第15話 フライ,ダディ,フライ

東尋坊からの落下事件で、鈴木は鎖骨と大腿骨を骨折してしまい、医者から全治3カ月と判断された。

『まあ、そのぐらいで済んで良かった。下手したら死んでてもおかしくない状態だったしな』鈴木の幼馴染である鵜澤うざわ悠馬ゆうまは、病院にも関わらず、油で薄汚れたツナギでお見舞いに来て憎まれ口を叩いた。『タマちゃんに感謝せんと、彼女が飛び込んで助けてくれんかったら、確実にお陀仏やったんやからな』鵜澤は落ち込んでいる鈴木の肩を無遠慮にバシバシ叩いた。『それにしても殺風景な部屋やのう。何も楽しめるもんがなか』隣に座る源太郎が、杖でコツコツと鈴木のベッドを叩きながらさらに憎まれ口を言う。『まあ、病院ですから…』鈴木は頭をかいた。環が本を山程持ってきてくれたおかげで退屈はしなかったが、職場復帰が当分遠のいてしまった為に、気が気でない状態であった。『この三人が集まると、いつぞやん事件ば思い出してしまうたい』件のストーカー事件の犯人であった生田さんは自首をして、現在は収監中と聞いた。鈴木はしっかりと反省したらまた戻って来てもらいたい、もしくは彼女のことを何処か受け入れてあげて欲しいと心から願っていた。そうこうしているうちに、環と叶愛もお見舞いに駆けつけて来てくれた。

『しかしまあ、鈴木が、美優ちゃんと結婚するって聞いた時は驚いたなあ。我ら同級生のマドンナだったもんなあ』『マドンナって言い方、古すぎ、夏目漱石の坊っちゃんじゃあるまいし』すかさず環がツッコミをいれる。『もしかして、赤シャツとかもいたりして』『おお、いたいた、赤シャツに野太鼓にウラナリにキテレツにブタゴリラにゴリライモ』『ちょいちょい、キテレツ大百科とど根性ガエルが混ざってるからだいたいさあ、ブタゴリラやゴリライモなんてあだ名、令和の今じゃ、れっきとしたイジメだからね』『タマちゃんよく知ってるね〜、世代?』『なわけないじゃん。漫画好きなだけ』鵜澤と環が漫才を繰り広げている間、鈴木はお腹を抱えて笑っていた。『ちょ、鎖骨骨折してるから、あんまり笑わさないで』鈴木は笑いすぎて涙まで流していた。『本当に、マドンナ美優ちゃんとウラナリ鈴木の結婚はF井県の四大七不思議の一つやんね』『四大七不思議って七不思議が多すぎてもはや不思議でも何でもない』『F井県は禍々しい呪詛の祟られた県でもあるさかいな』『はい、テキトー!』環はお見舞いに持ってきた月餅の箱の角で、鵜澤の後頭部を叩いた。『いて、角で、叩くな!角で!』鵜澤は頭を抑えてうずくまった。『あんまり騒いだら傷にこたえるやろう。落ち着いたらしゃっしゃと帰るけん』源太郎はすっくと立ち上がり、杖を振りかざしながら皆に退出するよう勧めた。『はーい』と環は騒がし過ぎたのを反省しつつ、カバンを手に取り、立ち上がった。『じゃー、スピまた来るね』環は手をブンブン振りながら踵を返して外の待合室へ向かった。喧騒だった部屋の空気が一気に寂寥感に押しつぶされそうになる。鈴木は環が用意してくれた文庫本を手に取り、仰向けで読み出した。

鈴木が東尋坊から落ちてしまった翌週、係長の野口は支店長の森に呼ばれていた。パーテーションで仕切られた応接室に入ると、支店長に座るように促された。『あいつの具合はどうなんだ?』暗に鈴木の事を聞かれていると理解した野口は大げさに両手を広げ『どうにも、鎖骨やら大腿骨を骨折しちまったようで、3カ月は入院だとか…』野口は答えた。『で?どう思う?』支店長に聞かれて野口は少し間をおいた。『どうとは?』野口は小声で聞き返す。『奴は東尋坊から落ちたんだろう。会社の奴らは、仕事での圧迫感から身投げしたんじゃないかなんて話も出ている。もちろん、俺もその意見に対しては概ねそうだろうなと認識している』ようやく支店長が野口をこの応接室に呼んだ理由を知った。自分が鈴木相手にパワハラまがいの圧力をかけていることは、支店長含め、社員一同が察知しているのは、野口自身も承知していた。とは言え支店長が何を言いたいのか要点までは分からなかった。この鈴木の件で、支店長は話しておきたい何かがあると、野口は踏んでいた。社員五十人がいるF井県中央支店で、先日一人の女性契約社員が逮捕され、その衝撃間もなく、今回の身投げ騒動である。野口が知る中でも会社の空気の悪さは過去一番であろう。『下半期の査定の件だが…少し早いが、その面接の準備を前倒しでしたいと思ってな』野口は支店長の言葉にいつもより早めの準備に多少きな臭く感じたものの、大きな事件を二つも抱えてしまった支店、そしてメタメタな財務状況を加味した上での理由であるのだろうと推測した。『誤解されないうちに話しておくが、君の鈴木に対する態度はいきすぎだとは、俺は全く思っていない。むしろ当然だとも思っている。』支店長はボールペンをコツコツとデスクに叩きながらそう話した。『奴はお客様ファーストとして、会社に対してほとんど利益を生み出していないどころか、収益をあげようとする努力も見られない』支店長は少しヒートアップし、睨みつけるように野口を見ていた。『営業本部で見せてもらった三年弱の収益も、ほとんどが最低限度だと言ってもいいくらいだ』野口は相槌を打ちながら話の先を促した。『やる気のある姿勢はともかく、数字を出さないと話にならん。俯瞰して見れば、奴の成績は悲しいかな、ほとんど最低だと言っていい。もっとも収益をあげている奴らの中でだけどな』支店長が言い切った後に、水を打ったような静けさがきた。ボーナス査定と人事異動を間近に迎えたこの時期だけに、鈴木のいない間に処遇を決めてしまおうという腹だ。『あの、舞鶴の、ウチのパンフを管理してくれている倉庫のリフトマンがまた辞めたらしい』支店長は目薬を目にさしながら話をした。『ああ、あそこは夏はめちゃくちゃ暑くて、冬はめっぽう寒い3Kですし、やはり長続きしませんね』野口がそう言うと支店長は薄ら笑いを浮かべた。『実はな、鈴木が退院して復帰したあかつきには、そこに異動してもらおうと考えている』支店長の唐突な提案に、野口は目を見開いた。予感が確信めいたものに変わった。実際に勤め始めて使い物にならないことが確認されると、このようなコースを敷くことは以前からあったのだ。『しかし、大丈夫でしょうか?』野口はやや不安げな表情で支店長を覗き見た。『かまわん、人事の方には俺から根回しをしておく。君はお見舞いがてらにその旨を鈴木にさり気なく伝えておいてくれ』そう伝えると、支店長は席を立ち、部屋から出ていった。一礼をして野口も後に続くように、部屋を出る。(大変なことを聞いてしまった…)ホワイトボードの裏に隠れていた鈴木の同僚である後藤は背中に冷や汗をかいていた。応接室で束の間サボっていた後藤は、コツコツと聞こえる足音に反応し、慌ててホワイトボードの後ろに身を隠したのだった。それにしても、鈴木の姿勢がお客様ファーストで、会社の収益に貢献していないとはいえ、あまりにも厳しい仕打ちだ。後藤は拳を握りしめ、悔しさを押し殺した。後藤は翌日、仕事の帰りに、鈴木の入院する病院へ足を運び、その旨を伝えた。病室には、環と源太郎がいた。二人共その話を聞いて水を打ったように静まり返っていた。『まあ、仕方ないですね。会社の方針ですから』鈴木は呟くように漏らした。『ばってん舞鶴に行くなんて、単身赴任しぇないかんちゃろう』隣りにいた源太郎が肩をすくめて怒りを抑え込むように甲高い声をあげた。『まあ、そうですね、ここからは通えない』鈴木は肩を落とした。『それでよかか? 愛する娘ば残して一人で行くるとか?』源太郎は鈴木を追い込むように声を荒げる。『ちょっと叔父さん、落ち着いて!』環は矢も楯も堪らず、二人の間に入ると源太郎をなだめた。『お客様第一の姿勢の何が悪いとや!勝手な解釈ばしくさって、何ば考えとーったい』『だから落ち着いてってば、一番悔しいのは鈴木さんなんだからね』そう宥めて鈴木を見ると、肩を震わせて泣いていた。『本当に、何なんでしょうね』環と源太郎の二人は呆気にとられた様子で鈴木を見ていた。『懸命に仕事をしていても報われるとは限らない。そんなことは百も承知でしたけど、頑張っていればどこかで評価してくれるかも知れないって思っていて…いや、結局のところはいくら一生懸命仕事をしても、最終的には報われなかった。結局は僕の幻想だったんですよ』環は口ごもった。どう励ましていいのか言葉が見つからなかった。『けど…悔しいなあ…脇目も振らず、サービス残業や休日出勤も当たり前のようにこなしてきて、その挙げ句に締め出しを食らうなんて…いくら会社都合とはいえ理不尽だよなあ…本当に悔しいなあ』環は泣き続ける鈴木にハンカチを手渡し、手を握りしめた。『この仕事が、旅行が凄く好きでした。旅行プランを作り上げる楽しさ、施行の達成感、旅行者の楽しさを見聞きでき、感謝される喜び、その全てに満たされた気になっていました』環は鈴木に顔を近づけ、睨めつけるように凝視した。『鈴木さんは旅行代理店でさあ、皆が喜ぶプランを作って、皆が感謝するような場所やサービスを提供したんじゃん。それこそが報われてるってことじゃないの?』鈴木は驚いたような表情を浮かべて環を見た。『和山さんも手紙で鈴木さんの仕事に感謝しているって書いてたじゃん。十分に報われてるんだよ。鈴木さんは』環の言葉に鈴木は何度も頷いた。たまらず嗚咽をあげて泣いた。涙が溢れて止まらなかった。環は半身を起こしたままの鈴木の背中を擦った。『ぬしの会社は確か、F井トラベルツーリストじゃったの?』隣りにいた源太郎から声をかけられ、思わず顔を上げて上目遣いに覗き見た。『支店長の名刺は持っとるか?』鈴木は名刺入れから、支店長の名刺を源太郎に差し出した。『ふむ』束の間、立ち止まり源太郎はひらひらと名刺を振りながら、何やら考え事をしているような表情を浮かべた。『環、少し話がある 付き合うてくれんな』源太郎は環を連れて病室から出ていった。

鈴木の処遇の話し合いから一週間後、野口係長と支店長の森は、応接室にいた。何やらアポも無しに会いたいと言っている人がいますと受付に言われて、約束も無い者を通すなと怒鳴ったばかりで、二人共、憤懣ふんまん遣る方無い様子であった。『しかし、誰だ?俺達に話があるとか?君は心当たりあるか?』支店長から話を振られて、野口は慌てて否定した。そしてノックの音と共に三人の男女が入ってきた。女性二人は明らかに若い。ショートカットで髪を紫色に染めて、かなりの数のピアスをつけていた。格好も女性ロッカーのように派手だ。もう一人はキャリアウーマンといった感じで、長めの黒髪に全身黒ずくめのパンツスーツ。鼻筋が通った整った顔立ちをしている。黒縁眼鏡が仕事の出来そうな容貌を立たせている。最後に入ってきた年寄は

色紋付羽織袴を着て片足が悪いのか杖を持ち、カツカツという音を立てて応接室のソファにどっかりと座り込んだ。白髪頭を刈り上げた風貌は独特のオーラをまとい、対面の二人にまるでどこかの組長を彷彿させた。何やらクレームでもあったのか?森はゴクリとつばを飲み込んだ。しかしこの真ん中にどかりと座る貫禄ある初老の男、どこか見覚えのある風貌。恐らくは、自分とほぼ同い年であろうと森は推測した。しかしながら、この相手の身のこなしといい表情といい声色といい、何かが引っかかる。『薄情なやつばい 俺んことば忘るーなんてよお』この独特のイントネーションによる博多弁はまさか…束の間、必死に記憶の糸を詮索してみる。『まさか…猫下?』森が探るような視線を送ると、源太郎は含み笑いを浮かべたままうなずいた。『ひ、久しぶりだね。相変わらず元気そうで…何より…』森は上目遣いで頭をペコペコ下げた。隣りにいた野口が不思議そうに見ている。『急にしおらしかこと言いやがって、相変わらず小賢しか奴や』源太郎は語気を荒げて森を睨めつけた。『おはんが旅行代理店の支店長ばしとると風の噂で耳にしたけん、まさかと思いきや案の定や』二人の空気を察するように隣りにいたリクルートスーツの女性は森にそっと名刺を差し出した。森が否応なしに名刺を受け取り確認すると「文豪社 週刊文豪 雑誌記者担当 榎並えなみ祐子ゆうこ」と書かれていた。少なくとも同窓会の話をしようという気はないらしい。元より森はこの無骨でぶっきらぼうな偏屈とは、高2の時、同じクラスではあったがお互いに仲違いしていた。『で、今日は私達二人に何か用があるとか?』森はソファにふんぞり返ってぞんざいな口をきいた。源太郎は隣に座る榎並に目配せをし、頷いた榎並は、カバンからA4サイズの紙面を差し出した。「パワハラ、セクハラは当たり前、ストーカー犯罪で逮捕された容疑者が明かす大手旅行代理店F井県トラベルツーリストの闇」テーブルに置かれた紙面にはそのように書かれていた。隣には大文字で倒産クラスのスキャンダルと大々的に書かれている。『な、な、な、なんだこれは!』野口は声を荒げた。『よかけん黙って最後まで読みんしゃい』テーブルの上に置かれた試し刷りの原稿には、支店長と野口の顔写真が遠目にも窺える。野口は再び怯む。隣りにいる支店長の森は憮然とした表情のまま書類に視線を落としていた。『ご存知のことかと思うのですが、先日ストーカー犯罪で逮捕された契約社員の生田美来さん、彼女は逮捕前に我が文豪社にこの記事を売り込みに来ておられました』榎並は支店長に視線を合わせながら言葉を続けた。『彼女は契約満了で辞めるつもりで、写真やICレコーダーで証拠を入手し、こちらの方へと持ち込まれたのです』森はあまりの情けなさに笑いだしそうになっていた。『なにを言うか、オタクの週刊誌は、犯罪者の言うことを信じるのか?』静まり返った部屋に響き渡るほど大声をあげたが、相手が怯むことは全く無かった。環がICレコーダーを取り出し、スイッチを押すと罵声や怒鳴り声、椅子を蹴り倒す音、辞めてしまえと圧力をかける声色、それら全てが隣りにいる野口の声であった。野口は顔が瞬時に青ざめていた。『実はの、この記事は最初に、ストーカー被害にあっていた鈴木に、彼女本人が自首する前に持ち込んだらしいんじゃ、鈴木が言いがかりに近いパワハラを間近に見とったらしいでな』源太郎は試し刷りの原稿を指差し、対面の二人を睨みつけた。『じゃがの、奴はこれを持ち込まないでほしい、そして出来れば刑期を努め終えたら、再び戻って欲しいと彼女に伝えたんじゃ。やけん、コレが公に出ることは無かったばい』束の間、応接室は静まり返った。『おはんらがセクハラやパワハラばしとーとば黙っとくごと指示した者に対して、この手んひら返しによお、業を煮やした儂と姪っ子が代わりにこん出版社に持ち込んだばい』先生にはお世話になっていますので…と榎並が頭を下げた。思い出したこの眼前にいる無作法な男は作家で直木賞か何かを受賞したとも聞いたことがあった。『森よ、どうするとや?早ければ来週にもこの記事を掲載してもらうけん。なんぞ言い残しがありゃ言わんね』森は黙ったまま動けずにいた。源太郎はテーブルが破壊されるくらいの勢いで拳を叩きつけた。対面の二人は腰が抜けそうになるほど驚愕していた。『とりあえず、鈴木の処遇を取り消すように再度人事と話をせえや。さもなきゃ更に上にこん話を持っていくだけたい。上司や権力や地位んある者ば告発することは言葉にでけん程に大変なことなんぞ』年老いたとはいえ、大柄で肉厚な身体から発せられるオーラはまるで変わってなかった。森や野口にもはや返す言葉は無かった。

週末、鈴木の入院先にクルマを走らせる環は、携帯の着信に気づきBluetoothスピーカーで通話する。

『はい、もしもし』『環か?儂や』源太郎の声だった。『いちおう報告しとこう思うて電話したんじゃ』『何を?』『鈴木の左遷な、無くなったそうじゃ、ほんでの、代わりに野口なんたらいう奴が、どっか違う支店に飛ばされたらしいがの』『そうなんだ』環は前方に注意しながら目を輝かせた。『万事、めでたしめでたしじゃの』『うん ありがと』『ほじゃの』と電話が切れた。相変わらず愛想もクソもない。環は苦笑を浮かべた。結局記事は掲載されることなくお蔵入りとなったが、件の上司の左遷でひとまず胸をなでおろした。環は鈴木のお見舞いに用意した金城一紀氏の「フライ,ダディ,フライ」を助手席に忍ばせて、愛車コベンのアクセルをグッと踏み込んだ。

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