第7話 お仕事系小説

『鈴木くん、君ねえ』社内に怒号が響き渡る。『取引先からクレーム来てるよ。連絡が遅いって』係長はバンバンと書類で机を叩いた。同僚たちも冷ややかな視線を浴びせてくる。『いえ、ですが、それはいつもあちらが止めているからでして…』鈴木は理由を説明しようとすると、今度は書類でなく、手のひらで机をバンッと叩いて、睨みつけた。『君がなめられるから悪いんだろうが!』係長のあまりの理不尽な対応に、鈴木は目眩がした。『鈴木くん、明日は朝イチで取引先にお詫びの電話をして』『それから残業してでも入力作業は終わらせるよーに』『じゃあ、僕は帰るから!』矢継ぎ早に言うと係長は踵を返し、社員一同が懸命に働いている中、そそくさとドアを開けて出て行った。鈴木はよろめきながら、自分のデスクに戻り、大きなため息をついて椅子にもたれかかる。『おい、鈴木、災難だったな』隣の席の同僚である後藤ごとう武士たけしが青ざめた表情で声をかけてきた。『ったく、あの野グソの野郎、なんでもかんでも俺等に責任をなすりつけやがって』後藤は憎々しげに言葉を放つ。野口係長の影の渾名あだなである「野グソ」を命名したのは他ならぬ隣の席の後藤である。鈴木より二期上の45歳だが、同じ部署での十年以上の付き合いで、お互いにタメ口で話し合える仲だ。『後藤さん、その渾名はそろそろやめようよ。いくらなんでも係長がかわいそうだ』鈴木は少し笑ってしまいながらも同僚を咎める。『構うもんかい』後藤は吐き捨てるように言った。『言わせてもらえば、アイツなんかより、まだ犬の野グソの方が遥かにかわいいわ』数年前に、後藤は野口係長とペアを組まされた。その頃に思い知るのだが、係長の仕事の杜撰ずさんさに後藤は何度も煮え湯を飲まされた。そして係長のミスの尻拭いを何度もさせられ、入力作業でとんでもない残業を強いられ、辛酸を嘗め尽くした。鈴木は単純明快で過激に野口係長の悪口が口に出来るほどの毛嫌いをしている後藤が羨ましく思ったりもした。『おう、そういえばさあ、この間、オレに貸してくれた本、めちゃくちゃ面白すぎて、何度も何度も読んだわ。本当にありがとうな』鈴木は後藤が仕事に疲れて辟易しているところに、オススメのお仕事小説を渡してみた。こういうときは下手なビジネス本やら自己啓発本よりも、こういうのがメンタルヘルスに効果的だ。津村記久子さんの「この世にたやすい仕事はない」と、三浦しをんさんの「ふむふむ-おしえて、お仕事!」の二冊を貸してあげた。「この世にたやすい仕事はない」は燃え尽き症候群で会社を辞めた三十代半ばの主人公が職安の紹介により、五つの短期のお仕事を転々とこなしていく物語。ありそうでなさそうなニッチでマニアックな仕事ばかりだが、主人公の持ち前の真面目さで乗り切っていくお仕事小説。「ふむふむ-おしえて、お仕事!」は16種類の様々な職種の人たちを、三浦しをんさんが直撃インタビューを行うエッセイ。靴職人にビール職人、三味線にフラワーデザイナー、現場監督、研究家、漫画アシスタントなどの特殊なお仕事内容を深堀りして聞いていく。三浦しをんさんの仕事に対する興味は尽きない。『三浦しをんさんは、とにかくお仕事系小説で面白いのが多い。「舟を編む」に「仏果を得ず」「神去なあなあ日常」に最近では書道家を描いた「墨のゆらめき」とか、どれを読んでもハズレはないよ』へえと後藤は感心した後に、一瞬だけ探るような眼差しで、鈴木を見た。『てかお前、そんなに読書好きだったっけか?』鈴木は同僚に核心を突かれてぎょっとした。今言った言葉にしても、貸してあげた二冊の本にしても、全ては最寄りの図書館司書である猫下環の受け入りの知識なのであった。もちろんSNSで読書アカウントを作っていることは、後藤はもちろん、会社の誰にも言ってはいない。『いや、読書自体は、オレは幼少の頃からずっと好きだよ。ジョジョの奇妙な冒険の単行本も三国志の単行本も全部持ってるしや』ふうんと後藤はようやく納得した様子でパソコンに向き直った。鈴木はクレームを放っておいた野口係長の尻拭いの為に、外廻りを諦めて、電話番と入力の打ち込み作業に集中した。『じゃ、オレ、先に帰るぜ』入力作業に没頭していた鈴木が隣を見ると、後藤がカバンを持って立ち上がっていた。まだ意識がぼんやりしている。『おいおい、鈴木、大丈夫か?またぼんやりしてたんかよ』後藤が心配そうに鈴木に声をかけた。壁にかけられた時計を見ると、午後九時半になっていた。気がつくと、課の人間は後藤と鈴木だけになっていた。『なんか手伝おうか?』と後藤に言われて、つかの間迷ったような表情を浮かべたが『大丈夫!』と断り、ガッツポーズを見せた。『じゃあな、また明日』と後藤は手を振りながらドアを開けて出て行った。軽くため息をつくと、やりかけていた入力作業を再開する。後藤に声をかけてもらわなければ危うく寝てしまうところであった。やることはまだまだ山ほどあり、まだまだ帰れそうにない。今のうちならば図書館の地下にある喫煙室には十分間に合う時間なのだが、今日はすでに諦めモードに入っていた。クビになるならクビになるでいいと自暴自棄になるのだが、鈴木には守るべき家族がいる。営業日報を書き終えた頃には、時計は十二時を指していた。フロアには誰もいなく、手早く荷物を片付け、奥のロッカーでチェスターコートを羽織る。タイムカードを押した後、腕時計を見ながら、終電に間に合うように駆け足で出て行く。途中ですれ違った警備員さんに『お疲れ様です』と声をかけられて、慌てて頭を下げた。フロア全体の電気を全て消してから、会社を出た。外に出ると冬の深夜の突き刺すような寒さに盛大な白いため息をついた。街はぼちぼちとクリスマスの飾り付けがされている。いつの間にか十二月になり、そろそろ今年も終わりだなと忙しい風景を索漠さくばくとした表情で眺めていた。『ああ、いかん、急がないと』と腕時計に手をやると、後ろからクルマのクラクションが鳴り響いた。ぼんやりと佇んでいた鈴木の視界に、薄い粉雪を振り払うように一台のコペンが飛び込んできた。見覚えのあるブリティッシュグリーンマイカのコペンがゆっくりと会社の敷地に乗り入れてくる。『どうして…』鈴木は呆然とした表情で呟いた。コペンから降りた環は、スプリングコートを羽織り、ピンクとブラックのチェック柄のマフラーをまとい、白い息を吐きながら小走りで鈴木のいる場所に近づいてくる。『叶愛かのあちゃんからLINEがあったんだよ。お父さんがまだ帰ってこないって』環は以前に貰った鈴木の名刺を参照し、カーナビに住所を打ち込んで此処まで来たらしく、やや疲労の色が見えた。『一人娘を心配させちゃダメじゃん。』と環から肩をグーパンチされて鈴木はしおれた葉っぱのように頭を下げて謝罪した。『あの、本当に、何と言っていいか…』そう言ったきり二の句が継げなかった。『いいから乗って!』環は冷静に言うと、そのまま運転席に乗り込んだ。さすがに雪が降り出している為にコペンのルーフは締めっぱなしにされていた。助手席に乗り込んだ鈴木は、エンジンをかけた環に改めて御礼を述べた。『まあ、たまにはコイツも動かしてあげなきゃね。冬場はバッテリーも上がりやすいし、何よりもすずピッピと一緒にタバコを吸わないと一日が終わった気がしないのよ』その声音は至って静かであったが、鈴木には何故だか、環の心の悲鳴のようにも聞こえた。

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