第14話 ボトルネック
環は早朝に愛車であるYAMAHAのセロー250を引っ張り出して、アイドリングをしていた。タン、タタンと小気味よい音を一定的に奏でている単気筒の音色が心地よく鼓膜に響いてくる。排気音が周囲の大気を震わせるほどのモンスターマシンでありながら、細身の車体の無駄を省いた流麗なフォルムに思わず見惚れてしまう。お気に入りの愛車は実に程よく補強し整備されていて、スリップオンマフラーにハリケーンハンドル、フロントフォークは純正ながらもリアホイールはゴールド色のノイズギアホイールを噛ましてのファットタイヤは組み上げるまでに約一ヶ月かかってしまった。今でこそセーブしているが学生時代は四年間で、トータルほぼ一年をツーリングに費やした。テントやコッフェル、シェラフをバイクにくくりつけてのソロキャンプを満喫し、沖縄の離島以外は日本列島はほぼ網羅し、ツーリングとライブ参戦が学生時代の環にとっての息抜きでもあり、生きがいでもあった。アイドリングを十分に行い、吸い殻を携帯灰皿に収め、腕に嵌めているスマートウォッチの時間を確認し、待ち合わせに遅れないように、セロー250に乗り込み出発した。10分ほど家屋やのどかな蕎麦の花が植えられた田畑が広がる国道を走り、鈴木邸の手前でスロウダウンし、単車を停めた。『相変わらず良い音させてますね〜』朝の挨拶を交わして、鈴木は革ジャンを羽織って大きく息を吐いた。シールドをあげて、環は軽く笑みを浮かべながら、予備のフルフェイスを『ほいっ』と鈴木に手渡した。ヘルメットを装着した鈴木がタンデムシートに跨がった瞬間に、環は急発進し、豪快にウイリーした。『うわわわわわっ』鈴木は慌てて、環の細い腰に両手を巻き付けた。『ちょ、猫下さん、勘弁してくださいよ!』落とされかけた鈴木は背中に冷や汗を浮かべて環を非難した。ヘルメット越しに『あははははははは』と環の甲高い笑い声が聞こえて思わずため息を漏らした。未舗装の
東尋坊の先端の崖の険しさが、環をさらに焦燥へと追い込んでいく。『僕は当時、仕事の忙しさで、全く妻の身体の不調に気づかなくて…』結婚し、叶愛ちゃんが生まれ、幼少の頃に亡くなられた奥さんは、乳ガンで亡くなられたと鈴木から聞いていた。
『僕が仕事人間で無かったら、妻は自分の身体を気遣って、早期発見できたんじゃないかな?ってふと思って…』『ちょ、スピ、一回落ち着いて』
日本海から吹きすさぶ突風に、身体が竦んでしまい、これ以上は前に行けそうになかった。『僕がいなかったら…妻は…彼女は…生きていたかも知れない…』鈴木は最先端の崖のさらに先の方に足をゆっくりと進める。『スピってば!』かなりの高さに目眩がした。まさに波しぶきがあがるその瞬間を見ることができるので、恐怖感で思わず目を瞑りそうになる。日本海からの突風に、鈴木はバランスを失い、右脚を踏み外した。振り向いた瞬間、吸い込まれそうなくらいに美しいコバルトブルーの海が眼前に見える。『スピー!』環の張り上げた声に振り返り、差し出された手に、懸命に手を伸ばすが、届かなかった、自分は落ちてゆく。時間が引き延ばされるような奇妙な感覚でスローモーションの映像を見ているようだった。環の絶叫だけが脳内に響き渡る。次の瞬間、背骨が折れたような衝撃を感じ、海に投げ出されたのが分かった。海水が無遠慮に自分の口の中に飛び込んでくる。暗闇にも似た幻想的な海の中で自分の意識が徐々に薄れていくのが分かった。何も聞こえない、何も見えない、何も感じない。突然全てが失われてしまった。此処がもしかして天国なのだろうか?
『こーちゃん』『こーちゃん』懐かしい声がした。そこには元妻の
『こーちゃん、夕焼けなんていつでも見れるじゃない』と美優は笑った。ふと隣を見ると、環が一眼レフカメラを片手に立ち尽くしていた。『猫下さん、夕焼け空なんて、いつでも見れるんですから』先ほどの美優の台詞を繰り返すと、環はカメラをカバンにしまい込み、笑顔をのぞかせた。ヒューッと木枯らしのような風が吹いた後、美優は突然姿を消してしまった。『美優?』『美優?』『美優?どこだ?』懸命に叫ぶも、姿は見当たらない。『おーい!』『おーい!』『スピ』『スピ』『スピ戻って』『スピお願い戻って』叫んだ後に何やら聞いたことのある声が幻聴のように響いた。
目が覚めたら病室であったことには驚いた。白が基調の清潔な部屋で、見覚えのないベッドに寝かされていた。窓の外には綺麗な夕焼けが見えた。点滴がぽつりぽつりと滴り落ちる音がした。今日が何日で何曜日かも思い出せなかった。しかしそれよりも、お見舞いに来た環に娘の叶愛が自分を見るなり号泣したのにはもっと驚かされた。聞けば自分は丸々一週間眠っていたらしく、二人はほぼ一睡もせずに毎日見舞いに来てくれていたらしい。叶愛曰く「よく頑張ったね」とのことで、環に至っては「初老なのによくあんな無茶をしたもんだわ」という苛立ちとお叱りの言葉を受けたが瞳にはうっすら涙が溜まっていた。岩にぶつかることなく、水深の深い海にそのまま落ちたが衝撃で気を失って息を吐いてしまい痛みと寒さと痺れで手足が麻痺して泳げなくなって沈んだところを後から飛び込んだ環に助けてもらったらしい。自分が入院している間、病院の外に出ることはなかったので、もしかしたら職場で何かあったのかもしれない。そんな不安にかられたが、二人が帰るときに何気なくそのことを聞いてみたら、環から封筒を渡された。『同僚の後藤さんって人がお見舞い来てくれて、この封筒も預かってほしいって渡された』戸惑う鈴木を前に、環は開けてみたらと声をかけた。差出人は、以前、淡路島の旅行のプランを担当させて頂いた和山さんだった。身体が硬直した。思わず冷や汗をかく。何かのクレームであろうか?鈴木は意を決してベッドの隣の椅子に腰掛け、ゆっくりと便箋を開いた。
鈴木浩一様
ご無沙汰しております。先日の旅行で担当していただきました、和山です。その節は大変お世話になりました。先日お礼もかねて、御社にお伺いしたところ、事故に合われてお休みになっていると聞き、大変驚いております。お加減はいかがでしょうか。
私達 夫婦は銀婚式もかねての旅行に、かなり無茶な要望を鈴木さんにされたと思います。しかしながら鈴木さんは決して『無理です』とは言わず、希望を叶える為に、誠意を込めて懸命に一緒に探してくれました。私達の出したリクエストはほとんどが娘のもので、あれこれと相談しましたが、いつの間に鈴木さんと旅行プランを練ることが楽しくなってきました。本当にありがとう。いい担当さんと出会えて最高に充実した旅行気分を味わえました。あれほど楽しい旅行は、新婚旅行以来です。事故の事は同僚の後藤さんからお聞きして驚きました。どうぞゆっくりとお休みになられて、お元気になってください。鈴木さんの復帰を楽しみに待っています。
『良かった…』熱い涙がこぼれてきて、鈴木は
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