第12話 店長がバカすぎて

『いやいやいやいや、やっぱり、読書紹介系のインスタグラマーやらユーチューバーは増えてきましたけど、やっぱ木又きまた多詩子たしこさんが圧倒的に最高だと私は思うんですね』図書館の地下にあるガラス張りの喫煙室にて、鈴木は環に、興奮気味に熱く語っていた。『誰?それ?』思わぬ返答に、途端に鈴木は手にしたタバコを落としそうになり、腰砕けになった。『あの?猫下さん、ネットとかあまり見ない系ですか?』『あまり見ない系かもね』すかさず鈴木に突っ込まれ、苦笑しながら答えた。最近オススメの読書アフェリエイターだと鈴木は環にスマホを見せて紹介した。『読書紹介のアフェリエイターとかさ、色々できて、本を選ぶのにも苦労しなくなったよね。でも私は直感で本を選ぶのが好きだな。装丁で選ぶジャケ買いとかさ』環はそう言った後に、タバコの煙を気持ちよさそうに吐いた。『けどやはり、本選びは外したくないですものね〜』と鈴木は言い、短くなったショートホープを灰皿に押しつける。『ん?ならもうスピには、私は必要なかじゃね?』環にそう言われて鈴木は狼狽えた。『え?そんな…ちょっ…待ってください』吸い殻をステンレスのゴミ箱に放り込むと、いきなり環に拝み込んできた。『猫下さん、お願い致します』と環の目の前で思い切り両手を合わせた。『これからも読書に関してはド素人である私に、ご教示いただけますでしょうか?』そうねえ…と内心で環は思うが、本来の仕事とはまったく身にならない作業を請け負うようで、なんだかなあという気持ちにもなる。環にとっては、鈴木は趣味みたいなもので、このおじさんとのチョケたやり取りは、実際のところ楽しい。しかし環はある重大な秘密を鈴木に言わずに隠している。実は、鈴木が尊敬してやまない木又きまた多詩子たしこは、環の裏の顔であり、覆面ユーチューバー、インスタグラマー、ティクトッカーとして、小説を紹介し、『ダ・ヴィンチ』などの雑誌でコラムを連載し、『王様のブランチ』でも取り上げられるほどの、読書紹介クリエイターでインフルエンサー。20代で女性であるという以外は、すべてが謎にされている。素顔を隠して活動するブックトッカー木又多詩子は、隠れファンも多く、出版社から帯の依頼や、あとがき解説、本の批評本の紹介やキャッチコピー、宣伝文句、など出版不況と言われて久しい紙の本の媒体危機の中で集客効果を担っていた。もっとも環自身は、大学時代の書店アルバイトで、POPなどの宣伝効果で売り上げに大きく貢献し、卒業後に就職する気はないかと誘われた逸話を持つほど本好きでもあって、読書紹介クリエイターという副業は、ある意味天職と言っても差し支えなかった。環が大学時代にアルバイトをしていた全国展開の準大手である『宮秋書店』はF井県内でもかなり大型の書店で、毎月六千点ほどの商品が、出ては消えて、その搬入、陳列、搬出に伴う現場販売員の労力は、正直言って賃金と全く見合っていなかった。さらに現場では正社員が二割で、後は契約社員とアルバイトで賄われており、当然ながら、腰掛け程度で辞めていく人が圧倒的多数である。僅か半年くらいのペースで一緒に仕事をする人が頻繁に変わることも多々あった。一番最初に環に仕事のノウハウを教えてくれ一緒だった人は、とても優しくて分からないことがあれば詳しく指導してくれ、さらに、右も左も分からない環に仕事の時間割表を作ってくれたり色々と面倒を見てくれて。とても良い社員さんだったのだが、当時の店長と反りが合わずに結局辞めてしまった。店長はアルバイトの環に対しても容赦なく、環がいつもどうりに仕事をしていると「勝手なことをやるな」や「指示があるまで何もするな」、「俺に従え」などとパワハラまがいな言い分で、当時はほとんど何もやらしてもらえなかった。このバイトは慣れだから色んなことをしていけばOKと最初の面接時にこの店長に言われたにも関わらず、働いてみるとまるで正反対で驚かされた。しまいには、情報の伝達ミスや、社員やそこで長くバイトをしている人しか分からない言い方で指示したり、その事について質問すると、「それ位分かれよ!」と罵倒し、分からない事があれば聞けと言うくせに、聞くと怒る。という矛盾に頭が痛くなった。前の人が辞めてしまった為に色々と仕事をさせてくれるはのはいいのだが、今までやったことのない未経験な仕事ばかりなのでどうしても作業が遅くなり、そこで、「早く出来るように頑張ろうね」とか言えばいいのに、「遅い!」「今まで何をしてたんだ!」と理不尽な言い方で罵倒する。さらに、「お前は怒られている時、自分は悪くない的なオーラが出ているから反省していない!」、「お前は嘘をついてる、だから信用していない!」、「お前の大人しい性格だと、いずれ大きな失敗をする!」など訳の分らんことを上から目線で言ってくる。言わせてもらえば、全国展開しているとはいえ店舗数僅か三十にも満たない少ない中堅書店の店長ごときに何故そこまで言われないといけないのか。たった半年しか働いていなくて、あまり反りが合わないバカ店長に何故いきなり性格を否定されて、未来を決めつけられなければいけないのか疑問で、腰も痛めてしまい、絶望の淵に叩き落されそうで気持ちは萎えかけていた。当時、大学生の環は、薄化粧で栗色の髪を伸ばし、ポニーテールにして、円満な人間関係を築ける性格であった。アルバイトを辞めようとしていた環のことを聞きつけた向かいのアパレルショップの店長さんが、わざわざこちらに来ないかと、誘ってくれた。折しも環の叔父である源太郎が13年ぶりに小説を出版するという時期と重なってしまい、保留とはなったが、気持ちはすでに揺らいでいた。それでも環は堪えていたが、環が源太郎の姪と知ると、店長は新刊の発表と同時に、当店でサイン会を催すように環に催促をした。通常ならば渡りに船なのだが、叔父の本が売れると信じて疑わない環にとっての余計なお世話としか言いようがなく、開催してやるという店長の阿漕あこぎな姿勢が気に入らなく、この申し出を突っぱねて、辞表を提出した。その後まもなく、書店は閉店して、店長は地方の書店に転勤になったと聞いた。その後、出版不況の影響を受けて、その書店も潰れたらしく、早期退職を受け入れたという噂を聞いた。

コロナ禍以降、今は大学ではどのような授業が行われているのかよくは知らないが、環にとって、文章を書くうえで大学の授業はおおいに役立った。文芸学科の創作コースを選んだものの、環には文章の書き方がまるで身についておらず、むしろ周りにいるゼミの皆の熱意に圧倒されっぱなしであった。四百字詰めの原稿用紙を前にして、何も思いつかず、何も書けない毎日に、自分の創造力の無さを恨んだ。小説を書く時はプロットが必要であると授業で教わったが、そもそもそのプロットすらも書けない環は、ゼミの課題も投げ出していた。『なにも小説ばしゃっちが書かんでも、エッセイや本ん批評とか書きゃあよかやんか』叔父の源太郎は、課題に苦しむ環にそう言った。そもそも環が読書にハマりだしたのは『本を読むのは頭の良い子』という概念を打ち砕き、本の持つ魔力に自らが陶酔したからだ。初めての長編小説は中島らも氏の『ガダラの豚』で、著書を読んだ瞬間に環は雷に打たれたような衝撃を得た。中島らも氏の描く超常的な世界観に、終始魅了され、圧倒された。幼少の頃、コンビニ経営で忙しく両親の夫婦仲も微妙な実家に帰りたくない環は、図書館でギリギリの時間まで読書に勤しんだ。海外やら宇宙やらエベレストの頂点やら行けない場所へ連れて行ってくれたり地球の裏側にいる人や他の惑星に住む未確認生物の話が聞けたり、過去や未来の人たちにも会える。映画さながらの大冒険にも巡り合える魅力にすっかり取り憑かれていた。高校時代も暇さえあれば濫読らんどくを続け、大学時代は大多数の本を自分で買うようになった。やはり本は良い、そのページを開かない限り、本は何も教えてくれないし何も語りかけてこない。こちらが必要としなければ自己主張もしない。相手から求められなければ、ただ静かに書店の本棚に存在しているだけだ。偏差値が特別高いわけでなく、高尚な純文学を好んで読んでいるわけでもないが、本を好きと感じた理由は何なのかを教えるのではなく、この本は面白いなあと友達に薦めるような感覚でエッセイを書いていこうと心に誓った。しかし副業で本を紹介するコラムを連載している雑誌からは、本を偏って紹介しすぎでは?と編集者からチクリと言われた。かと言って、オールマイティーに何でも色んなジャンルを読んでやろうとはならなかった。興奮気味に、木又多詩子の事を語る鈴木の事を思い出して、思わず苦笑いをしてしまう。レビューするつもりの早見和真さんの『店長がバカすぎて』を再読する。この作家さんもジャンルレスなオールマイティーである。『イノセント・デイズ』のような心にズシンとくるミステリーもあれば、『小説王』のような芯から熱くなる作品もある。『店長がバカすぎて』はコミカルだが、ミステリ風味もあり、かなり面白くて何度も再読した。こんな店長がリアルにいたらいいなと思わせてくれる傑作である。環はふと思い立ち、携帯をとって、叔父に電話をした。『どげんした?なにがあった?』開口一番に叔父は言い、環は余程の用事が無い限り電話をしない自分の不義理に苦笑した。『特に用はないんだけど、めちゃくちゃ面白い本があったから、今度持っていくよ』『ほうか、別に無理して持って来んでもよか』と乱暴に切られたが、話し相手が居ないときっと寂しいに違いない。環は早速『店長がバカすぎて』を鞄に詰め込んで、病院に向かうクルマのキーをポケットに入れて、刺すような真冬の風を浴びながら外へ飛び出した。

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