第6話 邂逅

それは静かで透き通るような美しい声だった。『おじさん、何か探しもの?』メモ帳を片手に新しくできた図書館を右往左往していた鈴木は、突然声をかけられ、驚き、振り返ると、図書館という空間に不釣り合いなほどに全身が綺羅きらびやかで、小顔で綺麗な鼻筋の小柄なショートカットの女性が、少し警戒するような目つきで鈴木に話しかけてきた。『あ、ああ、あの、ええと…娘に本を頼まれて…』と鈴木は恐る恐る女性にメモ帳を千切って渡した。髪の色は全体的に紫に脱色されていて、フロントは原色の青紫でバックはカラーの濃い真紫。両耳には安全ピンをモチーフにしたターコイズブルーのインダストリアルピアスに、細い首筋には三連リングのレザーチョーカー。モード系を彷彿させるピンクのストライプTシャツにタータンチェックのミニスカート。切れ長の一重まぶたの美しい瞳からはパープルのカラーコンタクトレンズが眩しく映る。ただでさえ出来たばかりで垢抜けたお洒落な図書館に怖じている鈴木の前に、ふいに現れたロックバンドのヴォーカル担当のような女性に、軽く圧倒されてしまい、声も震えながらの掠れ声になっていた。女性はエプロンをしており、図書館司書のような格好をしていたが、地味で薄化粧なイメージのある図書館司書に、このような派手な女性はある意味斬新でもあった。『ああ、瀬尾まいこさんの「そして、バトンは渡された」ね。ちょっと待ってて』そう言うと、テーブルのパソコンを老成した手さばきで叩くと『あらま…』と声を漏らした。『おじさん、この本、予約が30名も入ってるから借りられるのだいぶ先になっちゃうわ』鈴木は予期せぬ女性の返答にガックリとうなだれた。女性は束の間、迷ったような表情を浮かべた。『おじさんさあ、明日もここにおいでよ。私この本持ってるから貸したげるよ』ふいにそう言われて鈴木は慌てて否定した。『いや、そんなそんな、そんなの悪いですよ。予約して順番来るまで待つことにしますので…』鈴木がそう言うと女性は眉間にしわを寄せた。『娘さん、今すぐこれ読みたいんでしょ?』『はあ、まあ』『だったらぐちゃぐちゃ言わないで明日もこの時間にここに来なさいって』女性は鈴木の肩を無遠慮に叩き、笑顔を見せた。鈴木は信じられないほどに小顔で綺麗な笑顔に見惚れてしまい、金縛りのような状態になってしまった。それが鈴木浩一と司書の猫下環とのファーストコンタクトであった。『おじさん、鈴木浩一って名前なんだ』女性は鈴木の図書カードを見て、右手に持ち、ひらひらと揺らしながらおどけた口調で言った。図書館司書って全てがこんなにシニカルな人たちばかりなの?と少し勘ぐりながらも、いやいやそんなわけはないと、妄想を振り払うかのようにかぶりを振った。『じゃあさあ、おじさんのこと、これからすずピッピって呼んでいい?すずピッピか、またはスピ』鈴木は何の躊躇もなく、そう初対面の中年男性相手にそう切り込んでくる若い女性に戸外に飛び出したくなるほど狼狽し、赤面してしまった。『すずピッピはさあ、読書は好きなの?』まだあだ名で呼ぶことを許可していないうちに女性は切り出し、遅疑逡巡ちぎしゅんじゅんとしていた鈴木を出し抜いた闊達かったつさ所以はむしろ痛快なほどで、思わず苦笑してしまった。『ええと、猫下さんで宜しいですか?』鈴木は女性の名札を凝視して尋ねた。『ん?』猫下と呼ばれた女性は、キョトンとした表情で鈴木を覗き見た。『あれ?名前言ったっけ?』と言いながらひらひらと振っていた鈴木の図書カードを手渡した。『あ、すみません、名札を見て…その…』『スケベ…』機先を制すように女性から言われて鈴木は赤面しながら狼狽えた。『すずピッピのスケベ、どスケベ、オタンコナス』初対面の女性から、あだ名で呼ばれた上に奇をてらうような発言をされて、鈴木はますます慌てたが、女性は含み笑いとも受け取れるような笑みを浮かべた。『冗談よ、冗談、私の名前は、猫下ねこしたたまきピチピチの20代で、サンドーム図書館の司書であり、副館長』名刺を渡された鈴木は、茶々を入れてくる環に対し、ちょっとすかされたように気勢をそがれたが、若くして副館長というキャリアに驚きを見せた。『で、どうなの?読書は好きなの?』歴史物が好きな鈴木は、北方謙三や吉川英治の「三国志」は全て読破し、漫画版でも横山光輝の作品は全て読んだ。「ジョジョの奇妙な冒険」はシリーズ全作品持っているので、読書を趣味と言ってもあながち嘘ではないのだが、亡き妻の読書量に比べると、自分はその10分の1も把握しておらず、見解の無さと自堕落具合に、穴があったら入りたくなるほどに赤面した。『嫌いではないです…これから好きになろうと思っていましたし…』『ホントに?』環はぐいと鈴木の目の前に詰め寄り圧をかけてきた。『は、はい、ホントに本当です』環はよしっと手を叩いた。『じゃ、明日、必ず本を持ってくるから、ぜ〜ったいに取りにくること。分かった?』『は、はいい!』『もし、来なかったら全力デコピン300発と電気アンマだからね』鈴木はその凄まじい圧に背中に嫌な汗を浮かべながらも、首がもげる程の勢いで頷いていた。『よしっ』とガッツポーズをした環は、デコピンで何度も何度も対峙した相手の額を中指で弾くような素振りをして、屈託のない笑みを見せた。鈴木は環の容赦無い無言のプレッシャーに怯えながらも、ここまでお膳立てしてくれたことには本当に感謝していた。翌日、約束の時間に図書館に向かった鈴木は、カウンターにいる環を見かけて、足取りも軽く、人の隙間を抜けて環のいるところまでやってきた。『あ、すずピッピじゃん。残念、来たんだ。デコピンと電気アンマの練習してたのに』環はそう言いながらも笑みを見せた。ほいっと環は半透明のビニール袋を鈴木に向かい突き出した。頭を下げてビニール袋を受け取ると、中には大切に読み込まれた瀬尾まいこさんの「そして、バトンは渡された」が入っていて、所々に付箋が貼られていた。『娘さんが読んだら、すずピッピも読んでみたらいいよ。凄く良い内容だからさ』『すいません、ここまでしていただいて、何と御礼を言ったらいいか…』鈴木は初対面であるにも関わらず、こんなに親切にしてもらい目頭が熱くなっていた。『あれ?もしかして…すずピッピ泣いてる?』環にそう指摘され、慌てて目の淵をぬぐう。『泣いてませんよ…男の子ですから』『男の子って歳じゃないやん。白髪交じりのおじさんやん』環に言われて、鈴木は思わず苦笑した。そうこうしている間に、他の利用客たちが、環のカウンターに本を持って並ぼうとしていた。『ほら、もう行きな』と環はそう言って手をひらひらさせた。鈴木は踵を返し、自動ドアに向かって立ち去ろうとしたところで、何かを思い出したように立ち止まり、改めて環の顔を凝視した。『猫下さん、オレ、読書必ず好きになります。好きになれるように努力します』周りの利用者たちは、一瞬、愛の告白かと勘違いしたようで、全員がキョトンとしていた。環は白い歯を一瞬見せて頷いた。『いいから、早う読みんさい!』と手をひらひらさせて追い返す仕草を見せた。鈴木はつい笑い、頷くと、一呼吸置き、再び踵を返した。自動ドアの手前まで歩き、改めて環に向いて一礼すると、図書室から出て行った。その衝撃的な出会いからはや三年が経過し、鈴木はTwitter(現X)の中ではすっかり読書垢の御大的な存在となり、娘の叶愛かのあも読書にハマり、連日図書館に通い、環にもすっかり懐いている。ただし亡き妻である梨沙りさの三千冊以上はある書斎は、現在も誰にも読まれることはなく、心の整理もつかないままに、そのまま放置されている。

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