第11話 イン・ザ・プール

朝一番の小鳥の囀りと共に、ジリリと鳴り響いた目覚まし時計を叩きつけるように乱暴に止めて、時間を確認すると時計は午前六時半を指していた。寝間着姿の環は、ため息をつきながら、右手で掴んだ時計をベッドの隅に放り投げ、覚醒間もない瞳のまぶたこする。前日に飲んだ睡眠導入薬と抗鬱剤が効きすぎたのか、ふらつく身体を奮い立たせ、漆黒のカーテンを開けると、朝日の光刺激が瞳に飛び込んできて目眩と頭痛に苛まれた。コピーライターの仕事をしていた頃にパニック障害を引き起こしてからは、本質的に自分の身体が変わってしまったようで、急に光を浴びたりすると、猛烈な頭痛でしばらくは辛い時間を過ごすことになる。現在の敢えて日当たり悪く窓の少ない住居を選んだのも、家賃云々は二の次で、それが要因である。視感覚というものにすっかり過敏になってしまい、聴覚までも過敏になり、痛みをもたらす可能性のある刺激から意識を遊離させてくれるヘヴィメタルばかり聴くようになったのも、この頃からだ。精神科はそれこそ五十はくだらないほど色々な病院を廻り、口コミなどは全く当てにしなかった。寝付きが悪く眠りも浅く、ようやく眠れたと思いきや仕事の夢で目覚めてしまう。顔色は土気色で頬は削げ落ち、髪はボサボサ、全身を映す鏡の前に立つとゾンビのようで、意味もなく涙が流れ、毎日死んだほうがマシだと叔父に愚痴をこぼしていた。耳を塞いでも脳内で鳴り響く幻聴はガラスや黒板に爪を立てて引っ掻くような不快な音で、幻聴が起こると自分の個人情報がさらされている自分の考えが周囲の人に伝わっていると勝手な感情を抱き、このような感情が起こると、周りで起こっている事象が、すべて幻聴と関連しているような思い込みを起こしていた。思い込みが続くと、「嫌がらせを受けている」「尾行されている」などの妄想を起こし、幻聴をきっかけに妄想が起きるという症状の悪循環を生んでいた。たびたび見舞いにくる叔父を突き飛ばし、目についた物を片っ端から叔父に向けて投げつけて追い返していた。どうせノイズが聴こえるならばノイズミュージックを聴こうとルー・リードの『Metal Machine Music』や、Maurizio Bianchi、SPK、大友良英、Nine Inch Nails を積極的に聴いていた。五線譜上に記譜出来ない「音」の表現は逆に環を心から落ち着かせた。明確な定義が困難な表現力は、同時に環の外見にも影響し、髪をばっさりカットし、紫に染め、両耳にはあり得ない程にピアスを装着し、少しでも光を防ぐ為にパープルのカラーコンタクトレンズをつけて奇抜な衣装に身を包み、半ば自暴自棄になりつつもあった。そんな人生に諦観していた矢先に、偶然だが、環とほぼ同じ症状の精神科医と巡り会えた。その医師は、聴覚や視覚が過敏なだけでなく、触覚や触感、味覚にも過敏で、よくこの世で生きていけれるなという凄まじいレベルの持ち主であった。そして環と同じく、ヘヴィメタルが大好きで、生き辛い感覚を共有出来る人を発見した環は、その医師を前に涙が枯れるのでないかというくらいに号泣した。それは前世で家族または同じ血筋の者だったのではと思わせるくらいに衝撃的な出会いだった。医師は風貌が、奥田英朗氏の『イン・ザ・プール』に出てくる破天荒な精神科医の伊良部にそっくりで、人の良さそうなぽっちゃりとした温かみのある雰囲気をかもし出していた。他の精神科医と違い、安易にクスリを出さず、こちらが話し疲れるまで、徹底的に聞いてくれ、クスリの処方も慎重に選んでくれた。それからの付き合いである。環は未だに医師の名前を覚えようとせずに勝手に『伊良部さん』と呼んでいるが、全く怒ることもせず、いつもにこやかな表情で診察をしてくれる。パニック障害やメニエール病を持つ環にとって大変ありがたい存在であった。『抗鬱剤がだいぶ減ってきたな…喜楽きらくメンタルクリニック、行かなきゃ…』頭痛薬を水で流し込み、環は独り言ちた。先日のストーカー事件が解決し、身体がホッとしたのか、再び、目眩や頭痛を引き起こすようになり、図書館以外に取り組んでいるライターなどの副業にも支障が出てき始めた。奨学金は、やっと三百万返金して、あと三百万ほど…少しでも遅れたら督促状がくる。環はすでに一度経験済みだ。下手をすると給料を差し押さえるとも脅されており、実家に返済の催促をされることは正直もっと辛い。コンビニ経営から解放されて、二人とも清掃業を始めたばかりである。正直なところ、趣味も兼ねての副業をしていなければ、クルマやバイクも手放さなきゃならない青息吐息の状態にため息が出た。『やっほー、久しぶりやね』とハイテンションで環を出迎えた喜楽精神病院の精神科医である喜楽きらく 慶次郎けいじろう(62)は、外見が「イン・ザ・プール」の伊良部医師にそっくりならば、中身の方もまんまコピーと言っても差し支えないほどに似ている。一瞬、奥田英朗先生はこの人をモデルにしたのではないかと勘ぐってしまったほどだ。肝心の喜楽医師に、奥田英朗を知っているかと聞いたら、奥田民生ならギリギリ知っていると言われた。「さすらい」ならギリギリ聴いたことがあるとも言われた。もっとも環と同じくヘヴィメタル志向なので、邦楽もジャパメタ以外は聴かないらしい。環がノイズミュージックを薦めると、『あんなもん音楽とちゃう!』と一蹴された。視覚、聴覚、嗅覚、あげくに触覚まで偏好が激しい喜楽医師は、自分自身でも心底生きづらい世の中やと嘆いていた。『それにしてもネコちゃんの持ってきてくれた「イン・ザ・プール」と「空中ブランコ」と「町長選挙」めっちゃ面白いなあ』先日、環の貸した伊良部精神科医シリーズがめっきりお気に入りのようで、喜楽医師は鼻を膨らませて喜んでいた。『こんな破天荒な精神科医おらんで〜』と笑っていたが、環は正直、貴方も相当珍しいですけど、とは口に出さずに黙っていた。プルルルルと、喜楽の携帯が鳴る音がした。『あの、携帯、鳴ってますよ?』環は喜楽の白衣のポケットを指差しながら、分かっているのか?というジェスチャーを示した。『せやねん!』返す刀で、顔色を変えずに喜楽は環に言う。『せ…せ、せ、せやねん?』思いもかけない返答に思わず窮してしまう。『せやねん!』喜楽ははっきりとした口調で繰り返した。『はい?』会話が全く成立しない…電話は鳴りっぱなしだ。環はたまらず肩をすくめて、両手の手のひらを上に向けてアメリカ人のWhy?ポーズを強調する。『知らん?せやねん!って?トミーズ雅さんがやってる番組やねんけど?』いや、それは知ってるけど…トミーズ健さんもおるし…てか、今言うせやねんは、鳴り続ける電話に対して無反応なんは何で?と聞いてのリアクションがせやねんやったはずやけど…環は訝しげに喜楽の顔を覗き見る。『せやねん!の放映地区知ってる?』いや、知らんし!ていうか、多分だけど、物理学のボイル・シャルルの法則より知らん人のが圧倒的多数だと思うけど?「せやねん!」の放送地域なんか、義務教育で習わんし…と環は心の中で、喜楽のお気楽な性格を罵倒する。『せやねん!放送は関西圏でもさあ、F井県は、陵南部だけで、陵北部は放映されてないねんやんか?なんで? F井県は関西圏ちがうの?』知らん…そんなん知らんがな…という言葉が喉元まで出てきそうになった。 陵南と綾北の区切られた場所すら知らん。スラムダンクの陵南VS湘北なら説明できるけど。『そもそもやけんどF井県は近畿なんか北陸なんか場所が微妙なんやな』話がだいぶ本筋からズレたというか、軌道から外れて来ているというか、そもそも私はこの人と何を話したいのだろうと環は一度頭の中を整理する。鳴り続けた携帯はいつの間にか諦めたように大人しくなっていた。『あの、先生?』『んん?』『ちょっと また片頭痛みたいなの、出てきたんです。痛み止めとか、抗鬱剤も残り少なくなってきて…』喜楽医師は、ふうんと他人事のように頷くと、机の引き出しからバファリンを取り出して、環に手渡した。『これでどないや』と言われて、環は思わず椅子から転げ落ちそうになった。『あの、先生、私はちゃんとしたクスリを貰いに来たんですけど』環はちゃんとしたを強調し、ため息混じりに呟いた。『え?いらんやろ?』喜楽医師はキョトンとした表情で言うとボールペンをくるくると右手で回しだした。『最近は心臓バクバクとかも特にないんやろ?』とパニック障害のことを聞かれ、あっけらかんとした口調に思わず頷くと『なら、ええやん。順調で何よりやわ』喜楽医師は無邪気に羨ましそうな顔をした。不思議である…そのぬいぐるみを彷彿させるぷっくらとした風貌の医師と向かい合って、じっくり話をしてしまうと、どんな相手にも絶対に気を許してしまうようなところがある。それは環以外の患者たちもその例に漏れず、ものの五分も話をすると、それこそ彼らの実の家族とでも話をしているかのように打ち明け話を始めてしまう。仕事やら私生活やらプライベートな悩みを誰かと競うように喋りまくる。気がつくと、こんなことまで言ってもいいのかなと思い返すくらいである。性格にもしなやかな弾力性があり、まるで旧来の幼馴染と話をしているような気がしないでもない。だからこそこの病院は話を聞いてほしい人たちでごった返すのであろう。『んじゃ、一応、デパスと睡眠導入薬出しておくけど、何も異常なきゃ飲まんようにしときや』喜楽医師は診断書を書きながら、不承不承にそう言った。環は黙って頷いた。『今度また、ストーカーの話を聞かせてや』と喜楽医師は環の顔を見ながら鼻を膨らませた。よほど気になるらしい。『じゃ、伊良部センセ、また来るね』と環が言うと『伊良部やない!喜楽や!』と毎度同じ道のやり取りを返して待合室に向かう。環は診察室から出ると、いつの間にか身体から憑き物が落ちたみたいに楽になっていた。

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