな話題作になり、再出版が確定したことを榎並は述べた。『先だって、私は先生の新作の続編を連載させることを文芸部門の編集長に約束させました。先生、皆さんが貴方の新作を待ち望んでいます』榎並は鼻息荒く、顔を紅潮させて皆に説明をした。『あー、もう皆おせっかいすぎるばい。しぇっかく休めるて思うとったとにしゃあ』源太郎は照れくさそうにボリボリと頭を掻いた。『待っていましたよ。私もようやく文芸部に異動できて、気がつけば先生の担当になれました。いつか、こういう日が来るんじゃないかって』榎並は照れくさそうに笑った。今度は源太郎が驚く番だった。『あんたもほんなこつしつこか性格ばい。負けたばい。書くばい。あんたん週刊誌で連載ば』源太郎は人目もはばからず、頭を掻きつつ大声で言った。そして照れながらも利き腕の右手を差し出した。榎並は泣き笑いの表情のまま、激しく頷き、両の手で源太郎の右手を握り返した。鈴木と環はその様子を見て、お互いに微笑みかけた。

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