第8話 村田沙耶香作品「コンビニ人間」

その日、鈴木が借りようとしていた本の中に村田沙耶香さんの「コンビニ人間」が挟まれていたのを環は目ざとく発見した。『コンビニ人間じゃん。第155回芥川賞受賞の…』環は鈴木の借りた本を打ち込みながら、独特の表紙を目の当たりにしながら、そう話しかけた。『そ、そうなんです。実は芥川賞とかも読んでおかないとな…なんて思いまして』鈴木はそう小声で言いながら、居心地悪そうに大柄な身体を縮めて、恐縮していた。『何で?そんな畏まらなくていいじゃん、芥川賞!どんどん読んで、どんどん吸収しなよ』そう言って、鈴木に微かに微笑みながら、両手で借りた本を差し出した。『あ、はい、ありがとうございます』鈴木は頬を紅潮させながら差し出された本を受け取るとペコリと頭をさげた。『「コンビニ人間」も、まあまあ異常な人たちが登場するけどさ、村田沙耶香さんの作品である「地球星人」や「殺人出産」なんてもっと異常な世界観だからね〜読んだら違う世界へトリップさせられちゃうよ』環は笑みを浮かべたまま、借りた本を両手で抱え込む鈴木に話しかけた。『そ、そうなんですか?』鈴木はそのようなマニア向けの物語が好きなのか、めずらしく食いついてきた。『うん、村田沙耶香さんのエッセイの「となりの脳世界」なんて凄いよ。この人の頭の中、どうなってんの?みたいな独特の感性の持ち主。誰かの脳を借りて世界を覗いてみたいなんて映画の「インセプション」の世界観だよね。なんかクレイジー沙耶香の作る映画とかも是非観たい!』『ほう』鈴木は身を乗り出し、さらに食いついてきた。『虚構なのか、現実なのか、それとも夢の中なのかの没入感がエグいし、身体的な違和感を言語化できる能力は唯一無二、でも繊細で可愛らしくて好奇心旺盛で、本当に好き』環は両手を組んで、ウットリとした表情を見せた。『あ、ありがとうございます。なんか楽しみができました。「コンビニ人間」読み終えたら、他の作品も読んでみたいと思います』鈴木は一礼すると、踵を返し、出口へと向かっていった。環は鈴木が出ていくのを見届けると、再びパソコンに目を移した。村田沙耶香作品の「コンビニ人間」は、環の進路を確定させた作品でもあった。作者の私小説とも言われるこの作品。コンビニ店員としか生きられない人間を描き、普通とは何かを問う問題作であり、現代社会を反映した傑作。36歳未婚女性が小さい頃から普通の感覚が分からずに過ごし、周囲からはどうすれば治るかと心配されて育つ。そんな主人公は大学在学中にコンビニのバイトを始め、卒業後も就職せずにそのままコンビニ店員として働き続け、後からバイトを始めた男に、コンビニ的な生き方なんてダメだと指摘されてしまう。確かそんな内容だった。環の両親は彼女が物心ついた頃からコンビニのフランチャイズ経営をしていた。急ぎ足で向かえば家から十分程度のコンビニに、環は週五で早朝シフトを手伝っていた。早朝勤務はいつも人手が足りなく、両親が嘆いていた為、高校時代から、朝の五時から駆り出されていた。眠いしだるい気持ちはあったが、二十四時間態勢で哀しいくらい勤勉に働く両親を目の当たりにしていた環は、否が応でも手伝わざるを得なかった。コンビニに着くと、まずは品出し、出勤時間のラッシュまでに、おにぎりやパン、サンドウィッチに弁当、惣菜、お茶、雑誌などを手早く並べる。並べても並べても次から次へと色んな商品が搬入されてくる。息をつく暇もない。環が幼い頃には、地元にはまだコンビニなどはなく、両親が地域で初めてコンビニをオープンさせた。もちろんフランチャイズ契約であったが、開店の為の負担金は、お互いの両親や親戚たちから借りて始めた事業であった。しばらくの間は繁盛しっぱなしであったが、近隣に続々コンビニができ始めてから経営は段々と低落傾向となり、それでも地元の顔なじみの客たちでどうにか持ちこたえ、ギリギリ蓄えてきたのだが、近くに同チェーンの直営店が開店したときは、それまで慢心していた気持ちは、どこかに吹っ飛んでいた。本部のエリアマネージャーに訴えるも、そんなに騒ぐほどの近距離でないと一蹴され、客の取り合いとなり、環の中では、いよいよ潰しにかかってきたとしか見えなかった。フランチャイズ契約なので、真新しいアイデアなどは出せず、状況を指でくわえて見ているしかなく、やがて近くに大型のショッピングモールが出来ると、売り上げはさらにガクンと落ち込み、家計は火の車となった。直営店の方もいよいよ不味いと撤退し、両親もお互いに音を上げそうになったが、膨大な違約金が頭をかすめ、ボロボロになりながらも、他のアルバイトをクビにして、家族三人だけでどうにか契約期間満了まで乗り切った。その頃から両親は盛んに、環に有名な大学に進学して、私たちのような生き方を真似ないようにと毎日しつこく言ってきた。もとより環自身が進学する気は無かったが、当時大ブームとなっていた芥川賞受賞の「コンビニ人間」を読んで、こんな生活は真っ平だと、一念発起し、刻苦勉励に励んだ。そして幼い頃より環のことを可愛がってくれた叔父に入学金を肩代わりしてもらい、貸与型の奨学金の審査にも通った為に無事に進学出来たのだが、文芸学科にて「創作」を選んだ環は、叔父のように文章を書いて生活するなどまったく考えてもいなかったので、ゼミが書くことに対してやる気のある人ばかりで圧倒された。文章で自分を表現したい人が多く、環は本を読むのは好きなのだが、叔父のように書くことで自己表現しようなどとは露にも思わず、意欲のある人たちが集まっている中で、肩身が狭くて仕方がなかった。当時の環はハードロックやヘヴィメタル漬けで、アルバイトでお金を貯めては、ライブに足を運び、ロックフェスでは物凄い豪雨で、頭から、バケツをひっくり返されたようなくらいにずぶ濡れになったりもしたが、暇を見つけては懸命に海外や国内のロックバンドのライブに参戦した。ゼミでは安部公房やら中村光夫などがテキストで出されていたが、古書店で売られていた「ガロ」にハマり、つげ義春の「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」、「沼」の世界観の方に遥かに興味津々だった。当時は、ミステリーや純文学などもほとんど読んでいなかったが、それでも読書自体は好きで、書くことの方には相変わらず意欲はなく、文芸学科に進みながらも、将来の職業の関心は音楽雑誌の方に傾いていた。陽が全く入らない小汚い倉庫の中で、値札付けのアルバイトを続けながら、70年代ロックを聴いてばかりで、ゼミの授業には全く身が入らない状態だった。原田宗典ファンであった環は、創作で小説や詩、評論を書く人たちの中で、唯一エッセイを書いて課題を提出していた。課題である原稿用紙のマス目を埋めなければという意識が強かったので、自分の作品に対して愛着など全く無かったが、ゼミの学生が、教授に作品を罵倒されて、大泣きするのを見て、彼らの作品への熱意の大きさに改めて驚かされた。彼らの小説に対する情熱が太陽だとしたら、環の情熱の大きさは所詮ミジンコ並みであったのだ。ところが意外にも、教授や学生の皆は、環の作品を高評価し、単位さえ取れたらそれで良しと構えていた環は、逆に狼狽うろたえる羽目にあった。しかしそれまでの慢心した思いは捨てて、書くことに関心を絞ると、叔父の紹介もあり、広告代理店に願書を出し、コピーライターとして入社出来たのだが、あまりの激務により、体調を崩して会社を僅か半年で辞めることになった。鬱病とパニック障害が併発したのもちょうどこの時期である。アパートに籠もる環を見かねた叔父は、学生の頃より懇意していたF井県の公共の図書館で館長として働く知人に連絡をとり、図書館司書見習いとして、契約社員で入れてもらい、その後、越前市に出来た新しい図書館へと、館長と共に移動した。村田沙耶香の「コンビニ人間」の中にこんなくだりがある。「私は、誰に許されなくてもコンビニ店員なんです。コンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」読んだ瞬間に、胸が熱くなり、感極まってしまったと共に、当時、コンビニバイトに励む自身の居場所はここではないと気づかされた。今やっている図書館司書が正解かどうかなんて自分には分からない。けど鈴木みたいな利用者がいると、自分がどこか救われたような気持ちになるのも事実であった。ささやかで、穏やかな日常に満ち足りていた自分自身を遠ざけるように、環は背筋を立て直し、パソコンに向き直った。

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