第13話 成瀬は天下を取りにいく

図書館の喫煙室にて、鈴木は環を待ち構えていたかのように、何本も死骸となったタバコで埋め尽くされた灰皿に、さらに一本を押し込み、まるで久しく再会した旧友のように環に弱々しい苦笑いを見せ軽く右手をあげて挨拶をした。喫煙室には、タバコの煙と、刺々しい空気が充満していた。心なしか鈴木の顔色も悪い。環はそれとなく鈴木になんか元気ないねと声を掛ける。鈴木は無言で頷くと、大きなため息をついた。『この間、宮島未奈さんの「成瀬は天下を取りにいく」を読んで、自分は本当に小さいなと思い知らされました』鈴木のため息と共に吐き出されたタバコの煙がゆらゆらと凧のように宙を舞い続けた。『成瀬は本当に凄いな〜、200歳まで生きようとするし、突然坊主頭にするし、M-1グランプリにも出ようとするし、西武百貨店に命を捧げようとするし』鈴木の唐突な成瀬愛に、環はズッコケて腰砕けになりそうになった。『なんかここのところ、ずっとダメダメでして、TwitterとかSNSで本のレビュー投稿しても、イイネが本当に少なくて、大スランプなんです』環は今度こそ本当にズッコケた。『スピはさあ、承認欲求が強すぎるんじゃないの?別にイイネが欲しくて読書してるわけじゃないでしょ?』鈴木はもちろんと、首がもげるくらいの勢いで高速に頷いた。『他人の目を気にしすぎちゃう性格なんだねきっと… スピは自分の評価を他人に任せるのをやめたらいいんだよ。 イイネの数が自分の評価。イイネがなければ自分は評価されない無価値な人間。 自分のことを自分では評価できず、他人次第で自分の価値を決めてるの?それでいいの? まずは自分が自分を評価してあげること。自己肯定感が高い人は普通にやってる。私自身、自己肯定感が低くて、自分で自分を評価するなんてとんでもない!と思ってたけど、自分の頑張り、本来の自分を認める方が、どんどん伸びていくと思うよ。スピが憧れる成瀬みたいにさ』ブレなきゃそれでいいのよ!と環は鈴木の肩を軽く拳でトンと叩いた。鈴木も申し訳無さそうに頭をかく。『でもさ、承認欲求ってキリがないから、だからこそ承認欲求をモチベーションにすることだって、有りっちゃあ有りなんだよね。キリがないってことはさ、モチベーションが尽きないってことだから。それが幸せな生き方かどうかは別問題だけどね。私は、ウチのアパートのお好み焼き屋の豚玉を食べてるだけで、ああ幸せだーって感じたりするから、向上心や野心がなくて、現状でいいんじゃね?ってなっちゃう。高みを目指せる人っていうのは成瀬あかりみたいに結果を気にしないでやるべきなにかをやる人なんだろうね』鈴木は環の話を身を乗り出して聞き込み、激しく頷いた。まるで自分の特別な神様でも見つけたかのように瞳はキラキラしていた。『でもさ、承認欲求があるないに関わらず、己の無力さを自覚することは、その立ち位置を知ることに繋がるしさ、己の立ち位置が分からない人が仕出かすのが大抵勘違いだったりするのよね。震災ボランティアとかもそんな人が少なからずいたりするよね…』環は吸い終えたタバコの火を消すために灰皿に押し付けた。『叔父からも、「どげん仕事や趣味でも、ちかっぱやりゃあ、自分のやりたかことが見えてくるはずたい」て言われて、その言葉が今でも妙に印象に残ってるの』環はそう言うと、手持ちのバッグの中にラッキーストライクの箱とジッポーをしまい込もうとした。『あれ、もう、行かれるのですか?』鈴木は名残惜しそうに環を呼び止めた。環は束の間、眉をひそめて立ち止まり、黙り込んだまた鈴木を凝視した。ややあって、『まだ何かあるの?』と、ややうんざりしたように鈴木に声を掛けると『実は、娘の叶愛かのあの進路の件で…』と何かを濁すように発言した。『お笑いの学校に行くんじゃないの?』少し間を開けて、鈴木は頭を振る。『一緒にコンビを組んでいた相方が、ご両親の希望もあって進学をするらしくて、共に行く予定だったはずお笑いの学校も頓挫したらしく、あいつ、少し心が折れかけてるみたいなんです』鈴木は環に訴えかけるように言った。『私からアドバイス出来ることなんて特に無いと思うんだけど?』環は謙遜ではなく、本心からそう言った。『お笑いにかける夢が失くなって、今はもう、何と言っていいか、抜け殻みたいな状態なんですよね。成瀬みたいにやりたいことが次から次へとポンポンと出てきたらいいんですけど…』私だってなりたくて図書館司書になったわけでもないし、コピーライターだって半年で辞めたクチなんだけど…と言いそうになったが、話の腰を折るわけにもいかず、懐疑的ながらも話を促す。『最近は、猫下さんに憧れているみたいで、ショートカットにして髪を染めてみようかとか、ピアスの穴を開けてもいいか?とかよく聞かれるんです』『おいおい、別にそれってさあ、私に憧れてるとかそんなんじゃないでしょ?』環はなおも懐疑的だ。『いやいや、娘の叶愛の猫下さんを見る目は明らかに羨望の眼差しだと思います。家に帰っても猫下さんのことを真っ先に聞かれるくらいだから』と鈴木は言うが、環は相変わらず浮かない顔をしていた。『何かさあ、叶愛ちゃんには私が強気一本槍の逞しい女に見えるか知らないけど、私は私で、自分自身は自信がないし、怯えているし、日々を生きるのに精一杯だし、成瀬イズムとはまるで真逆だよ』環は言ったあとにしゅんとした様子で、ガラス張りの喫煙室の外を眺めていた。今でも時折思い出すのは、大学卒業後に、叔父のつてで働いたコピーライター時代だ。リーマンショック後の不景気で、新卒の正社員など、環の周りの知り合いには一人もいなくて、二十代にしてほぼ人生を諦めかけていた。多忙にも関わらず、サービス残業を押しつける割に、契約社員で貰える月給が手取り約十五万、ボーナスは吹けば飛んでしまう枯れ葉のような寸志のみ。家賃や光熱費などをもろもろに差し引くと、手元に残るのは五万円、その中から奨学金制度の返済額の三万円を支払い、残り二万円でどうにか遣り繰りしなければならない。奨学金のことは会社の同僚の誰にも言えなかった。同期の女の子たちは皆、ほとんどが親元から通っていた。そして二十代の女性らしく全員がお洒落な格好をしている。当時、環はユニクロだとユニバレしてしまうために、服はメルカリで安く購入し、スマホも格安プランで機種も込みの料金プランで払っていた。実家に住んでいた頃、コンビニ経営で疲弊していた両親を助けようと、コンビニだけでなく、スーパーやファミレスでアルバイトをしながら家計を支えていたが、その中で環は進学をしなくてはならないと決意をしたのは、アルバイト先にいた先輩やパートのおばさんたちが学歴が無い為に仕事を選べないと毎日のようにこぼしていたからだ。大学に行かない選択をすれば、きっとずっとこの街にいて、ここから逃れられないと思い詰めていた。広告代理店の正規雇用ははっきり言ってほぼゼロに近く、契約社員のままでは何年やろうがキャリアが上がるわけでもないし、昇給もほとんどない、土日もほとんどが出勤である。しかしながら正社員になれる道は皆無である。給料前は、具材のない塩パスタで乗り切っていた。身体と心を完全に壊してしまう寸前までは惰性で働いていた。鈴木が憧れてる成瀬とは本当に対称的な生き方であった。幼少の頃は、作家である叔父に憧れていたので、文芸学科の創作を選択し、大学の四年間は、さすがに将来は文章を書いて生活するなどは考えても無かったが、好きなミュージシャンのLIVEに、コンパなどワクワクすることだらけであった。70年代の洋楽ロックを聴きながら(ほとんどアメリカンロック)適当に短編小説を書いて提出した。決められた枚数は四百字詰めで十枚から二十枚くらいだったと思う。書いている内容は、理不尽な暴力に毒親、幼児虐待、虐め、嫉妬、野蛮、孤独、復讐など人間の嫌なところを書いたバッドエンド物語ばかりで、今で言うイヤミステイスト満載であり、同じゼミの学生たちからは、「ダーク猫下」などと呼ばれていた。正直、みんなからどのような評価を受けるかなど、これっぽっちも考えておらず、最低限、提出しないと単位が取れないから書いているだけで、自主的に書いたものなど一つもなく、頭の中はLIVEやフェスで一杯であった。進学したからといって、これだと決めて突っ走ったわけではない。「成瀬は天下を取りにいく」の中にあるもっとも印象的な場面で、【「やってみないとわからないことはあるからな」成瀬はそれで構わないと思っている。たくさん種をまいて、ひとつでも花が咲けばいい。花が咲かなかったとしても、挑戦した経験はすべて肥やしになる。】この場面を読んだ瞬間に、この作品がとても眩しく感じた。自分はどうありたいのか、何を表したいのか、何を伝えたいのか、それを真摯に見極め、追求していく気持ちのブレない強さ。それこそが主人公の成瀬あかりの強さであり才能だと思う。環は改めて自分の心の弱さを見つめ返していた。隣りにいた鈴木は環の瞳の中が少し潤んできているのに気づき、思わず動揺すると同時に何とかしてあげたく思い、環の手を取り、軽く握りしめた。バチンッ その瞬間、鈴木は雷鳴のような音と額に強烈な痛みで身を崩した。目を開けると、環のデコピンが自分の額にクリティカルヒットしたのがぼんやり確認できた。『いって〜』激痛に耐えかねて思わず額を両手で抑え込む。再び目を開けると、出口付近にいた環は振り向きざまにベッと舌を出して、そのまま喫煙室から出ていった。

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