第5話 鈴木浩一さんの憂鬱

『はあ…』図書館の地下の駐車場の片隅にポツンと立つ喫煙室の中で、鈴木は今日何度目か分からない大きなため息をタバコの白い煙と共に漏らした。人のため息を何度も聞くほど嫌なことは無いと、環は眉間にしわを寄せて、長身の鈴木を上目遣いに覗き見る。『何かあった?』環が尋ねると、鈴木はぎょっとした顔を浮かべて、タバコの煙で数回むせていた。『あ、いや、不快にさせてしまったらすみません』と鈴木は吸いかけのタバコを灰皿に押しつけてもみ消した。『いいから、何があったの?』と環は仁王様のような姿勢で、鈴木の逃げ道を塞いだ。『いや、あの、その、娘と進路の件で喧嘩しちゃいまして…』鈴木は背中に冷たい汗をかきつつ、しどろもどろになりながらも、眼前で眉をひそめる環に説明した。『確か…高校生だっけ?』環は冷めてしまった缶コーヒーを飲みながら尋ねた。『うん、高2』鈴木はタバコを吸い終えてからも、どこか上の空で、虚空を見上げながら答えた。『相変わらずお笑いの学校に行きたいって言ってんの?』『はい…』以前、学校の文化祭の出し物で、娘と友人がコンビで披露した漫才が大ウケしたらしく、それ以来、高校を卒業したらずっと、お笑いの本場である大阪のNSCに通うと言って聞かない話をだいぶ前に鈴木は環に漏らしてた。家内を早くに亡くして、男手一つで育ててきた鈴木としては、地元の大学か専門学校に進学して欲しいらしく、このところそれで娘とずっと揉めている。残業で忙しく、帰りが遅れている鈴木に娘が夕食を用意してくれているのが唯一の救いであった。『私としては普通に大学に進学して普通に就職してもらえれば何も言うことは無いんですけどね…』鈴木の言葉に環は眉をひそめた。『てかさあ、すずピッピ、そもそも普通って何?』環に食い入るように質問され、鈴木はくわえタバコのまま仰け反るような姿勢を見せた。『あ、いや、その、猫下さんを不快にさせるつもりは無かったのですが…』環のピリピリした威圧感を感じとり、鈴木はしどろもどろになりながら、気圧されたように息を吸い込んだ。『そもそもさあ、普通であることが正しいなんて昭和のおとぎ話だよ。普通なんて、簡単に入れ替わるし、脆いものなんだって、知っておかなきゃ』環は鈴木の退路を塞いだまま凛とした姿勢で上目遣いに睨みつけた。『普通か普通でないかって下らない判断そのものを手放してさあ、あるがままを受け入れる姿勢を目指した方が良くない?』じんわりと距離を詰めてくる環に対し、鈴木は頷きつつ先を促した。『私だって、そんな奇抜な格好で図書館の司書やるなんて普通じゃないよって、心無い利用者さんから言われたりもするよ。館長に文句を言う人だっているしさ。でもそんなことでイジメたり、差別されたりするのって、それこそ変だよなって思うわけ。LGBT及びGID(性同一性障害)にしてもそう、多様な人たちが互いに認め合うカタチの世の中になって欲しいって心から願うよ。まあそんなこと言っても無理っぽいけどね』環は鈴木に聞こえるほど大きなため息をついた。『私としては結局、人それぞれ違うことが当たり前か普通なんじゃないの?って思うわけよ。だからすずピッピの娘さんが芸人目指すのだって、普通だよ。普通。猫になりたいとか言ってるわけじゃないんだからさ』環は少し間をおいて、持っていたラッキーストライクをくわえて火をつけた。『毎日毎日同じように安心を繰り返したいのが普通なら、明日はどうなるかわからんような冒険をすることも普通だよ。そもそもこの普通って言葉自体、私は大嫌いなんだけどね』環の言葉に鈴木は何度も頷いていた。『人との出会いや環境とか色んな関係性の中で、少しずつ違和感減らして、これが普通なんだって基準を作る大人には私はなれないし、なりたくない』環は鈴木の眉間を凝視しながらきっぱりと言い切った。『私だって、両親から、中堅大学の文学部で文芸学科なんて就職に不利なだけだから、もっと普通に有利なところに進学しろとか散々言われたよ。てか学生に選民思想を植え付けて、大企業で働き続けることこそが正しいことなのだって洗脳されるのって本当にどうかしてるよね。どんな美辞麗句を並べられても心が揺らぎもしないもの』ここまでスッパリと環に言われるとは思わず、鈴木は苦笑した。同時に知らぬうちに娘を押さえつけようとしていた自分に恥ずかしくなった。『それにさ、すずピッピだって、心から反対しているわけじゃないでしょ?その証拠に、その持ってる本。漫才の小説じゃん』環は鈴木が大事そうに抱えていた本を指差した。それは浜田倫太郎氏の「ワラグル」であった。『ええ…まあ、お笑いというか、漫才というのが、どんなものなのか知っとかないとなあって思いまして』鈴木は照れくさそうに鼻の下をかいた。『いいじゃん、浜田倫太郎さんって元構成作家だし、「ワラグル」は漫才にかけるお笑い芸人の生き様がしっかり書かれた傑作だと思う』『ちょっとしたミステリな味つけもあるし、何よりも芸人の生き様が事細かに描かれているのが嬉しいよね』鈴木は年に千冊以上読むという環の慧眼振りに驚きを見せた。『なるほど、ありがとうございます。今日さっそく帰ってから読んでみます』借りた本が間違いなかったことを知り、鈴木は安堵の表情を見せた。『著者の浜田倫太郎氏が影響を受けた伝説のハガキ職人のツチヤタカユキさんっているんだけど、この方の著書である「笑いのカイブツ」って作品が凄くいいの。もう、努力の天才だもん。ツチヤさん。寝る間も惜しんで、アルバイトの時でもネタを考えていたくらいだからさ』『ほう、ツチヤタカユキさんですか?』『そう、「笑いのカイブツ」は是非とも読んでみて、もうお笑いで生きていく大変さが赤裸々に描かれているから』環は話を続けた。『辛い現実、一度や二度の挫折って必ずあるし、そっから再起するのかシフトチェンジするのか決めるのは自分しかいないじゃない。だからすずピッピが娘さんのこと気に掛けるのは分かるけどさ、心配したって最終的にはなるようになるって』環は低い声で言葉を連ねると、鈴木は少し硬い表情で頬を赤くした。『私が子供の頃からずっと応援していた作家さんがいて、その人が13年振りに新作を作ったの。もう、出版社も凄いチカラの入れようで、初版から数十万部を見越して、宣伝にもチカラを入れて、その作品がもう、物凄く素晴らしい出来栄えで、読み終えて号泣したのは本当に初めてだった。けど…』環は瞳の下にうっすら涙を浮かべた。『何故か売れなかった。本当に売れなかったの。マニア向けで独りよがりの作風だったけど、私は未だにこれを超える作品に出会ったことがないもの』環の声は震えていた。頬に一筋の涙が伝った。『初版で大量に刷ったから、売れ残ってしまった数十万冊の作品は自腹で作者が引き取ることになった。元々そういう契約だったからさ。こんな残酷な話ってある?これが日本の出版業界の現実だよ。出版社に入るのは売れた分の書籍代、著者に入るのは僅かな印税、目先の金を稼いで出版社は作り逃げ。こんなふざけた話ってある?』環の話に鈴木は押し黙り、下を向いていた。『この作家さん、これからどうやって頑張ればいいの?セールス残さなきゃ、次のチャンスなんて訪れないんだし、作家の胸の内を思うと、何も出来ない私が辛くて…せいぜいつてを頼って、友人や書店、周りの図書館に売り込むくらいだよ。せめてその作者が自棄を起こさないように祈るくらいしか出来ない。関係者の話では、当面は家に引きこもって、アルコールに逃げてそこら辺を徘徊しているって聞いたけど』人は挫折すると彷徨ほうこうするというのは鈴木も聞いたことがあった。『この国は報われることの方が圧倒的に少数派なんだし、失敗を恐れて何もしない方が堅実派なのかも知れないけど、それでも挑戦したことへの軌跡だけは私の胸に刻み続けたいんだ。青臭いことを言ってるようだけど、私個人は挑戦する人すべてが報われてほしい。そんな世の中になって欲しい』鈴木は目頭が熱くなり、神妙にしていた。環も語り終えて目の淵を赤くしていた。胸が張り裂けそうな思いで環の話を聞いた鈴木は、その後、何度も何度も頷いていた。『娘さんと話し合える?』と環は鈴木の顔を覗き見た。『多分、いや、きっと、大丈夫だと思います』と鈴木は答えた。芸人さんだって、次々と新しい風にのり新しい世代がやってくる。こつこつと地道に活動する姿は砂漠に生える赤い花のようなものだ。枯れたっていいし、風に飛ばされても良い。そのときどきで一瞬だけ輝いてくれれば。と鈴木は心からそう思った。『猫下さん、ありがとうございました。オレ、もう行きます』鈴木は挨拶もそこそこに、娘から預かったNSCの願書を手に取り、走って家に向かった。

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